即死

日帰り

「好きな時だけ帰ってくればよい」

実家の稲作を手伝い始めたころ、父親は私にそう言っていた。私は彼の言葉通り自分の都合で体を動かしたい時だけ帰省し手伝った。

潮目が変わったのは三年前だ。父親の足腰が悪くなった。一定の時間体を動かすと痛みがやってくるという。長時間動けなく重いものも持てなくなった。

「どうするのかお前が決めればいい。米は買って食べればいいのだから」

父親は私に言った。実家の田んぼは私の祖父母が戦後購入して作り始め、父親はその後を継いだ2代目だ。先祖代々の土地というわけではない。

父親から決断を迫られた私が出した答えは「できるところまで続ける」であった。自身や自分の大切な人の主食となる米は、自らの手で作りたいという思いがあった。

株を買い続けていながら何を言うと突っ込まれそうだが、ここ20年間の世界経済のあり方、行き過ぎた資本主義やそれに伴う貧富の格差にモヤモヤした気持ちもあった。

「私たちは何のために働き続けて、経済発展を目指すんだろう。どこまで富を集めれば安心できるのだろう」

欲望にはキリがなく、自然は有限である。私の目には、世界は人間に利用し尽くされて引き返せないところまできているように思いえる。そんな世界から少し目を逸らし、自分たちが食べていける米だけでも自分で生産できれば安心できるのではないか、そういう自分勝手な思いである。

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令和八年五月場所

90年代前半の武藤

今までの人生で、プロレスにハマった時期が一度あった。大学生の頃だ。一人暮らしの自由さから自堕落な生活に陥り、ダラダラと深夜に放送していたプロレスを見るうちに好きになっていったのだ。

旧UWFからリングス、UWFインター、藤原組の3つの団体が生まれ、そこからさらにパンクラスが派生して、世の中的には格闘技色の強いプロレスが流行っていた。私はそれらもレンタルビデオで借りてみていたが、やはり一番多く楽しんだのは地上波で放送していた全日本・新日本プロレスであった。

テレビを見るうち贔屓にするレスラーが現れた。長髪の男前で、動きが派手で、所作の一つ一つに華がある。アメリカから帰国した武藤敬司であった。

相手をロープに振ってのスペースローリングエルボー、そこからのフェイスクラッシャー、その一連の美しい動きを見るたびに、なぜか目頭が熱くなった。

この男が新日本のリーダーになり、そこにかつて袂をわけたレスラーも集合し、プロレスの黄金時代が再び訪れる。私はそのような夢を見ていた。

ただ、一抹の不安もあった。ルックスが売りの武藤敬司の頭頂部の髪の密度が少しずつ低下し始めていたのだ。それでも黄金時代再来を思いながらプロレスを見続けていた私も、高校教師を始めるとテレビを見ること自体やめてしまった。

武藤のことも忘れかけていたある日、イメチェンをした彼が私の前に現れた。もう抜け毛に悩まなくてもよい髪型であった。私は「武藤の髪の毛がふさふさであり続けたら、プロレスの歴史は変わっていた」と知人によく言う。

前振りが長くなったが、プロレスの視聴をやめた20年後に、私は武藤敬司に感じたものと同質のときめきを感じたのだ。相手は大相撲の力士、若隆景である。

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やはり無理があった

欲張りな私

長い間高校で英語を教えている。同じ教科書を複数年に渡って使用することもあるが、同じことを同じ手順で教えればよいというわけではない。

目の前にいる子供の理解力もさまざまであるし、時代の雰囲気も変わっていく。何より、私自身が毎日変わっていくので、同じ教材であっても異なるアプローチの仕方が見えてくるのだ。

だから、何年教えていようが教師は授業が始まると一気に忙しくなる。次から次へと行うことが見えてくる。特に新しい年度が始まる4月5月は、二十回以上経験しても余裕を持って迎えることができない。

追い立てられて、あっという間に1日が終わり、フラフラになりながら帰りの電車に乗り込む。お酒を飲まずに夕食後語学学習をするという意思も緩み、思わずスーパーで缶ビールを二本買って帰ることになる。

こうなるといつものパターンだ。

「缶ビール二本だけ飲んでほろ酔い加減で音読」の目標も、二本目が終わり、お湯に焼酎を注いだ時点で終了し、家庭学習ゼロの状態のまま翌日を迎えることになる。

別に学生ではないので、家で勉強しなくても誰かに怒られることもないのだが、私自身の理想とする「こうありたい」という生き方に反してしまう。自尊心の低い私は、いつも「こうあるべき」と「できなかった」の間で苦しんできた。

