生き物
「こんなことでコロナの菌が防げるんかいな」
ある年長の方が職場でたまに出す言葉です。
「コロナを引き起こすのはウィルスであって細菌ではありません」
その度に私のおせっかいが出そうになるのですが、グッと我慢します。その方にとってウィルスや細菌という分類はどうでもいいことに思えるからです。「とにかく目に見えないほど小さくて体に何らかの不調を引き起こすもの」、それが「菌」という言葉でこの世のそれ以外のものから切り取られているのだと思います。
生物学的に見るとウィルスと細菌は別のものとして区別されます。細菌は細胞があり自ら分裂して増えることができますが、ウィルスは細菌よりはるかに小さく、ただの遺伝情報に過ぎず、細胞の中に入り込まないと増殖することができません。
「遺伝情報」っていったい何なのでしょうか。ウィルスは「生き物」といえるのでしょうか。しかし生き物をコントロールするための緻密な仕組みを持っています。そんなものがこの瞬間も、私たちの中に無数にへばりついているのです。考えだしたら頭がおかしくなりそうです。
さて、私たち人間は約60兆個の細胞から成り立っていると言われてます。一瞬「私たちは細菌のかたまりかいな?」と思いそうになりますが、細菌は原核生物、動植物は真核生物に分類されます。まあ、細胞膜の内と外でやり取りをしながら生きているという点では同じかもしれません。
そんな私たちの体を構成する無数の細胞は、栄養を吸収したり、老廃物を排出したり、新しく分裂したり、動きを止めたりしながら「私」の物理的な側面を維持しています。
同じ細胞が常に生き続けるわけではありません。絶えず置き換わり変化をつづけていくわけですが、少なくとも「私」の存在は同じであることに疑いを持つことなく日々過ごしています。「私」とは大きな流れの中に浮かぶ、フレームのようなものなのでしょうか。
その決まったフレームの中に常に体を構成する物質が入り込み、同じ量の不要になった物質が排出され、私は私のままでいられると思うのですが、そう上手くは行きません。
十年前の私と今の私のフレームは明らかに異なります。人はこの差異を老化という言葉で表します。
生き物とは何なのでしょう。考えれば考えるほど不思議になります。これという確実な実態がなく、すべてが変化の中にあるのです。それは複雑にデザインされた水路を流れる水のようです。そして、老化とは一見強固に見える水路も徐々に形を変え、最後には消滅してゆくプロセスに思えます。
測りましょう
前置きが長くなるのは私の悪い癖です。今回もそうでした。
このように「細胞とは」「生き物とは」など言い始めたのは、今、私が自分の老いと向かい合っているからです。みうらじゅんはこの現象を「老いるショック」という言葉で表現しました。
相変わらず秀逸な言葉遣いで、今まで存在しなかった概念と景色が私の前に現れます。言語に興味があるものとして、彼から学ぶことは多いです。
四十代も終わりにさしかかり、目や歯などに老化を感じ始めていますが、私にとって今直面している老いるショックは高血圧です。
体重はここ20年間ほとんど変化がありません。飲み食いする量は少し減った程度です。生活スタイルもそれほど変わりません。私の中に吸収され排出される物質は変わらないと思うのですが、私というフレーム自体が変化してきているのでしょうか。
尿酸値の薬を処方してもらうとき、お医者さんは血圧を測定しますが、先日「定期的に家で測りましょう。手帳につけて報告してください」と言われました。
どうやら私の血圧は少し高いようなのです。
「年をとったら血圧が上がるから」とも言われましたが、私は少し落ち込みながら、いただいた「血圧手帳」を手に家路につきました。
私がライフワークにしたいこと、つまりサウナにとって、血管を若く保つことは重要なことなのです。急激な温度変化を繰り返すサウナ活動(サ活)では、血管に対する負担もかなりかかると思われます。私は「筋トレ」ならぬ「(血)管トレ」を考えていかなくてはと思っていました。
家に帰りながら、私は嫌な想像を行いました。高血圧になり、それが慢性的になり、血管が弱りやがて出血する、そんな自分です。もう、サウナどころではありません。場所が悪ければ、例えば脳内の言語を司る部分なら語学もダメ、会話もダメ、それどころか体も動かなくなるかもしれません。
私のこれからの素晴らしい人生後半戦を考えたとき、高血圧という名のオイルショックを放っておくことはできません。私は血圧計を購入し、毎朝血圧測定することにしました。
「この時が来たか…」そんな気分です。かつて中年オヤジや老人たちが「血圧がどうの」「下げる薬がどうの」という話をするのを聞いて、何か違う世界の人の話のように思えました。
それが今私の身に起ころうとしているのです。時間は誰にとっても平等であり、人は同じように年をとります。あの時想像したはるか先の世界、薄い髪の毛とオヤジ臭と共に想像していたあの世界に私は片足を踏み入れているのです。
予想外のデザイン
血圧計というと、あのスポーツ施設にあるような大仰なものを想像してしまいます。イスに座って肘まで腕を機械に入れて測定してもらうタイプです。
しかし、現代のテクノロジーの発達は予想以上でした。妻は私に「大きいアップルウォッチかいな」と思うような血圧計を買ってきてくれました。二の腕ではなく手首で測るタイプで、少し大きめの時計ぐらいのサイズで付属のケースも時計用と見分けがつかないほどです。
「本当にこれで正確に測れるんか」と思いながらスイッチを入れると、なんと最高血圧が180を超えるではありませんか。「こんなもん信じられるか!」と説明書を見ると、機器を装着する向きが反対でした。私は腕時計のようにつけていたのです。改めて本体が手首内側に来るように付け直して計測すると、まあそれなりの数字が出てきます。
血圧計は「シチズン」製でしたが、私はこのマシンを「GG-SHOCK」(ジジーショック)と名付け、定期的な計測を始めました。
先生は週に1~2回でよいと言われていましたが、同じ時間帯に測っても予想外に数値は変わるので、それが興味深くほぼ毎日計測を続けています。
スイッチを押すとコンプレッサーが作動し、手首を締め付ける圧が上ります。普段は意識しない心臓の鼓動と、それによって押し出された血液がバンドの下の動脈を通過するのが感じられます。
「私の体を血液が巡っている」
今さらながらそんな当たり前のことに気付かされます。母親の胎内で私の心臓が最初の鼓動を始めた瞬間から半世紀近くの間、私の心臓は休むことなく働き続け、私の体には血液が流れ続けているのです。
血液が運ぶ栄養は私の体を成長させ、疲労を癒し、恒常性を維持してきました。一瞬も休むことなく体の隅々まで必要なものを循環させ、不要なものを回収しつづけているのです。そう思うと自分の体が愛おしく感謝の気持ちが湧いてきます。
その、私を作り守ってきた血管が今、文字通り大きなプレッシャーを受けています。どの程度の血圧が続くと体にどのような影響があるのか、それは先生に聞いてみないと分かりません。
とりあえず、GG-SHOCKを活用して毎日の記録をつけ、それを判断してもらおうと考えています。
GG(ジジー:爺)になることは避けられません。それに抗っても不幸になるだけだと思います。大切なのは、その現実を受け入れて、自分を労わりながら老いていくことだと思います。
このことは頭で分かっていても、なかなか心が付いてきません。しかし、私は自分の人生に幸せをもたらす要素を考えます。ツーリングに出かける、お酒をおいしく飲む、サウナを楽しむ、本を読み語学を楽しむ、これら自分の好きなことは健康があってこそのことです。それらの楽しみをこれからも長く味わえる体を保つため、私は今日もGG-SHOCKと向きあいます。
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