検定&サウナ

穏やかな朝

もう何回この会場に通ったのでしょうか。大阪環状線の天満駅から徒歩3分の「天満研修センター」は、私が知っている限りずっと大阪でのイタリア語検定の会場です。いろいろな大きさの会議室が集まったこのビルは各検定の会場として使われているようで、1階のモニターにはそれらの会場案内が示されています。

私は去年と同じ7階の部屋へ入室して試験の開始を待っていました。すごく穏やかな気持ちでした。今までこんな気持ちで検定を迎えたことはありません。

心穏やかであった理由は「受かっても受からなくても、どちらにも楽しみがある」と思うことができたからです。どういうことでしょうか。

私はイタリア語の勉強をかれこれ20年以上行ってきました。途中でやめたり、再開したりを繰り返しながらの20年です。もともと勉強する必要性はありませんでした。「したほうがいい」という直感にしたがった行動でした。

しかし、一旦始めるとこれは泥沼のようなものでした。語学は継続してなんぼ、使ってみてなんぼです。私は日々忙しく働くなかで、学習時間を確保することに苦労しました。イタリア語となると、日常的に使う機会もほとんどありませんでした。

そんななかで何度も挫折しそうになりました。「何のために私はこんな無駄なことに時間と労力をかけているのだ」繰り返し思いました。「いっそやめてしまえば、どんなに自由な時間が増えるのだろう」本気でそう思いました。

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寄生虫

日の当たる方

私のような昭和生まれの人間にとっては信じられないことですが、テレビが斜陽産業になっていると言われています。

テレビと並ぶメディアである新聞や雑誌の凋落ぶりは、実感としてものすごくありました。最近新聞社は発行部数を公表しなくなりましたが、定期購読が減っていることは、再利用のために出された古紙の量を見ればわかります。かつては山のように積まれていた駅売りのそれも、今は申し訳程度にしか置いていません。

書店の店頭に並ぶ雑誌の種類も量も目に見えて減っています。10年ほど前に小学館の発行する「小学~年生」シリーズのほとんどが廃刊されるというニュースを耳にしました。子どもにとって、入り口となる雑誌であったと思います。若者向けの雑誌も、文学からヤンキーまでいろいろあり楽しかったのですが、今ではすっかり影を潜めてしまいました。

このように新聞や雑誌に勢いがないことは実感としてわかりますが、テレビに関してはBSやCSを含めて、私が子供の頃と比べてチャンネル数も増えてますし、扱うジャンルも多岐にわたっていて、にわかに「斜陽化している」といわれても信じられません。

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邂逅

大人の文章

「人は学び続けなければならない」そう思いながら生きてきた。物理的な年はとっても、学び続ける限りは若くいられるし、逆に年齢は若くても知ることへ対する好奇心を失えば老人のようなメンタリティーになってしまう。

この世の中は不思議なことだらけだ。私の目の前で日々繰り広げられる数々の現象。いつ、どんな必然性があってそうなっていて、それが何をもたらすのか、考えだしたらきりがなくなってしまう。

私と私以外との関係、そう考えている私とはいったい何ものなのか、おそらく私は知ることなく生を終えるであろう。しかしながら、私はそれを考えずにはいられない。つまり、学ぼうとせずにはいられない。

学びのための一番手軽な方法は本を読むことである。人間が言葉を持ち、その言葉を記す文字を発明したため、人間の知恵は世代を超えて受け継がれることになった。言葉が、そしてそれを記した本が現在の人間を作ったということができる。

そのようなわけで私は図書館によく行く。幸いなことに通勤途上に公立図書館があるため2週間に5~6冊ずつ本を借りて読み続けている。時間に追われた生活をしているため、サッと背表紙を眺めて、直感で5冊ほど選んで貸出機へと向かう。

