1995年冬 ロンドン
1995年の3月、僕は初めて海外旅行を行った。成田からブリティッシュエアーの直行便で着いたロンドンヒースロー空港が、海外第1歩を踏み出した場所。
ロンドンに5日ほど滞在し、ユーロスターでフランスへ渡り、そこからは予定を決めず一月かけてヨーロッパを旅した。
その年の10月、僕は大学を休学しロンドンへ渡った。初めて降り立った海外の地、つまりロンドンの印象が僕にとって強すぎたのだ。「ここに住んでみたい」そう思った僕はそうするための理由を考えた。もちろん親を説得するために。
「語学学校で英語を勉強したい」両親はこんな幼稚な理由を言う息子に対してお金を与えてくれた。今思い出しても自分は恵まれすぎていたと思う。英語の勉強がしたいのなら日本ですればいいじゃないか。本当に行きたいのなら自分でバイトでも何でもして行くべきではないのか。苦労をすることなく安易に親に頼るメンタリティーが今のモヤモヤにつながっているという確信はあるが、それはまた別の話。とにかく僕はこの年の秋から5か月間ロンドンに滞在することができた。
ホームステイしていた郊外の家から週に5日市内中心部ウォータールーの語学学校へ通う生活が始まった。学校で英語を学び、あとは好き勝手に過ごす、今から思えば夢のような生活だ。お金を稼ぐ必要も家族の面倒を見る必要もない。僕の人生で次にこんな生活ができるのはいつなのだろう。または、それを目指して今から人生設計をやり直してみる価値があるかもしれない。
とにかく時間のある生活なので現地でよく遊んだ。
そのころから僕はハードロック(HR)・ヘヴィーメタル(HM)に夢中だったので学校から帰りがけロンドン中心地、SOHO周辺の中古CD屋をハシゴした。Iron MaidenやJudas Priestといったメジャーどころの人気はどちらの国でも変わらないが、ジャーマンメタルやイングヴェイなどの扱いが日本と比べ小さかったことも印象的だった。
自分がどういう将来を送ることになるのか、漠然とした気持ちを抱えたままの渡英だったが、そんな不安を街を歩き自分にとって目新しいものを発見することでごまかしていた。
今はすべてネットで検索できる時代だが、その当時街のイベントを探すにはタウン誌が便利であった。ロンドンにはTime Outというタウン誌があり、この巨大な都市で起こるイベントが詳細に紹介されていた。僕はキヨスクでその雑誌を買い、時には学校で知り合った友達と、ある時は一人でクラブやライブハウスのイベントに参加した。
Motorhead at The FORUM
ロンドンはメタル好きにとっては夢のような街で、有名なバンドのコンサートが目移りするほど頻繁に行われている。しかも来日コンサートに比べると格段に安い。滞在した5か月間の中、いくつかのバンドを見に行ったが、その中の2つは四半世紀以上経ってもずっと心に残り続けている。
1995年11月2日、僕は生まれて初めてモーターヘッドを見た。ロンドン北部Kentish TownにあるThe Forumというコンサートホール。日本のホールしか知らなかった僕にとってその石造りで荘厳な外観の建物は博物館にしか見えない。「こんな歴史を感じさせる立派な建物でモーターヘッドを見られるのか?」半信半疑で建物へ入る。
内部はステージを正面に放射状のアーチを描くように広大な観客スペースが広がる。そして、そこには椅子が無い。ただコンクリートで舗装された床の上に人々がひしめき合い、ビールを片手にタバコを吸っては床に捨てている。
日本の施設に慣れてしまっていた僕にとっては信じられない光景。しかし、これが真のロックの楽しみ方なのか。彼我の現状の違いに、僕もビールを飲みながら感情が嫌が上でも高ぶってくる。
前座(名前は忘れた)が終わり、観衆が前へ前へと動き出す。僕もレミーを見るため人をかき分け右前へと進む。興奮した一人が”Come on fuck’in Motorhead!”と叫ぶと、周りがそれに唱和する。
