停滞?

4年経過

今年も6月が終わろうとしています。2023年も半分終了です。このブログを始めて4年が経過しようとしています。自分の文章力の無さと遅筆さに愕然としながらも何とかここまで記事を書き続けることができました。これもこのブログにアクセスし、私の記事を読んでくださる人の存在を感じることができるからであり、それなしではここまで続けられなかったと思います。

コメント欄を開いていない私が読者の存在を”具体的に”感じることができるのは、1年に2〜3回、思い出したように見るサーバーのアクセス数においてです。今のルールでは毎週土曜日に投稿しているので、そこだけ棒グラフがぴょんと跳ね上がっています。アクセス数も見るたびに増加しています。

私が投稿したらこれだけの人々が私の書いた文章を読んでくださるのだ、そう思うと元気が湧いてきますし、敬意を持って執筆しなければならないと思います。

何度も書いたことですが私はこのブログを自分のために書いています。私の心の中を可視化するためにキーボードを叩いています。その理由はブログを書き始める4年前まで、私は自分の人生に満足していなかったからです。

私の心の中はモヤモヤでいっぱいでした。「自分はどうして心からの幸せを感じられないのだろう」いつもそう思っていました。「このまま歳をとってこの世から消えていくのか」そう思うと寝られませんでした。恐怖にも似た思いでした。

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レアな経験 三度目 (後半)

パラダイスゾーン

仲人さんとの城下町ツアーも二日目の朝を迎えた。旅行の朝はいつも目覚めがよい。この日も私は目覚ましの鳴る数分前に自然に目を覚ます。展望風呂の付いたホテルであったので、朝風呂に浸かりながら福山の街を眺める。

見渡す限り平野は建物で埋められている。結構な都会だ。東側には日本鋼管の巨大な工場が見える。これらは全て芦田川の運んだ土砂の上に立てられている。強固に見える建物や工場も、この地形が作られた時間を考えれば、ほんの少し前に現れたものに過ぎない。

二階建ての鉄道の高架が東西に連なって街を南北に二分している。山陽本線の4両編成の電車やEF210電気機関車のけん引する貨物列車が時折二階部分を通っていく。さらにその上を8両と16両の新幹線が、あるものはゆっくりと、あるものは高速で駆け抜けていく。人口50万人に迫る街であっても通過する列車がある事実は、この区間の流動の大きさを示している。

この山陽路にもう一本鉄道を通してみたい。私の脳内、妄想の中では姫路から山陽電車が岡山を経由してこの街まで繋がっている。朝の福山を見ながら、私は目の前の景色に自分の空想を重ね合わせた。

体にも目にも心にもいい朝風呂であった。

仲人さんと一緒にホテルで朝食を取り、二日目の行動を開始する。心配されていた雨もどうにかもちそうだ。さて、今日もたくさんの学びがある一日が始まる。私たちはワビサビ号に乗り込み、福山の街へと繰り出した。

今日のメインは福山城周辺である。しかし、城へ向かう前に少し見てみたい場所があった。それは福山駅から南方向へ下った霞町というエリアだった。

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レアな経験 三度目(前半)

今度は西へ

最近では少しレアなこと、それは婚姻に際して仲人を立てること。その中でもかなりレアなことは、その仲人さんと一緒に旅をすることである。私は縁あってそのような体験を去年6月、10月と二度も行うことができた。そして先日三回目の旅を終えた。

初めて読む人のために事の経緯を記す。

私は2021年に全国通訳案内士の試験を受けた。そのいきさつを書き出すときりがなくなるのでここでは省略するが、ともかくその年の12月に二次試験を終えてその後しばらくして仲人さんと飲む機会があった。

杯を酌み交わしながら通訳案内士の話になった。英語による口頭試験のテーマは「城下町」であった。私の仲人さんは日本史が専門で、その中でも城下町は最も造詣の深い分野であった。