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作らない人々と

三年目

「今年も帰ってくるでしょう?」

4月に入り、私の父母は地域の人々によく聞かれたそうだ。帰るのは息子の私で、その目的は農業用水路の清掃である。

初めて参加したのは二年前だった。今までずっと父親が行ってきた作業であったが、足腰を悪くして以来、用水路に入りスコップで泥をかき出す作業はきつくなった。

共同作業は休日にあり、現在私は部活の主顧問を持っていないため自由に使うことができる。それに、これから米作りを習う上でもこういった作業を知っておきたい。私は軽い気持ちで父の代わりに参加した。

集合場所に軽トラで乗りつけると、懐かしい顔たちが目に入った。子供の頃一緒に遊んだ友達の父母たちである。何人かは私に声をかけてくれた。父親の名前を出すと「やはりそうか。大きくなったな」と言って私を思い出してくれた。

作業参加2回目の昨年、より多くの人に声をかけられた。「今年も帰ってきたのか」と。集まった人の中で、私が最年少のようであった。

2度あることは3度ある。そんなわけで、今年は4月に入るといろいろな人が、父母に私の帰省について尋ねたということだ。

私は2年後には高校教師を辞め、神戸と田舎の二拠点生活をしようと考えている。自分たちの食べる米さえ作れば、なんとか暮らしていけると思っている。今年どころか、これからずっとこの共同作業に参加しようと思っている。

しかし、この共同作業、いつまで続くのかわからないとも感じた今回の帰省であった。

2つの水系

私の家は2つの田んぼを持っている。田舎であるが、私の家は戦前は農家ではなく、それらの田んぼは戦後に私の祖父母が手に入れたものである。

それぞれは「上の田んぼ」「下の田んぼ」と私たちに呼ばれ、上の田んぼのすぐ下手には用水路が横切っている。田を満たして流れ出た水はこの用水路に流れ込み、数キロ下流の田を目指して流れる。

下の田んぼは、上の田んぼの約300メートル下流に位置し、ここへは別の用水路を通って水が運ばれてくる。ややこしくなったが、私が言いたいのはこう言うことだ。

「たかだか小さな田を二つ持っているだけであるが、そこへ水を供給する用水路が異なれば、それぞれを維持する作業に対して出席する義務が生ずる」ということ。

私が2年前から参加しているのは「上の田んぼ」の水系の作業である。「下の田んぼ」の水系は、父親が痛む足腰を引きづりながら参加していた。

父親は「まだできる」と言っていたが、今回私は下の田んぼの用水路の作業にも参加した。父親を助ける意味もあったが、私にはもう一つ目的があった。

水に浸かりながら

前回の作業から10日後、私は再び帰省した。今回の開始時刻はなんと午前6時半だという。田舎の朝は早い。私は前日夜には実家に帰り、早く寝て開始を待った。

指定された場所に行くと、すでに軽トラが十数台止まっている。私も農道を半分塞ぎ、その後ろに車をつける。荷台から3本爪と呼ばれる鍬と鎌を持ち、皆と合流する

ここでも懐かしい顔が並んでいる。みんな歳をとっている。当たり前だ。30年以上ぶりに会う人たちなのだ。ここでもやはり私は最年少のようだ。だが、一人だけいた。私の一つ年上の幼馴染で、小学校の時よく遊んだ仲だ。中学になると一緒にいることもなくなった。久しぶりに顔を見て照れ臭い。

時間になり作業が始まる。皆、だいたい例年通りの場所へ移動するという。私は声をかけられた同級生の父親についていく。

先週清掃した水路とは異なり、今回の担当場所は取水口に近く規模が大きい。川底にはびっしりと水草が成長している。水門を少し開けると大川から水が入ってくる。

3本爪の鍬で水草を剥がし、水の浮力を使って下手に流す。同時に鎌を使って法面の草を刈って水草と一緒に流す。刈られた水草は下手の水門手前にある、洪水時に使う水路を開けて本流へ捨てられる。

膝から下を流れにつけて、長靴の中をぐちょぐちょにし、鍬を引き、鎌を振り回す。お世辞にも快適な作業だとはいえない。しかし、これを無くしてお米を作ることはできない。

「こういう一つ一つの作業を丁寧に行うことの積み重ねが、豊作へ結びつき、1年間生き延びるために食糧を得ることにつながる」

こうして体を動かしていると、昔の人はそういうふうに考えながら作業をしたのだろうという気持ちになってくる。

どうなる

今回2度の作業で、私は50名ほどの人々と共に体を動かした。圃場を所有する家、つまり昔風に言えば地主が集まったものである。しかし、私の父親によると、この中で実際に稲作を行っている家は10軒もないという。

では、残りの家はどうしているのか。

田を農業法人や大規模農家に貸しているのである。貸し出す理由は金銭的なものではない。田んぼを人に貸したところで、現金は一円たりとも、収穫した米の1粒たりとも貸主には入ってこない。