会場暗転、Ace of Spadeのイントロで会場の興奮が極へと達する。会場のあちらこちらでモッシュが起こる。首に入れ墨の入ったお姉さんがシャウトしている。
この時点で20年のキャリアがあるバンド。どの曲を演奏すれば盛り上がるのかわかっている。Overkill,Motorhead,Bomber, Killed by Death,歌詞は分からないがとにかく飛び跳ねて一緒に歌う。僕が密かに好きな曲、スローテンポのOrgasmatronを演奏してくれたのは嬉しい誤算。申し分ないセットリストに大満足する。
今のように動画が簡単に見られる時代ではない。情報通り、ベースをギターコードをかき鳴らすように演奏するレミーを見て納得する。そしてBurrn!に書いてあった通りの爆音、曲の合間に耳鳴りを感じる。
それにしてもレミーのこの威圧感、貫禄、写真以上にオーラを発している。僕は彼と一瞬目が合い(気がする)、恐怖を感じた。この人はこのままの姿で永遠に生き続けるのではないか、という気持ちになる。
OZZY at Brixton Academy
モーターヘッドから2週間後、11月18日のオジーのライブも忘れることができない。今まで見たHR・HMライブの中で一番印象に残っている。
ロンドン南部、当時治安がよいと言われなかった場所ブリクストンに、ロンドン最大級のコンサートホールBrixton Academyがある。こちらもThe Forumと同様年季の入った立派な建物。これを見るだけでも「これから体験する非日常」を連想させてくれる。
内部はThe Formより一回り以上大きいが、オールスタンディングで飲みながら吸いながらライブを体験するという姿勢には変わりがない。
この日は前座のフィアファクトリーが、かなりいい演奏を行った。インダストリアルメタルと呼ばれた彼らの楽曲は、無機質で鋭いリフと時折見せるメロディアスなパートとの対比が面白く、観客も飛び跳ねて大いに盛り上がった。「ひょっとしたら今日のオジーはこのバンドに食われてしまったかもしれない」と思わせるほどだ。
しかしそんな僕の心配もオジーの前には杞憂に終わってしまった。ブラックサバス時代から名曲を積み重ねてきたオジーオズボーンだ。聴きたい曲を一通り並べるだけでも一度のステージでは足りない。どんな曲を演奏しようとその時代のファンがいて必ず盛り上がる、その下地ができた状況でのライブで盛り上がらないはずがない。
サバス時代の曲、ランディー・ローズ、ジェイク・E・リー、ザック・ワイルド、それぞれ彼が育てた偉大なギタリストたちが在籍していた時代の楽曲がバランスよく演奏されていく。
当時40代後半だった彼は精力的にステージを走り回り、何度もジャンプし、ズボンを下ろしてケツを出し、放水銃で水を撒き、客を扇動する。長いキャリアの中で何をすれば客が喜ぶのか、彼は熟知していて、客の方も何が起こるのかわかっていても乗せられる。
演者と観客が一体になったライブとはこのことを言うのだろう。僕はつい先ほど感動したフィアファクトリーのことなど忘れてオジーのパフォーマンスに没頭した。アンコールでCrazy TrainとBark at the Moonを聴きながら、僕は「この瞬間がずっと続けばよいのに」と思った。
二人に励まされる時
2010年、レミー・キルミスターのドキュメンタリー映画「極悪レミー」が上演された。兵庫では上演の期間と場所がかなり限定されていたため、僕はリアルタイムで見ることはできなかった。しばらくしてDVDが発売されたが、購入せず、その映画のことは僕の脳裏から消えていった。
5~6年前、僕は仕事のことで悩んでいた。夜遅く帰宅し、お酒で気分を紛らわし、翌朝嫌々出勤する日が続いた。ずいぶん不機嫌な顔をしていたと思う。この時のことを思い出すと家族に申し訳なく思う。
僕は無性に「極悪レミー」が見たいと思った。買いに行ったが販売から数年を経て、大きなCDショップにもそれは置いてなかった。僕はその日の内にアマゾンで「極悪レミー」を注文した。とにかく一刻でも早くレミーの姿が見たかった。