「一緒に城下町ツアーしませんか」

私の提案に仲人さんも賛同していただき、松阪・津・伊賀上野を巡るツアーを行ったのが昨年6月。とても楽しくストレスのない旅だったため二回目の話もとんとん拍子に進み、10月には一乗谷と福井を巡った。

どちらもとても学びのある旅であった。私たちは買い物も全くせずにひたすら古の痕跡を巡った。五感を最大限に働かせて現代の景色の中に数百年の歴史を見出そうとした。仲人さんは私の質問に丁寧に答えてくれた。想像力を働かせて表れ景色は刺激的で学ぶことは本当に楽しい、そう思える経験であった。

家族旅行とも友人との旅とも違う旅であった。好きなところだけ行くと言えば一人旅に近いが、仲人さんとの旅行は解説付きである。もう20年間も私たち夫婦の後ろ盾になってくださっている方との二人旅。確かにレアで独特で味わい深いものがある。

ということで私は仲人さんに三度目の旅を提案した。最初の二回は東への旅であったので今度は西へ向かうことにした。私はミニバン「日本文化ワビサビ号」で仲人さんの自宅へと向かった。両側のドアの下部に錆が出ているからこう呼んでいる。そのサビも時間の経過と共に同心円上に広がり、少しシャレにならないぐらいの大きさになっている。少し恥ずかしいが今更どうにか隠せるレベルではないので気にしないでおく。

二人の乗せたワビサビ号は山陽道を西へと向かう。山陽道といっても街を避けて山間部を走るため、自分が今どのあたりにいるのかは看板を見ないとわからない。これが国道2号線なら走りながらおおよその場所がわかって変化があるのだが、山陽本線に対する新幹線と同様に新しいものほど人気を避けてつくられる。

それでも吉井川や旭川といった大きな河川を渡ると岡山県を走っていることを実感する。ワビサビ号は岡山ジャンクションから岡山道に入り北へと向かった。最初の目的地は高梁市の備中松山城である。

よく残ってくれた

賀陽インターからループ橋へ向かうと高梁の街が一望できる。山の合間に高梁川が流れ、わずかに形成された平地にびっしりと建物が立っている。それが高梁の街である。私たちは川沿いの国道を少し北上した後右折、伯備線を渡って谷間へと入っていく。途中山陰へ向かう特急やくもが見えた。今年の2月、この列車でここを通って出雲へ向かった。山間の小さな街を走る振り子式特急列車、絵になる。

駐車場でマイクロバスに乗り換えて途中の降車場まで運ばれる。ここから先は徒歩で天守まで向かわなくてはならない。備中松山城は最も高い場所に天守が現存する城でその標高は400mを超える。私たちは舗装されていない山道をゆっくりと歩いて登っていく。

「こういう時、植物学の知識があればといつも思います」私は仲人さんにいう。仲人さんは日本史が専門である。私は人文地理や自然地理に興味がある。城に登りながら戦国時代や地形の話はするが、目の前にある草木を細かく分節する語彙を私たちは持ち合わせていない。

草木だけではない。地面を這う虫や周りでさえずる鳥。見上げた空に浮かぶ雲の形。山を登りながら私達の体と心に生ずる変化。どんな事であってもそこには学ぶべきことがあるし、知れば知るほど、語彙を増やせば増やすほど目の前の景色は面白くなる。

15分ほど歩くと大手門後に到着した。「足軽箱番所跡」の立て札が立っている。ここから天守までの間、仲人さんに足軽についての説明を受ける。

私の目の前には当たり前のようで当たり前ではない光景が広がっている。山の上に何重にも石垣が組まれていてその上が平らに整地され、さらにその上に建物が建てられているのだ。

石は地面を掘れば出てくるというものではない。それなりの大きさの石が取れる場所から運んでくる必要がある。人工的な動力を持っていない時代、これだけの石や資材をこんな山の上まで持ち上げるのに一体どれだけの労力がかかったのであろうか。想像すると気が遠くなりそうになる。