先日、いつものように足早に本を選んでいると、私の目に懐かしい名前が飛び込んできた。私の足がピタリと止まった。

「鈍行最終気まぐれ列車 種村直樹」

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大相撲9月場所

力の入らない月曜日

必ず来ると分かってはいても対策をとれない。終わりは次への始まりと理解できるのであるが、何だか体の奥から力が出てこない。相撲が好きになるということは、相撲ロスとも付き合っていくということ。まさに人生は簿記である。借方と貸方が一致する。

今回も備忘録を兼ねて、9月場所で感じたことをいくつか記してみたい。書くことで思い出すこともある。書くことで次の場所を見る枠組みを整えてくれることもある。6週間後の九州場所を楽しみにしながら、この2週間で印象に残ったことを記してみたい。

栃丸16分(ぶ)

栃丸関は5月場所より、私が一番熱を込めて応援してきた力士である。その理由は、彼が入門から11年もかかって十両になったためである。

「石の上にも三年 栃丸十一年」

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頂上の蛇

優先順位

「バイクが好き」と人に言う割にはそれほど乗っていない。「出かけたい」という思いと「その時間があれば語学など有意義なことができる」という気持ちが駆け引きをし、たいていは後者が勝ってしまうからである。

私は常に「何か有意義なことをしなければ」という気持ちに支配されている。私の持っている時間の中で、仕事、睡眠、家事を除いたものが私がコントロールできる部分である。その中に、読書、勉強、運動、鉄道、サウナ、酒、ブログ、という風にやることを当てはめていく。そうすると、なかなかバイクの出番がやってこないのだ。

それでもたまには一人でふらっとバイクを走らせる日がある。そんな一日を終えると「どうしてこんなに気持ちがいいのにもっとバイクに乗らないんだろう」と思ってしまう。

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年に1度

コンビニエンテ

街からタバコ屋の姿が消えた。タバコ屋だけではない。雑貨屋も小さな文房具店も個人営業の酒屋も、ものすごい勢いで数を減らした。言うまでもなく、コンビニが普及したためだ。

タバコ、雑貨、文房具、酒、その他にも総菜や野菜や雑誌も売っている。宅急便も送ってくれる。コンサートのチケットも買うことができる。住民票も取ることができる。コンビニとは、いったいいくつの業種の店が統合したものなのかと思う。

私は性格的に、ここの小さな店が存在する世界が好きな人間である。時代遅れだと言われようが、大きなスーパーに行くより、肉屋や魚屋や八百屋といった個人商店が並んでいる市場の方が気持ちが上る。そんな私であっても、コンビニという現代の万屋の恩恵を受けずに過ごすことは難しい。

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午後二時の鉄萌え

鉄萌えスポット

一般の人にとって何にも感じることはないが、鉄道好きにとっては叫びたくなるぐらい興奮することや場所がある。電車のモーター音やエンジン音、複々線区間での列車の追い抜き、行き先の異なる列車の切り離しや連結といった場面が一般的には当てはまる。

私も鉄道好きとしてこれらは大好きである。そして、そのような場面を体験したときの気持ちを、個人的に「鉄萌え」と呼んでいる。私はアニメ好きではなく「萌え文化」からは遠い位置にいるのだが、この「萌え」という言葉を鉄道に当てはめると、なぜかしっくりとくるのだ。

未分化の混沌とした感情があり、それに言葉を与えることで何を感じていたのかが浮かび上がってくる。言葉以前にモノはなく、のっぺりとした世界が言葉によって分節され、初めてモノが現れる。それは概念も同じである。

私の尊敬するみうらじゅんはそれを行う天才である。彼以前に「マイブーム」という概念も「ゆるキャラ」というモノも存在しなかった。言葉がモノや概念を作り出し、私たちの心を豊かにする。

いつものように話が長くなった。未分節だった私の感情は「鉄萌え」という言葉を持つことで、それがどんなことなのか私の中で鮮明になっている。

さて、自分にとっての「鉄萌え」を考えてみる。一番強い「鉄萌え」の感情はどこから湧いてくるのだろうか。踏切、鉄橋、車内チャイム、そんなワードが頭のなかに浮かび上がってくる。