DVDが到着し、僕は繰り返しその映画を観た。モーターヘッドのツアーの様子、レミーの住むロサンゼルスの街並み、関係する多くのアーティストのインタヴュー、レミーを中心にその周りの世界が淡々と描かれていく。
観ていて不思議と心が癒された。何才であろうと、どこにいようとレミーはレミーだ。コーラのジャックダニエル割りを飲み、マルボロをふかし、サンセット通りのレインボーでゲームに興じる。曲を作り、アルバムを出し、ツアーを行う。家を持たず、家族も持たず、ひたすらロックンロールを行う。
僕のような凡人には憧れても決して真似のできない人生。仕事で家庭で様々なことに影響され、悩まされ、感情と行動の芯がぐらついていた僕にとって、破天荒だが決してブレないレミーの生き方は勇気を与えてくれるものだった。
オジーは違う意味で僕を励ましてくれた。
屈強で死にそうにないレミーに比べて、オジーはどこか弱々しい部分を持っている。ホークウィンドを辞めされられ世界一うるさいバンドを作る決意をしたレミーに対し、ブラックサバスをクビになったオジーは引き籠って自暴自棄の暮らしをしていた。
ランディー・ローズとの出会いを経て立ち直るが、その彼の死がオジーを再び地獄の淵に突き落とす。高校生の時に読んだ伊藤正則の記事に「オジーは泣いてばかりいてインタヴューにならなかった」という内容が書かれていた。
メタルの帝王である一方で妻や子供に振り回され動揺したり落ち込んだり、そんな姿を彼のTVドキュメンタリー「オズボーンズ」で見た。10数年前に洋書で出版された彼の自伝のタイトルは”ORDINARY PEOPLE”だった。そこには破天荒な人生と同時に”普通の”よき父親であるオジーの姿も描かれていた。
メタル界を代表する存在でありながら、僕たちと同じダメな部分や弱さを持つオジー・オズボーンに親近感を感じる人は多いと思う。僕もその中の一人だ。
I don’t know whether I should thank the guy who gave me my first drink or kill him.
Ozzy & Sharon Osbourne “ORDINARY PEOPLE” P15
僕は、お酒と仲良くお付き合いできなかった翌日、オジーのこの言葉で自己嫌悪から立ち直る。
そして時は過ぎ…
今年の始めオジーがパーキンソン病にかかったという報道があった。芝刈り中に怪我をしたとか、シャロンと別れるとか、ここ近年オジーに関してあまり良い知らせを聞いていなかった。
彼の曲は聴くが”オズモシス”から後の作品は何となく手が伸びていかない。70歳を超えるオジーの画像をネットで目にしてハッとした。ずいぶん年をとったと思った。今まで何度も引退宣言をしては復活してきた彼であるが、難病のもと彼のパフォーマンスが再び見られる可能性は低いであろう。
レミーも2015年12月、この世から去った。前月までライブを行い、死の直前までレインボーから自宅へ持ち込まれたゲームをしていたという。
当たり前のことだが人は1秒1秒、どの瞬間であろうと歳をとっていく。言い換えれば、見えない死へ近づいて行くということ。今のオジーの画像、晩年のレミーの姿に物理的な減退を感じたこの僕自身も、同じ年月の分だけ衰えているはずだ。
あの忘れがたいロンドンでのライブからずいぶん時が経ち、僕ももうすぐ当時の彼らの年齢になろうとしている。ということは、あのライブから今までと同じ時が経てば…。
月並みな表現だが「後悔しながら死ぬ人生」は送りたくない。そのためにはどうしたらいいのか。ORDINARY PEOPLEでのオジー最後の言葉。
I do not want to be the wealthist man in the graveyard.
Ozzy & Sharon Osbourne “ORDINARY PEOPLE” P342
中年になった僕の心にしみわたる。
そろそろ本気で考えてみたらどうだろうと思う。