2024年最後

すみません

前回28日の投稿は、イタリア語で「毎週土曜の更新ができない」という言い訳を書いたものです。実はその日私はインフルに感染し発熱と悪寒の中で記事が更新できる状態ではありませんでした。そんな中でなんとか毎週土曜の投稿を守る悪あがきをしてしまいました。本来28日に出そうと思っていた記事が以下になります。

6回目

私がこのブログを書き始めたのは2019年の6月のことでした。「このままではダメだ」という思いでいっぱいで、私は文章を書かずにはいられませんでした。

何がダメなのかというと、このまま年をとり続けた時私は死の床で「私の人生はこんなものだったのか」と思いそうなことでした。

6年前、私は毎日モヤモヤとしながら過ごしていました。当たり前のことですが、私は私の中で特別な存在です。今まで何十何百億もの人間が地球上に現れてきましたが、それらのすべてと違う存在が私です。この世に「私」という意識を持って生まれてきた、それだけで特別なことです。その上私はさまざまな面でこれまで大した苦労をすることなく、恵まれた人生を送ってきました。

しかしながら、私はそのことを心の底から感じるためのアンテナが不足していました。だから文章を書くことで自分の心を整えようと思いました。思いを目に見える形にすることで、自分を外側から見てみようと思いました。

ブログを書き始めて6回目の年末を迎えようとしています。浮き沈みはありますが、私は概ね幸せを感じながら生きています。傲慢さと謙虚さの中でバランスをとりながら生きている実感があります。

今の自分にとって大切なこと、お金と労力をかけるべきことも見えてきました。

先日、NHK出版の本を読んでいてハッとするフレーズに出会いました。まさに私の心の中の焦りを表したものでした。読んでいたのは私の現代英語のバイブル「杉田敏の現代ビジネス英語」で、今年の秋号”Midlife Crisis”(中年の危機)の1節でした。

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Mi dispiace

Oggi e sabato, ma…

Da quando ho cominciato questo blog, ho continuato a scrivere almeno un nuovo articolo alla settimana. Di solito collaboro un nuovo articolo sabato, ma oggi io non posso farlo perché ho preso il raffreddore e non mi viene voglia di scriverlo.

Fino ultimo giorno di questo anno, magari io possa scriverlo.

Mi dispiace. D’ora in poi, vado da medico di famiglia.

おいしいもの

真っ赤な広告

短かった秋が終わり一気に冬の寒さがやってきました。新聞をめくっていると冬の味覚が詰まったカラーの全面広告が目に入ってきます。

タラバガニ、ズワイガニ、イクラ、銀鱈、ホタテ、一面に美味しそうな魚介類が並んでいます。カニ鍋やタラチリは冬にこそ食べておいしい料理だと思います。ズワイガニの足が2.5キロ入って一万円です。「たべたいな」と思いながらも私は次の瞬間別のことを考えていました。

それは人間の持つ業、罪深さについてです。

私がおいしそうだと思いながら見ていたものは食材であります。私たちに食べる幸せと栄養を与えてくれる食材であります。

しかしながらそれらは別の言葉を用いて表わされるともできます。

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欠けているもの

趣味:読書

趣味を聞かれた時「バイク」や「サウナ」と並んで「読書」と答えることが多い私ですが、実は内心「本当にそうなのか」と思い続けています。

確かに本を読む時間は多い方だと思います。書店と古本屋には毎週どこかで立ち寄り、立ち寄れば数冊の本を購入します。図書館は2週間に一度訪れ、一度に5冊の本を借りていきます。

全ての本を最初から最後まで読み通すわけでもありませんが、それでも平均すると月に15冊の本は手にしています。電車の中ではずっと読書していますし、家や外出中でも隙間時間を見つけてはページをめくります。

これは私に染みついた癖であり、たとえば妻と買い物に行き、彼女が品物を選ぶとき「少し長くなりそうだな」と思うとすぐに本を取り出してページをめくります。たとえ妻の機嫌次第で後になってもめるなとわかっていてもそうせずにはいられません。

本は私を今まで知らなかった世界へ連れて行ってくれ、忘れていた世界を思い出させてくれ、知っていたつもりの世界の意味合いを変えてくれます。私は本によって勇気づけられ、助けられ、成長してきたと思います。

しかしながら、それでも「趣味は読書です」というとき私が後ろめたさを感じるのは、私が本と向き合うとき避け続けていることがあるからです。

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友達できた?

