社会科教師
私にはたくさんの趣味があります。
バイク、サウナ、旅、立ち飲み、語学、読書、音楽、明石焼きなどですが、私の今までの人生を振り返ってみると、一番古いものは鉄道になります。
私は物心ついた時には鉄道が好きになっていました。
この分野にはいろいろなジャンルがあります。撮り鉄、乗り鉄、模型鉄、収集鉄、その分野は細分化される一方です。私は今は「飲み鉄」ですが、子どもの頃にはそのような色分けも明確ではなく、何となく鉄道全体を愛していました。
日本全国に路線網を持つ鉄道を愛するということは、自然と人文地理に興味を持つ人間になります。私は学校で勉強する科目の中で社会、とりわけ地理の分野に興味を持ちました。
中学校の時、ある社会科教師に出会い魅惑され、私の社会好きは決定的になりました。中学を卒業する15才の時には、私の将来の職業は中学校社会科教諭であると決めていました。
高校時代にもその思いは変わりませんでした。私に影響を与えた先生とも連絡を取り合い、社会科教師になりたいという思いは高まりつづけました。
高校3年生の担任との面談で「中学校で社会を教えたいから地元の大学の教育学部に行く」と言いました。実際に私はそこへ行くための勉強を行いました。センター試験を受けると、地理はほぼ満点でした。その他の科目も教育学部に入るには十分でした。
大学に合格したとき、私の将来の姿が浮かび上がってきました。公立中学で社会を教えている姿です。休日は地元の友達と遊んだり趣味を楽しみ、夏休みや冬休みには都会や海外に遊びに行き、そしてそれを生徒たちの前で楽しそうに話している、そんな姿です。
大学に入っても憧れていた社会の先生とは連絡を取り続けました。飲みに連れていってもらうこともありました、私にとって至福の瞬間でした。22歳までは、中学の時に描いていたような人生が展開していました。
その後私は当初の計画とは似たようで異なる道を歩み始めました。私は社会科教師にはなりませんでした。生まれ育った場所からも離れました。あれほど夢見ていた「歴史や地理を人に教える」というdotが消えました。
種火残っていた
仕事を始めてからの時間の経過は脅威的です。がむしゃらに走ってきた私も経験を重ね、ベテランと呼ばれる立場になりました。振り返ると、5年、10年という時の単位は一瞬で過ぎ去っていったような気がします。
「私の人生はあとどれくらい続くのだろう」
私は若い時分からずっと思い続けてきました。20歳の頃は「80歳まで生きるとして今までの4倍」、30才の頃は「多分平均寿命は上がるので3倍かな」というように考えていました。
45歳を超えると、もう「倍」という表現を使うことができなくなりました。そのことは嫌が上でも今自分は人生の折り返し点を過ぎている、つまり今からの方が短いということを私の心に刻みつけました。
しかも帰り道は明らかに後退戦を戦うことになります。気力、体力、頭脳の力は低下することはあっても向上はしません。
私は恐怖を感じました。そして思いました。
「私は今幸せなのだろうか」
身の回りを見ると私は満たされています。家族、健康、仕事、人間関係、趣味、すべてそろっています。しかし、私は満たされていません。心の中にいつもモヤモヤを感じながら生きてきました。
私は自分の心を調整し、分相応の幸福を感じるためにこのブログを書き始めました。自分の心の内を可視化し、客体となった私がそれを読むことで新たな私を作ります。
書くうちに、私が強くとらわれていることや無意識に避けようとしていたことも見えてきました。その中に英語に対するコンプレックスがありました。私は英語を勉強しつづけています。楽しみというより、義務感からの勉強です。裏を返せば自信がないのです。自分は英語の力がないと思い続けてきました。
文章を書くことは自分を変えてくれます。ブログを書き続けることは、私に潜む宿痾をあぶりだし、それとの対決を鼓舞してくれました。私は生まれて初めて実用英語検定を受けました。「続けても英語をができない私」というモヤモヤを解消するためです。
幸いにも英検1級に合格することができました。しかし、受験前に思い描いていたような「モヤモヤが解消された私」にはなれませんでした。相変わらず、理解できない表現や英語で表すことのできない感情があふれているのです。