それどころか、貸主が固定資産税を払い、このような水路を維持するための共同作業に参加する義務を負うのだ。貸して良いことなど何もなさそうに見えるが、それを行うのはそれだけ稲作の価値が下がり、後継者がいなくなったためである。

それならば圃場に何も作らず放置すればよさそうであるが、そう簡単にことは運ばない。水田は人間にコントロールされた自然である。そこに本物の自然状態、すなわち耕作放棄地が混ざればその影響は水田にも及ぶ。すなわち雑草や害虫の発生である。

田舎では自分さえよければいいという考え方は通用しない。他人と協調することは煩わしさでもあるが、豊かさの担保でもあったのだ。

「他に迷惑をかけたくないから、見返りを求めず税金や作業を負担するかわり米を作り続けてほしい」

稲作をやめた家はそんな思いで田を貸しているのである。

しかし、それも私の父母の代までであることが、これら共同作業に参加してみて感じられる。彼らの子供たち、つまり昔の私の遊び相手たちは農業を経験していない。だから、田んぼに対する思い入れもない。

私だって地元に留まり続けたのならそうであっただろう。都会で働いているからこそ、たまに土にまみれてみたいと思うのだ。

今回、2回の作業で私に声をかけてくれた人たちが鬼籍に入る頃、圃場や用水路の維持管理は今とは別のものにならざるを得ないと思う。

私は退職後、実家に不定期営業の明石焼きの店を作ろうと考えている。この人たちに顔を覚えてもらい、この人たちが交流できる場所を作りたい。今回、父親の申し出を断り私が作業に参加したのには、そういう理由がある。

東京の桜

東銀座まで

新幹線を新横浜で下車して横浜線のホームへと向かう。時間はまだ午前9時過ぎである。私にとって、この駅で下車するのも横浜線の電車に乗るのも初めてのことであった。

やがて八王子方面から電車がやってきた。形式はよくわからない。車両を長く使うJRに西日本に比べて、JR東日本のそれは頻繁に変わるので覚えきれない。

先頭車両で前面展望と運転手の動きを見る。駅に停車をすると、運転席のモニターにホームから見た車両が映し出される。どうやらこの列車のドア開閉は運転手が行なっているようだ。ということは、ここではワンマン運転が行われているのか。

横浜線は日本有数の黒字路線である。合理化の波はこんなところまで容赦なく押し寄せているのかと思う。私たちはどのような世界に向かっているのだろうか。

終点の東神奈川で京浜東北線に乗り換え、一駅先の横浜で下車する。神戸市内発横浜市内行きの乗車券が、自動改札内に回収される。しかし、私の目的地はここではない。

まだ時間に余裕がある。横浜駅構内をぶらりと歩いてから、京浜急行の改札にICOCAをタッチして入場する。「京急そば」で遅めの朝食をとり、ホームに上がると特急がやてきたので、それに乗り込む。車内は満員で息苦しい。首都圏は人が多すぎると、行く度にそう感じる経験をする。

京急蒲田で衝動的に下車する。前回この駅にやってき時は高架工事の真っ最中であった。年数と共に適度に汚れてきた駅を見ると、地上駅時代があったことなど想像できないくらいだ。人もモノも、全てのものが確実に年を重ねていく。

列車が品川駅に到着する。ここも工事の真っ最中。次にここを訪問するときは、別の姿を見せてくれるのか。京急電車は地下へ潜り都営浅草線の線路を北へと走る。

10時半、私は東銀座で下車した。この日、銀座に用事があったわけではない。私の約束は1時間後の東京駅。だからゆっくりと銀座から八重洲へ向かって歩く。

午前中に通っても華やかな街である。多くの人が店の前で列をなしている。それぞれの人が目的と楽しみを持ってこの街に来ているのであろう。私は、心の中に嬉しさを持っていた。ただそれは大きな悲しみに包まれたものであった。

八重洲口の巨大なビルを背景に桜が咲いていた。神戸よりも少し早い。

「先輩は、来年、この桜を見ることができないのか」

私はそう思いながら花を眺めた。私は今から死にゆく人に会いに行くのだ。

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レアな経験(宮崎編・後編)

カレーを少し

仲人さんと城下町巡りの旅を始めて4年、昨日はその中でも1、2を争うほどの充実した日になった。何しろ3つの城に加え、博物館と伝統的建物保存地区を訪問できたのだ。さらに、近世とは関係ないので書かなかったが、新田原の航空基地も見ることができた。