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概ね順調ではあるが…

結構アクティブ

過去1年間に書いた自分の記事を、ポツリポツリと拾い読みしてみる。そうすることがこのブログを書く1つの目的であるからだ。過去を決めるのは現在の心の状態であるが、記憶はいいように変わってくる。

もちろんそれでも結構なのではあるが、私の場合このブログを書くことが「モヤモヤから解放された自分」へのストーリーを作っていると思っているので、時々振り返って伏線を回収するためのネタがほしいのだ。

ブログを書き始めて3年以上、文章はコンスタントに書いてきたが、ワードプレスを扱う技術は全く進歩していない。だから、関係する記事などをリンクでつなぐといったことができない。過去の記事を読み返すと言っても、適当に「こんなことを書いたかな」といった当たりをつけて開く。

それでも、過去1年の間、適当に開く記事は気持ちが前向きになっているものが多い。全国通訳案内士の試験に向けて進んでいたり、農作業を汗をかきながら楽しんだり。コロナ禍にも関わらず、タイミングを見て仲人さんと旅行をしたり、九州や名古屋のサウナを訪問したりもしている。

自分でも、結構アクティブに行動しているなと思うことができる。

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聖地を前に

二代目 広沢虎三

高校生の頃からずっとハードロック・ヘヴィーメタルを聴き続けてきた私ですが、大人になった一時期、落語や浪曲に興味を持ったことがありました。落語は古今亭志ん朝、浪曲は二代目広沢虎三です。

壁一面に並んだCDの中に、漢字の多い異質な一角がありました。それがこの二人のCDが並んだ区画でした。多くの人がそうであると思いますが、広沢虎三の「清水次郎長伝」にしびれました。

もう浪曲を聞かなくなって10年以上経ちました。身の身の回りを整理し、CDの枚数を3分の1以下にしたため、広沢虎三も売ってしまいました。しかしながら、この夏、旅をしながら久しぶりにあのだみ声が頭のなかによみがえってきました。

「旅行けば 駿河の道に茶の香り」

実際に歩いていてお茶の香りがしてきたわけではありません。しかし、ここ静岡旅していると、茶畑の多さに驚かされるのです。特に大井川の谷では、耕作できる場所はこれでもかというくらい茶畑で、他の食料はどこで栽培しているのだろうと心配になるくらいでした。

大井川沿いだけではなく、窓から見える丘陵地にも至る所に茶畑が広がっています。次郎長伝で歌われたように、茶の香りがしてきそうな気がします。

ところどころに作業所のようなものが見えます。米どころでいう「ライスセンター」のようなものでしょうか。お茶の看板もたくさん見えます。この地域にとって、いや、日本人にとってお茶がいかに大切な存在なのか感じさせてくれます。

そんな風景を見ながら私は考えました。

「私はきちんと急須で入れたお茶を長い間味わっていない」

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バケツリスト

歴史と地理

去年の夏、私は日本の歴史と地理の勉強をしていました。全国通訳案内士の一次試験が9月に迫っていたからです。この試験の試験科目の中心は語学を除くと日本の歴史と地理です。

私は試験用の問題集を何冊か買って勉強をしました。地理は得意でしたが、歴史に関しては少し苦手だったので高校生用の教科書と資料集を買って勉強しました。

勉強をする中で、私のなかにある感情が湧き上がってきました。それは「私はこの国のことを知っているようで何も知らない」「日本各地を旅してきたようで肝心なところにはいっていない」という気持ちです。

例えば、私は讃岐うどんが好きなのでこれまで何十回も香川県に行きました。しかし、現存十二城の丸亀城の天守閣には行ったことがありません。

九州もよく旅して、太宰府天満宮にも何度も行きましたが、近くの観世音寺には去年の秋まで行ったことがありませんでした。

学ぶということは新しい自分を作っていく作業です。地理や歴史の勉強をすればするほど、今までとは違った場所を訪ねてみたいと思う自分が現れてきました。

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