大人になって

私の尊敬する人、リベラルアーツ大学の両学長はこう言います。

「歳をとって持つべきものはお金と筋肉と友達」

お金は文字通り自由に生きるための資産やそれを作るためのスキルを表します。筋肉は丈夫な体、つまり健康を表します。

確かにこの二つは生きていくためにとても重要であり、漫画ドラゴン桜の主人公桜木建二も「幸せとは何か」という問いに対して「金と健康だ」と答えていました。

両学長はこの二つに加えて「友達」というキーワードをあげています。仲間を広げ仲間との時間を大切にする両学長らしい言葉だと思います。

もともとリベ大動画も、自分の友達に資産の増やし方や、人生対しての向き合い方を指南するために作ったものが、その良質なコンテンツに引きつけられてここまで大きくなったものです。

お会いしたことはありませんが、毎日多くの友人に囲まれて充実した人生を送っている両学長の姿が想像できます。

さて、私も規模こそ小さいですが、リベ大で勉強を始めて以来資産を増やしていこうと学んで行動をしていますし、各種資格を取るなど資産を作ることができる自分になろうとしています。

健康に関しても、添加物の入ったものを極力食べずに、バランスの良い食事をとり、適度に運動をして体重を増やさないようにしています。

私にとって課題なのは3番目の「友達」です。私にも友達はいます。しかし、沢山いるかといえば「いるよ」と断言することはできません。

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令和六年十一月場所

いつもの雑感です。

旭川に・・

場所の途中で長年NHK大相撲放送で解説をされた元横綱北の富士さんの訃報が入ってきました。

私は相撲が好きになりこれから一生大相撲放送を見るつもりなので、いつかはそんな知らせを聞く日が来るのかと漠然と思っていましたが、こんなにも早くその日が来るとは思いませんでした。

実は初日の幕内土俵入りの後、NHKの解説者が「今場所、北の富士さんは休みです」とアナウンスしました。私はそれを聞いて少し安心しました。もう一年以上休まれていたけど、そのようにわざわざアナウンスするということは、北の富士さんがいることが前提になっているからあり、もう出る見込みがないのならそうしないと思ったからです。

客観的に見れば横綱まではった力士が80歳を越えることは稀で、北の富士さんは長生きしたということができるかもしれません。しかし、あの向正面舞の海さんとの掛け合いがもう聞けないと思うと寂しくてたまりません。

二年ほど前でしょうか、放送中に故郷の北海道旭川に自分の墓を買ったというようなことを言われていました。北に帰られる北の富士さんをいつか訪問したいと思います。

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生物だらけ

受講しながら

食品衛生管理者講習を受けながら頭に浮かんだことがあります。

公衆衛生学、食品衛生学、食品衛生法と講義を受けましたが、これらの重要な点を一言で言うと「食品またはその周りにおいて微生物を増やさないようにする」ということです。

もちろん、食品を食べる人にとって毒や化学物質といった微生物以外の危険な要素もありますが、適切に材料を仕入れ、それらを調理し、料理として客に提供する間に最も考えるべきことは、いかに細菌やウィルスといった微生物を増やさないようにするかということです。

そのために大切になってくるのは食材に触れる部分、つまり手や調理器具に微生物をつけないことと、微生物が増殖しやすい温度帯をできるだけ作らないことです。

この日私が学んだ中で一番大切だと感じたことを短く言うと、手をきれいに洗い、調理器具を清潔に保ち、食材や出来上がった料理が10度Cから60度Cになる時間をできるだけ短くするとことです。

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資格取得

必要最低必要

先日新たな資格を取得しました。今ままで取った資格の中で一番短期間で簡単に取れるものでした。

運転免許は教習所で1ヶ月、教員免許は大学で4年、英検1級は受験を意識して勉強を始めて2年、全国通訳案内士は英検1級を取得してから1年かかりました。イタリア語検定2級に関してはもうダラダラと20年以上勉強を続けても3度落ちています。