私たちは天守の中に入り、その後二重櫓を見学した。漆喰に50年前の日付の落書きがある。私はそれを見て少しムッとしたが、仲人さんは「あと300年経ったら価値が出るかな」と柔軟である。確かに、全てはどう切り取るかである。どうせなら機嫌良くいられるように目の前を切り取って生きたい。

この城がどうして今まで残っているのか不思議な気持ちになった。室町から戦国時代にかけて城は平地へと降りてきた。城下町はそれと共に現れた。山上の天守は象徴としての役割を果たすために残されたのだろうか。実際に藩主の屋敷は高梁の街の中、現在高梁高校にあたる場所にあった。

よく残してくれたものだと思う。明治維新で主人を失った天守は荒れ果てていたという。昭和になって修復する運動が起こり、多くの人の力によって現在の姿を取り戻した。

私たちは1時間ほど城に滞在したのち山を下った。古き時代の面影を残す街で私たちは季節ものの鮎を食して次の城へと向かった。

かなりの場所

私たち二人を乗せたワビサビ号は国道313号線を南へと下って行く。高梁川の支流の成羽川に途中まで並走し、分水嶺を超えると今度は小田川の谷に入る。しばらく下流へ向かうと井原の街に出る。デニム生地で有名な街である。私にとって初訪問の街でありいろいろと気になるが、今回はどこにも立ち寄らず西へと向かう。

県境をあっけなく超えてしばらく走ると福山市神辺地区に入る。この場所で西から東へと流れてきた芦田川が山にぶつかって南へと流路を変える。その東から西へと突き出た山の上に私達の目指す神辺城跡がある。時刻は4時過ぎ、急がないと資料館が閉まってしまう。

住宅街を抜けて狭い山道を登ると山頂近くに資料館と駐車場があった。私たちは閉館時刻の近づいた資料館に入る。館内には係の1名と私達のみである。三階の展示室から時代通り順番に見学していく。

私にとって驚きであったのは、この山から高屋川の谷を挟んで反対側、備後国分寺側の山の斜面に数多くの古墳があったことである。地形の模型のこの場所が、古墳を示す赤い点でいっぱいになっている。芦田川が土砂を運び現在の福山のある平地を形成する前は、この辺りまで海が入り込んでいたのではないかと想像する。ここは古墳時代の人にとってかなりの場所だったのではないであろうか。

資料館を出て駐車場と反対側の神辺城跡へと向かう。”城”が見たくて来る普通の人はがっかりするであろう。何しろここには石垣すらほとんど残っていないのだから。石垣や櫓は17世紀初頭に福山城を建築する際に持って行かれたと言われている。石や木材の価値が現在とは全く異なることを教えてくれる。

山を歩いていると石垣を剥ぎ取られた廓らしき場所が所々に現れる。今では木々に覆われているが、城が現役であった頃はあたり一面に見晴らしが効くように整備されていたであろう。

尾根を進むとその先端近くに見晴らしの良い場所があった。仲人さんと二人で眼下を眺める。二つの方向からやってきた川が合流し地峡を通って海へと流れていく。どちらから何がやってきてどこに向かおうとするのか手に取るようにわかる場所である。

「ここに城を作りたい気持ち、よくわかりますね」私は仲人さんと顔を見合わせた。

本日の城下町ツアーはこれで終了した。あとはホテルにチェックインし、瀬戸内の幸をあてに美味しいお酒を楽しむだけである。私はここでどうしても食べたい魚があった。「ネブト」と「シャコ」である。

ネブトはテンジクダイという親指ほどの小さな魚で唐揚げにすると美味しい魚であり、前回の福山訪問で初めて食べて好きになった。シャコもこの辺りの名物で10数年前までは大量に採れていたらしいが、海水温の上昇のためか近年は漁獲量が激減しているらしい。そういえば回転寿司からもシャコは消えてしまった。

いつものように私と仲人さんは地の魚と酒を味わった。大いに話もした。あとは帰ってもう一本ビールでも飲みながら寝るだけであるが、私達の中で終わったはずの本日の城下町ツアーが復活した。

