ツバメの子育ても一段落
心にかなりの確率でモヤモヤ。自分の周りの状況を考えたら、本当はもっと幸せを感じればいいのに。書くことは癒しになると信じてブログを始めた大和イタチです。
7月に入り、このあたりのツバメの巣もほとんどがもぬけの殻となりました。先月書いた、コンビニの配電盤上の雛たちもどこかへ行ってしまいました。駅の軒下にある別の巣では、親の出入りはありませんが、巣の端から1羽の羽の先端が見えます。巣立ちが遅れた雛が夜の間、巣でじっとしているのか、それとも餌がもらえなくなり命が尽きてしまったのかもしれません。
ついこの前まで、親ツバメは1分ほどの間隔で次々と雛に餌をやっていました。いったい何をやっているのか、調べてみると、ツバメは主に飛行中に虫を捕食し、めったに地上に降り立つことはないそうです。一日中、何百、もしかすると千匹以上の虫を捕らえ、雛に与えていることになります。子育て期のツバメが、これだけの時間虫を捕まえているのなら、逆に雛が巣立った後は何をして時間をつぶしているのだろうと変なことを心配したりします。
食べられる虫のことを考えてみた
想像力をツバメから、食べられる虫へと働かせてみます。町の中でもあちらこちらにツバメがいて毎日数百数千の虫を捕まえているということは、その数千数万倍の虫がいるということになります。
マンボウは一度に一億以上の卵を産むそうです。日本の人口に近い数ですね。マンボウほどではないにしろ、虫も大量に発生します。どんなに町の中でも虫はいます。見えにくいかもしれませんが、何か食べ物があれば虫はやってきます。
そんな虫たち、一度に数千の兄弟姉妹と共にふ化しますが、そのうち何割がツバメに食べられるレベルのサイズになるのでしょうか。ツバメに食べられるということは、ある程度(ツバメの目につくぐらい)体が成長したということ。そこまでの大きさになる前にツバメより小さな捕食者にどれだけ食べられたのでしょう。
ツバメに食べられなかった虫たちも、遺伝子に書かれたプログラムを終えて死んでいくものは、総数の中でどれだけなのだろう?
おそらく、食べられることなく生涯を終える虫はごくごくわずかな一部分でしょう。圧倒的多数の虫たちは、食べられるために生まれてきます。虫には言語がないので「食べられるため」という概念はないでしょう。が、結果的に「他の捕食者に食べられるために生まれてきている」と言えるぐらい、多くの虫が天敵がいない状態ならもっと生き延びられるポテンシャルを残したまま死んでいきます。
虫は、種としての一生や他の虫のことを観察する視野を持たなく、何も感じないでしょうが、こうして私が虫を人に置き換えて考えてみると、なんだか虚しくてやるせない気持ちになります。知らないうちに生を受け、大多数が天寿を全うすることなく捕食者の口に入りその生涯を終える。なんとも言えない気分です。
天寿という幸運
そもそも私がこういう風に考えることができるのは、人間が年寄りになるまで生きられることがスタンダードになっているからで、これは生物界で考えると唯一といえるぐらい例外状態です。いわゆる”自然状態”では、生物は捕食されて一生を終えることがほぼすべてです。捕食されない例外は食物連鎖の頂点にいる種ですが、これらの種も個体数の維持は周りの環境に大きく依存しています。人間が都市を作るような、同一種の過密状態を作り出すことはできず、同種で殺し合いをしてでも、特定の個体を維持できる密度を守ろうとします。
こう考えると人間だけが特別な位置にいることがわかります。私の頭に浮かぶその理由はいくつかありますが、ここでは書かず、また別の記事で考えてみたいと思います。
今日一日捕食される心配をすることなく生きられるは、動物界ではありえないぐらいのことでしょう。私のモヤモヤも、明日以降生きていることを前提にして心を覆っています。こう考えると、人間でラッキー、食べられるよりモヤモヤの方がいいか、と思えてきました。まあ、自分より下をみて浮力を得るような考えかもしれませんが。そして動物のことを忘れたころ、またモヤモヤがやってくるのかもしれませんが、とりあえず今は気分がいいです。
モヤモヤ ⇒ ⇒ ⇒ 幸せ?
”人間は明日以降生きられることを前提に生活設計できる唯一の動物でラッキー”