私が今まで取得してきた、または今目指している資格に対して、この資格は最も短い日数と費用で取ることができます。しかし、それは私に取って大きな可能性を秘める資格になります。

私は先日一日講習を受けることで「食品衛生責任者」として認定していただきました。数年前から受講しようと思い続けていた講習ですが、一年に数回平日のみの開催で、それもすぐに定員に達してしまうためタイミングを逸していたものです。

食品衛生責任者は飲食店を開くにあたって必ず必要な資格になります。調理師の免許の有無は必要条件にはなりませんが、食品衛生責任者がいなくては客に料理を提供することはできないのです。

高等学校で教師をしている私がどうしてこのような資格を取得したのかというと、私が近い将来客に料理を出すようなことを始めようかと考えているからです。このブログを読み続けている方はお分かりでしょうが、その料理とは明石で言う「たまご焼き」、全国的には「明石焼き」と呼ばれるものです。

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自分らしく生きる

職員室で

2024年の出生者数が70万を下回りそうだと新聞に書いてあった。団塊ジュニアである私たちの世代の3分の1に近い数である。人口減少は本当に進んでいくのだと実感させられる。

子供の数は減っても大学の定員は変わらない。定員割れを起こしている大学は普通に見られるし、その数はすごい勢いで増えている。どこの大学も学生が欲しくてたまらない。だからできるだけ早く合格者を出そうとする。そのようなタイプの入学試験を行う。

そのようなわけで、高校によっては年が明けて共通テストが始まる前にほとんどの生徒が進路を決めることになる。私たちの時代は1月中旬に5教科7科目のセンター試験を受けることから受験が始まった。

この夏休みから年末にかけての入試を見てみると、二科目による筆記試験や一科目プラス小論文で合否を判定するものはまだマシ。中にはオープンキャンパスに参加し、高校時代の活動を報告するだけで合格が決まるものもある。

生徒達が職員室にやってくる。

「志望理由書になんて書けばよいのかわかりません」

昔ならため息をつきながら「ホントにそこに行きたいん?」と言っていたところであるが、今はそんな言葉にもすっかり慣れてしまった。何しろそれが普通であるから。

考えてみれば現代の子供達もある意味かわいそうだと思う。小さい時から「将来何がしたい」「どんな夢があるの」「自分らしい生き方は何」と自分の方から何者かになることを要求されているのだ。

自分は何者かにならなくてはならない。でもそんなに簡単に思うような何かにはなれない。そうしているうちに年齢だけは上がっていく。周りは大学に進む雰囲気がある。自分も進学しようか。

「私は将来〜になりたいと思っています。そんな中、貴学のオープンキャンパスに参加して・・・」

「はぁーっ、またこのパターンだ」私はため息をつく。メッセージはどうだっていい。「メタ」の部分に裏打ちされていないメッセージは何も言っていないに等しい。いや、むしろ「本当は何も考えてこなかった」というメッセージだけが伝わってくる。

「俺は将来店を継ぐから勉強しなくてええねん」

教師としては聞きたくない言葉ではあるが、そういう彼は生きた表情をしていた。彼は自分で何者かになろうと思っていなかった。彼のその言葉は紛れもなくメタメッセージに裏打ちされた言葉だった。

イデオロギー

「自分らしく生きることは素晴らしい」

この考えに意を唱えることは現在では難しい。しかしこのような”かつての寝言”が正義と認定されたのは日本が豊かになったこの6〜70年に過ぎないと思う。

ほとんどに人にとって「何者であるか」は周りの人が決めてくれていた。「〜らしさ」は自分の中から生ずるものではなく周りとの関係性の中で生まれるものであった。

経済的余裕のない家は義務教育が終わると働いた。自分らしい職業を求めて求職するわけではない。親や親戚の縁故、教師が進めた会社、そんなところで働いた。

そもそも農村人口が多い時代には、農家の長男は田畑を継ぐのが当たり前であった。職人や商人など親の仕事を継ぐ人も多かったであろう。

職業に関して言えば女子は年頃になれば結婚して家庭に入り、フルタイムの肩書きを持って働かないことが普通であった。

そこには「将来のキャリアプラン」も「自分らしく生きること」もない。現代の視点から見たら、とても窮屈で不自由な人生のような気がする。

ではそれでは昔の人が不幸せであったかというと、そういうことはできないと思う。彼ら彼女らは「自分らしく生きる」というイデオロギーを知らない人々である。幸せは相対的なモノであり、どんな状況の中にもその芽はあるのだ。