地図を見ながら居酒屋からホテルへと向かう。歩きながら考える。この福山の町割りはおかしい。南北の町割りの中に、北西から南東への大きな通りが割り込んでいるのだ。明らかに不自然な感じがする。通りを延長してみると一方は城へ、もう一方は入江へとつながっている。

「明日博物館で解決しましょうか」そう言って私は眠りについた。

後半へ続く

関連記事: レアな経験(前編)  レアな経験再び(前編)

舟の話

山の舟

平成の市町村合併が進んだのは私が働き始めしばらくしてからだと思います。合併の形には二つのパターンがありました。一つは隣接する大きな街に飲みこまれれてその街の一部になる形、もう一つは合併の後にまったく新しい名前の街に生まれ変わる形です。

大学生の時からうどん目当てに頻繁に訪れていた香川県も合併により大きく自治体の数を減らしました。私が主に訪問していた地域は高松から西になりますが、そこにもかつては香川町や綾南町がありました。これらの自治体は今ではそれぞれ高松市と丸亀市の一部になっています。

一月前、私は妻と次男を連れてこの旧綾南町にある温泉施設へと行きました。讃岐うどんを食べ歩く間、お腹を減らすための時間です。

この「綾」という文字は私にとって特別な響きがあります。「綾南町」や「綾歌町」は私の讃岐うどん趣味の原点のような場所で、そこには「綾川」が流れています。この辺りは景色を含めて、私が香川県で一番いいなと思える場所です。

さて、今回はうどんの話ではありません。私は旧綾南町の温泉施設のサウナの中にいます。公共施設だけあって、信じられないような安い値段で利用できます。平日はデイセンターも兼ねているため、入浴客のほとんどは地元の人のようです。

外気浴はできませんが、サウナ室と水風呂と洗い場のイスを使ってセッションを繰り返していきます。最後のセットにしようと思い、サウナ室で温まっていると地元の常連らしき人が一人入室し、知り合いの室内のもう一人と会話を始めました。二人はともに70歳ぐらいでしょうか。

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ヒヤリとした

家にいたい

私はブログに文章を書く。書きながら内なる自分と対話する。読んでいる人の反応を想像する。そうしながらキーボードをたたく。それを繰り返しながら月に5~6本の記事を書き続けてきた。

他者の存在の力を借りながら自分と対話をすることで、私の中にありすぎるものや欠けているものが見えてきた。私が何を考えて、何を考えてこなかったのかがわかってきた。

モヤモヤに押しつぶされそうだった私の人生は、今、ワクワクに満ちている。考えてアウトプットすることが行動を生み出し、行動することが現実を変化させてきた。文章を書き続けて本当によかったと思っている。私は自分の人生に幸せを感じることができるし、その大きさはこれから増していくと想像できる。

しかし、そんな私の最近の生活にも、思いがけず後ろへ下がってしまう出来事があった。

朝、目を覚ます。もともとその夜は眠りが浅かった。詳細はよく覚えていないが嫌な感じの夢ばかり見る。気持ちがどんよりと落ちている。このままベットにいたいと思った。いつもならスッと目覚めてその日に起こりそうな楽しいことを想像する。しかし、その日は仕事に行きたくないと思った。家にいたいと思った。

隣にいる妻の手を握り必死に耐えた。久しぶりにこんな気持ちになった自分を認めたくなかった。

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令和五年五月場所

いつものように場所中に感じたことをとりとめもなく書いていきます。

未来を担保に

横綱照ノ富士が14勝1敗で見事に五月場所の優勝を決めました。私が相撲に興味を持った時、この力士は大関でした。その後ケガによる連続休場で序二段まで番付を下げましたが、平成が令和に変わる直前三月場所から土俵に復帰し、二年後には横綱まで上り詰めました。

