ブログを書きながら自己嫌悪
前回の投稿「休日の焦り」を書きながら自分に対し悲哀を感じてしまった。心を整えるためのブログであるが、書いていて気づかされる自分の闇に心を乱されてしまう。これも上昇する前の底のようなものだと思いたいが、自分のことが嫌になってくる。
この自己嫌悪の仕組みも精神を守るための1つかもしれない。自分を嫌うということはそうしている他者がもう1人自分の中にいるということ。その他者は自分でありながらもう一人の自分よりは少しマシなポジションにいる。
「二人ではなく、もっと多くの人間が自分の中にいて、その人たちが会話をして合意した考えに従って行動できたらもっと楽な気持ちになれるかな」などと考えてみる。1つの強固な人格を持つことを要求され始めたのはそれほど昔じゃない。
「お前はいったい誰で、何がしたいんだ」
僕も知らず知らずのうちに、この言葉の呪いにはまっているのかもしれない。あるべき自分と現実との乖離。今の時代に生きるということはこれに苦しむこと。そもそも「あるべき自分」を持たなくてはならなくなったのはなぜだろう。「理性」の発見とそれを用いた科学の発展に関係していそうな予感がするが、浅学の僕にはそこから思考を進められない。
この頭でっかちで普通に休日の過ごせない僕。無理やり平日に1日休みを取り、何も考えず過ごそうと決めた。思考の世界から感覚の世界へ。この固い頭を少しでもほぐしてみよう。
平日の休日
普段はギリギリまで寝ていたい僕であるが、平日にも関わらず仕事が無いと分かると早起きしてしまう。6時前には起床し、お茶を沸かしアイロンのスイッチを入れる。
今日は何も考えずに自分の感覚だけにすがり怠惰な一日を送ろうと思っている。しかしシャツにアイロンをあて始めると気持ちが落ち着かない。アイロンで皺を伸ばしていく。霧吹きでかけた水分が蒸気に変わるのと同時にシャツの皺がとれていく。無秩序から秩序が現れる。
それだけで気持ちよく、心が満たされる行為なのに何かが足りない。今までアイロンがけをしながらTVやi-podで語学学習をしてきた。「効率性」という呪縛が僕の手をリモコンへと向かわせる。
結局”Journeies in Japan”という英語番組を見ながら30分ほどアイロンをかける。ここまでは普段の休日と何も変わらない。
妻が起きてきたので一緒に朝食を食べる。妻に今自分が考えていることを伝える。語学、読書、家事、身の回りのこと、これらを効率的に行えない休日に今まで苦しんできたこと。今日は、それらの呪縛から離れて怠惰な一日を過ごし、そんな自分を認めてあげようと思っていること。
妻には僕がなぜ苦しんでいるのかよくわからない。「なんでそんなにいろいろ考えるん?」「休みなんだから何も考えず普通に過ごしたらええやん」。
妻を見ていると幸せそうだ。実際に「私は幸せだ」という言葉をよく口にする。彼女の「普通に過ごす」は、精神にも肉体にも負荷がそれほどかかっていない状態。僕の「普通」は「~しなければならない」に縛られた状態。体はまだついていけるが心が追い付かない。
朝食を終え新聞を読み終わると、何をしたいのかよくわからない。コーヒーを入れる。すると普段の習慣で英語のテキストを手に持っている自分に気づく。「まあいいか。これで心が落ち着くのなら」と思いそのままコーヒーを飲みながら音読をする。
音読をしていると9時を過ぎる。もうすぐ「実践ビジネス英語」の放送時間だ。ラジオをつけてテキスト3月号を開く。放送が終わり、僕はため息をつく。「普段の休日とやっていることが全く変わらないじゃないか。心の様子も」
先日、NHK第2放送「カルチャーラジオ」で聞いたフロイトの言葉が心に浮かぶ。
「人は常に苦しみたがる」
モヤモヤに慣れてしまい、そこから抜け出そうともがくよりも、現状維持を受け入れる方が楽であるということだろうか。しかし彼はこんな言葉も残している。
「幸福になる方法は、自分で実験してみなければわからない」
僕は英語のテキストを閉じて家を出た。
スーパー銭湯の休憩室
「語学も教養も身の回りの手入れも何もなし。今日はマンガの日」
頭に浮かんだことを実行する。
そういえば明石の「龍の湯」の休憩コーナーは、スーパー銭湯の中でも有数の広さでマンガも大量に揃っている。僕は明石へ電車で向かった。最寄り駅の一つ前で下車し散歩を楽しむ。
ふと油断するとi-podで語学を聞きながら歩いている。運動と語学の両方を効率よく行いたいという長年の癖で、何も聞かずに散歩を楽しむことができなくなっている。慌ててイヤフォンを外す。
天気は良く、春を感じさせる風が心地いい。コロナの影響で休校になり公園で遊ぶ子供たちの元気な声が聞こえてくる。線路沿いに歩く。列車の種類によって通過する音が違う。慌ただしく列車が通った後は、波の音が際立って聞こえてくる。「何も聞かずに散歩するのもいいな」と思う。
約2時間の入浴とサウナを楽しみ、併設の食堂へ入る。ガッツリと汗をかいた後のビールはいつもに増して美味しく感じられる。適度に食事をとり2階の休憩室へ。
休日はすぐ満席になるリクライニングシートも今日はいくつか空いている。数冊のマンガを手にして体を椅子にあずける。
「時間があったら1日中マンガ喫茶にいたい」
僕が同僚によく言う言葉だ。しかし「時間があったら」の時間を僕は作ろうとしてこなかった。実際に時間はある。毎週2日の休日と年に20日の有給休暇。息子たちも、休みの日に父親と過ごす年齢ではない。実行しようと思えばいつでも可能な事。僕はそれができなかった。自分を縛る「~すべきこと」の数々を崩すことに恐怖を感じていた。たかだか1日マンガを読んで過ごすことを許せない人生って何なのだろう。
程よい酔いと軽い眠気の中、マンガを読み進める。「今日はこのままここで眠り落ちてもよい」そう思うと気持ちが楽になる。普段は語学学習に割り当てた時間に昼寝をしてしまうと、後悔の念に苛まれた。気持ちいい昼寝も後出しジャンケンで「無駄なもの」という意味を与えられる。可哀そうだ。
直感で選んだ「ソムリエール」「悪の教典」「猿ロック」を1巻ずつ回し読みしていく。どのマンガも面白い。「こんなアイデアがよく浮かぶな」と思う。
三種類の漫画がそれぞれ4巻まで進むころ日が落ちてきた。
帰りながら「今日はイタリア語できなかった」と心に浮かんだが、「それもアリか」とも思えた。
今まで通り「~すべきが詰まった充実した休日」と、今日の後半のような「何も考えなくて過ごす休日」のバランスを考えていけばいいのかと思う。ただし、今日のように意識して過ごすのではなく自然とできるようになればモヤモヤも減るだろう。
「そのためには~」などと考えるのはやめる。思考が勝ちすぎるとろくなことにならない。
どんな自分でも認めて許してあげる。たとえ計画通り物事が進まなくても。そもそも、なんのための計画なのか?幸福を感じながら生きてていくより大切な計画?
長い時間をかけて凝り固まった僕のこの思考法、すぐにほぐれるとは思えない。落語の「あくび指南」の登場人物のような気分になる。あれこれ考えながらあくびをしようするが上手くいかない。これは僕の状態だ。それを退屈そうに見ていて見事なあくびをする。これは妻か。どちらにしてもたかが「あくび」だ。うまくいかなくてもどうってことはない。