豊かで選択肢が増えるのはよいことだ。それに私は同意する。しかし現代を生きていると、時にサルトルの言った「我々は自由という刑に処せられている」という言葉を感じずにはいられない。

私もその一人

私は、志望理由の書き方を聞きにくる生徒のことを笑うことができない。「何者にかならなくてはならない、でもどうしたらよいのかわからない」そう思っているのは私も同じであるからだ。

多分、私はものすごく贅沢な立場にいるのだと思う。「何も考えなくてもいい。今までの惰性で過ごしていけばいいじゃないか」そんな心の声が聞こえることもある。

しんどい思いをして語学や勉強をしなくてもいい。義務感ではなく好きな時に好きな本を読むのだ。

仕事では与えられた役割を淡々とこなす。下の世代が多くなってきたから彼らに仕事をまかすのだ。

家庭では息子らが独り立ちするまでの学費を支援し、お互いの両親のことを気にかけながら暮らしていく。

妻とはたまに外食をしたり、年に1度は2〜3泊の旅行をする。

昔の基準で言えば100点満点の生き方だと思う。このまま定年まで今の仕事を続ければ十分にできる生き方である。

毎月決まった給料をもらって、年に2回ボーナスをもらう。自由になる時間は少なくても経済的に生活が安定する。子供の学費をとりわけ、ローンを返し、生活費を引いて、余ったお金で老後のために投資をする。なんの心配もない生活である。

しかし、この私も「自分らしく生きるイデオロギー」の中で成長してきた人間の一人である。心の中から「それで本当にいいのか」という呻き声が湧き上がってくる。

私が何も考えずに惰性で今の暮らしを続けた時、私は何を失うことになるのだろうか。そう考えた時、惰性で生きる裏側に私がやりたいことのほとんどが張り付いていることが見える。

年とともに気力と体力がなくなっていくことは誰も避けることができない。その道のどこかで惰性で生きることをやめて反逆してみるのか、それともそのまま死ぬまで生き続けるのか、決断が遅れれば遅れるほど私は後悔して死んでいきそうな気がする。

ただ、私はどうしても「自分らしさ」という言葉が好きになれない。そんな時代のイデオロギーに染まっておきながら「そっちではない」と思うのだ。私にとってしっくりくるのは「自分らしさ」より「自分なくし」の方。

「自分らしさ」から「自分なくし」へつながる道はあるのだろうか。

政見放送を見た日

出かける前のNHK

私は世間とずれている人間であると自分でもよく思います。そのことを嫌が上でも痛感させられるのは、周りが芸能人やスポーツ選手の話をするときです。私はまわりの話についていくことができないのです。誰もが当たり前のように知っている有名人を知らないからです。

この原因の一つは私が普段テレビを見ないことにあります。全く見ないというわけではありませんが、自分から見る番組は限られています。その限られた番組の一つが朝6時台に放送されているNHKニュースです。出かける前に天気と降水確率が知りたいので、出勤の準備をしながら注意半分で聞き流すのです。

先週のある日、寝室からリビングに移動し惰性でテレビのスイッチをつけるとニュースをやっていませんでした。代わりに画面に映っていたのは山本太郎氏でした。衆議院選挙を前にこの時間帯は政見放送に充てられていたのでした。

私はしばらくれいわ新撰組の政見放送を見ました。党首の山本太郎氏は立派に堂々と党の政策を主張していました。かつては別の党から立候補していたと記憶しますが、自分の党を立ち上げ日本各地で活動をする中、政治家としての風格がついてきたように感じられました。

その日、仕事から帰宅した私は山本太郎氏をYouTube検索しました。平成生まれ以降の人々にとって彼は役者か政治家のイメージが強いでしょう。昭和後半生まれの私が彼を最初に目にしたのはもっと別の強烈な姿でした。

私は画面に「メロリンキュー」と入力し、動画の視聴を開始しました。

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