このことは見事としか言いようがなく、たくさんの勇気を与えてくれる存在でありますが、土俵で彼の姿を見るたびに私は複雑な気持ちになります。両膝周りに分厚く巻かれたサポーターが痛々しすぎるのです。サポーターは膝以外にも両足首と両ひじにも巻かれています。満身創痍で相撲を取っているのが痛いほど伝わってきます。勝負が終わり土俵を降りる時、脚を引きづることも多々見られます。

照ノ富士だけではありません。宇良もケガのため長い間休場を重ねていました。この二人が戦うとき、サポーター率の高い異様な光景が現れます。どちらかまたケガをするのではないかとひやひやします。

力士の体重は重くなり過ぎたと思います。筋肉や脂肪が増えるとともに、骨や軟骨も増大するというわけではありません。どうしても膝や足首に負担がかかります。

照ノ富士や宇良は、引退後いつまで自分の足で歩くことができるのだろうかと心配せずにはいられません。貴景勝、剣翔、水戸龍といった力士を見ても同じことを思います。鍛えぬいた大きな体で迫力のある勝負をみせてくれるのはありがたいことですが、彼らは未来の自分を担保にそれを行っているようで心が痛みます。

ヨーロッパ

私が相撲に興味を持ち始めたのは2018年ごろでした。だからヨーロッパ系の力士といえば、栃ノ心と碧山がまず浮かんできます。もう少し早く相撲に興味を持っていれば、琴欧州や把瑠都をリアルタイムで見ることができたと残念に思います。

モンゴル系の力士は日本人と顔が似ているため、パッと見では見分けがつきませんが、ヨーロッパ系のこの二人はインパクトがあります。もう見慣れてしまって違和感を感じませんが、栃ノ心と碧山が大銀杏を結ってまわしをしめていることは不思議な感じがします。

今場所では栃ノ心が引退を表明しました。幕内優勝し大関に昇進したのはもう5年も前のことですが、彼が大関昇進伝達を受けた姿が昨日のことのように頭に浮かび上がってきます。

栃ノ心も照ノ富士や宇良と同様に、見ていて何も起こらないことを祈らずにはいられない力士でした。取組み直前の真っ赤になった逞しい筋肉を見ると「この人より力の強い力士はいるんかいな」と思わせるほどでしたが、爆弾を抱えた右ひざを見ていると「力を入れすぎるな」と心配になっていました。

制限時間がやってきて最後の仕切り前の気合の入れ方がカッコよく、私もテレビを見ながらよく真似をしていました。また一人好きな力士が引退して寂しいです。こう考えると、何気なく見ている力士たちも次の場所に見られるとは限らず、一番一番の勝負がありがたいものだと感じます。

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ツバメの夜

屋根の下で

「ああ、また1年が経ってしまったんだ」

何ごとにおいても年月の経過に対して敏感に感じやすい私ですが、その中でも、自分の誕生日以上にそれを感じるのがツバメの到来です。日が長くなる4月から5月にかけては私の好きな季節ですが、それにツバメが楽しみを添えてくれます。

時の経過を意識するのは、昨年巣立ったツバメが大人になって返ってくるからです。1年と少し前には存在しなかった命が、私の家の近くの巣で生まれ、周りの虫を与えられて大きく育って巣立ち、多くの困難を乗り越えて南の国から帰ってくるのです。

ツバメたちは本能に従って行動しただけなのかもしれませんが、こうやって無から生まれた存在が目の前で動き回って巣作りをする姿を見ると、私は感動せずにはいられません。

世のなかの生き物はツバメと同様に命をつなげる活動を行っているのですが、ツバメが特別に思えるのはその容姿をかわいらしいと私が思うからでしょう。数多くの鳥の中でやはり私はツバメが一番素敵だと思います。鉄道が好きなことも影響しているのかもしれません。

さて、私は今日も仕事を終えて電車に乗り家路を急ぎます。暗くなった空の下道を歩いていると、いつもの場所にツバメの姿が見えます。そこ歩道の上に設置された屋根の下なのですが、数羽のツバメが作りかけの巣の横、細い梁の上にちょこんととまっています。