思い描いたようなスッキリ感はありませんでしたが副産物はありました。
全国通訳案内士という資格があり、英検1級保持者は英語の試験が免除になるということを知ったのです。
私は試験について調べてみました。受験科目に「日本史、日本地理、産業・経済・政治および文化に関する一般常識」とありました。すべて社会科に関係した項目ではありませんか。
私の中で何かが光りました。ずっと前に消したはずの炎の中に小さな種火が残っていて、それが燃え上がってきたのです。今から1年と少し前、2020年の終わりのことです。
忙しいけど楽しい
私はワクワクしました。もう一度社会科について勉強ができ、そしてそれが私の新しい人生につながってくる可能性があるのです。
私はテキストを購入し勉強しました。それだけでは物足りないので、地図帳、資料集、高校の教科書などを用意しました。図書館に行き関連する本を借り続けました。
ここで新たな発見がありました。児童用の書籍が非常によくできていて面白く、ワクワクするのです。日本遺産や世界遺産、伝記、歴史シリーズ、産業や経済、日本の美術芸術、どのような分野にも多様な児童書があります。それらは、小中学生が対象なので、本質的な部分が中心に描かれているためわかりやすいのです。
私は数多くの書籍に囲まれながら勉強しました。毎週図書館に行くのが楽しみでした。英語やイタリア語も同時進行なので、自由な時間はほとんどありません。それでも私にとって全国通訳案内士の学習は、多好感に包まれる時間でした。
青春時代に夢見ていた景色、社会科を中学生たちに教えている私の姿。対象は外国人になりますが、学ぶべきことや伝えることは重なっています。私は、いつか現れるであろう私の話を聴く外国人たちの姿を先取りしながら勉強しました。
やはり社会科は楽しい科目です。それは、幼き日の私が最初の興味、鉄道を好きになって以来約束されていたことのような気がします。
次のdotは
去年の9月末に1次試験を受け、1月半後に合格を知りました。そこから1か月、日本文化に対する受け答えと逐次通訳の練習をしました。社会科と英語のハイブリットです。
私の力を注いでいるものがつながります。ここでも新たな発見だらけです。「懐石料理」や「神仏習合」といった要素を英語で説明する可能性は予測できましたが、「デキ婚」や「八百長相撲」の説明をする練習など初めてのことでした。
口頭試問の練習は脳のいろいろな部分を使うので、エネルギー消費が激しく感じられました。それでも何とか楽しみながら、時にはネイティブスピーカーの助けを借りながら行い、12月12日に大阪で試験を受けました。
「ダメならあと1年後か。長いな。でもまた社会の勉強ができるのもいいかな」と思うなか、先日結果が発表されました。
観光庁のHPにアクセスし、官報電子版の中に私の名前を確認することができました。私は全国通訳案内士の資格を得ることができました。
2年前はその存在すら知らなかったこの資格を得ることができたのは、遡ればブログを書き始めたことに行きつきます。
「中学で社会を教える」というdotが、形は変わりましたが四半世紀ぶりに私の前に現れ、そしてつながりました。
さて、「4月から私は全国通訳案内士として仕事を…」と言う風には行きません。このご時世、外国人観光客なんかどこにもいませんし、私は今の仕事がありますし、私の周りの状況も今はそれを許しません。
しかし、遠く離れていたdotがこうしてつながったという事実は私を大きく勇気づけてくれました。スティーブ・ジョブスのあのスピーチが浮かび上がってきます。
Again, you can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.
Steve Jobs スタンフォード大でのスピーチ
dotは前ではなく、振り返ってみたときにつながっていることが分かるもの。だから、いつかはつながることを信じて歩まなくてはならない。彼はそう言っています。
「イタリア語」「サウナ」「1級立ち飲み師」「明石焼き」「農業」…
私の前にはまだつながっていないdotがたくさんあります。それらが、これから私の人生でどういうふうにつながるのか、また思いもよらぬところから別のdotが現れるのか、とても楽しみです。