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30年

昼飯ハシゴ

天気予報によると週末の天気が崩れそうだった。私はこの週末、実家へ帰って田んぼの畔の草を刈る予定であった。前回の草刈りから約一ヶ月、初夏に入ると草の成長する速度が増してくる。

雨の日の草刈りは憂鬱である。合羽を着ているとはいえ雨は隙間から入り込んで服を濡らす。何より気温が上がるとカッパの内側から汗で全身が湿ってくる。気分のよいものではない。

どうしたものかと親に相談すると、草はそれほど伸びていなく草刈りはまだしなくてもよいという返事であった。私は二週間後の晴れに期待してこの週末の帰省を取りやめた。

さて、予定がぽっかりと開いた。通常なら朝から語学と読書、家事があればそれを行い夕方サウナに行って夜に酒を飲むというパターンであるが、なぜかこの日はどこかへ行きたい気分であった。

「うどん食べに行く?」妻に聞くと二つ返事で賛成してくれた。この週末に部活のない次男も一緒に行くという。

「よし、明日は久しぶりにうどんをハシゴするか」私の興奮度が一気に上がった。

翌日昼前、私たちは中讃にいた。中讃とは香川県の中部、坂出や丸亀辺りのことを指し、うどん県香川の中でも特にうどんが美味しい地域である。丸亀市内を流れるを土器川の右岸を南へ進むと土手の下に多くの車が止まっているのが見える。中村うどんである。

「納屋のような場所でうどんが食べられる」「ネギは裏の畑で取り自分で切って食べる」そのような評判がこの小さなうどん屋さんをこの地域の観光名所にした。

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欠け続けていたもの

旬のもの

五月はそら豆の季節だという。他人事のように書いているのは我が家ではこの豆が食卓に上ってこないからである。理由は、妻がそら豆を煮た時の香りを好まないから。それに、ただでさえ豆類を好んで食べない子どもたちも拒否反応を示すことは容易に想像できる。

そんな私も子どものころはこの豆を美味しいとは思わなかった。豆ごはんの豆がそら豆だとがっかりしたものである。大人になると味覚は変わる。私はそら豆に対して、かつて持っていた苦手意識を持たなくなった。ミョウガ、茎わかめ、ちくわぶ、イワシのつみれ、それらと同じで大人の口で食べてみると案外美味しいものである。

「たまにはそら豆を食べたいなあ」そう思っていた私をよそに妻はこの豆を調理する気配がない。私は食べるものに関して文句を言ったり不必要に要望を言ったりしない。作っていただけるだけでありがたいと思うからだ。

そのようなわけで大人になってもこの豆を外食以外で食べることが無かった私であるが、先日どうしても買わずにはいられなってしまった。私は外国食料品店へ行きペコリーノチーズとパスタ(パッケリ)とオリーブオイルを手にいれ、その足で地元のスーパーへ行き、そら豆一袋とバジルの葉を購入した。

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ワクワク玉子焼き

東二見

東西に長細い明石市を2本の鉄道路線が貫いています。JRと山陽電車です。東側の神戸方面からピタリと並走してきた二つの鉄道は明石駅を境に南北の距離を取りながら西へと進んでいきます。

大久保、加古川と内陸の街を経由するJRに対して山陽電車は海に近い南側を経由しながら姫路を目指します。四月のある休日、私と妻はその山陽電車東二見駅で下車しました。二見とは明石の西の端にある街で、もともと漁師町ですが、今では埋め立てられた沖合に工場が多く見られる他、住宅地としても発展している場所です。

私たちの目的は駅前にある明石焼きのお店でした。「てんしん」という名前のその小さな店は、地元二見はもとより周辺からも多くの人が訪れるという話を聞いていました。

実際に私も山陽電車に乗る機会があれば何度かこの店の前までやってきたのですが、長蛇の行列を見て断念していました。いつもは明石駅周辺の店を巡る私たちですが、今日は「てんしん」の開店時刻を目指して東二見までやってきた次第であります。

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