このように学びが多く充実した日を送ると、私はすこぶる機嫌がよくなる。だから、昨晩飲んだ焼酎は本当に美味しかった。気分がよくなりすぎて、思わず飲みすぎてしまった。

二日連続で寝る前の記憶を無くし、目を覚ますと二日酔いだった。仲人さんと7時に待ち合わせて朝食会場へ向かったが、食欲がほぼない。なんとか名物のカレーを少しだけ腹に入れ、あとはジュースを流し込む。仲人さんは、普段通りのにあれこれ食べている。私より一回り以上年長とは思えない健啖家ぶりである。

8時過ぎにホテルをチェックアウトして延岡駅まで歩く。今日はレンタカーも飛行機も使わない。3本の列車を乗り継ぎ神戸まで帰る計画を立てた。延岡から神戸まで鉄道で移動、世の中の9割方の人々は持たない発想であろう。

もう1日レンタカーを借りて観光し、夕方宮崎空港から伊丹まで帰れば効率よく宮崎を堪能できる。わざわざ時間をかけて三角形の二辺を鉄道で通る必要はない。

しかし、私の旅はそうじゃなくてはならなのだ。移動の道中にこそ旅の醍醐味がある。時間の制約で片道は飛行機でも、もう一方は陸路を味わいたい。幸いなことに私の仲人さんは、私のこの硬い頭の良き理解者である。

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レアな経験(宮崎編・中編)

国道10号線

昨晩はシメのうどんを食べた後、仲人さんとコンビニに寄ってホテルへ帰った。私の記憶はそこで途切れている。目を覚ますとつけっぱなしのテレビからBBCニュースが流れていた。

朝食会場で仲人さんに聞くと、私はコンビニで買ったハイボールを飲まずに部屋に戻って寝たらしい。かなり酔った状態である。それでも翌朝目を覚ますとスッキリしている。わだまだ若いのか、楽しい旅で体調が良いのか。

ホテルをチェックアウトして、ニシタチから宮崎駅近くのレンタカー店へと向かってゆっくりと歩く。昨晩の喧騒が嘘のように人気がない。時々、夜遊びをした風の男女が歩いている。

宮崎市の中心地を15分ほどかけて横切る。まだ、ビルが密集していて空き地が少ない。日本中の地方都市の中心部は、空き地だらけでスポンジのようになっている。ここはまだ大丈夫だ。福岡まで陸路で時間がかかることが関係していると思う。

本日は国道10号線を延岡まで北上する。見るべき場所もたくさんある。私たちは、戦前の建築である宮崎県庁舎を車から眺め、宮崎神宮近くの県立総合博物館で予習をすることにした。

休日で、入館料無料であったが博物館は私たちの貸切状態であった。私たちの関心は近世以降の歴史、1階の自然史展示室を足早に駆け抜けて2階へと進む。それなりの規模の展示室であるが、半分以上は民俗系で城や城下町に関する展示はそれほど多くない。

それでもいろいろと見学するうちに、近世以降の宮崎が浮かび上がってきた。その一つは、私の中で「日向の国」で一括りにしていた宮崎が、小藩や支藩が混ざった複雑な場所であるということ。また、徳川時代が始まる前、この地は大友と島津の影響を深く受けていたということ。

私たちはこのイメージを頭に10号線を北へと向かった。

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レアな経験(宮崎編・前編)

15ヶ月ぶりに

私が仲人さんと二人で旅をするようになって四年が過ぎようとしている。仲人ということで、当然結婚する前からの長い付き合いになるが、このような関係になるとは4年前まで思っていなかった。

2021年冬、私は全国通訳案内士の2次試験を受けた。日本の城下町についての英語による口頭試問であった。その様子を仲人さんに焼き鳥を食べながら話した。彼は日本史のしかも城下町が専門だったため、興味を持って私の話を聞いてくれた。

そしてその場で二人で城下町を旅するというプランが生まれた。翌年から2年間に、江戸時代からの現存12城のうち、仲人さんが行ったことのない丸岡、備中松山、丸亀を中心に4度旅を行った。

結婚をするに際して仲人を立てることすら珍しい現代において、その仲人と一緒に旅をすることは限りなくレアな経験であろう。私は知り合って20年以上経ってから経験するこの新たな関係を楽しんだ。

昼間はひたすら城跡や博物館や古い街並みを巡る。お互いお酒の好きな私たちは、その話をつまみに夜は飲み歩くのだ。観光名所やお土産のことなど全く気にしなくてよい、純粋に地理と歴史に関する興味が郷土料理と地酒に絡まった旅、楽しくないはずがない。

「現存12城を巡るまで」の計画が終了すると、「仲人さんが全県制覇するまで」に変わり一昨年末に私たちは鹿児島を旅した。九州で残っているのは宮崎県。そういうわけで私たちは15ヶ月ぶりの旅を行うことになった。

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異常な光景?

君たちが全て悪いわけではない

今日、約300名の生徒たちの前で話す機会があった。タイトル2つのうち一つは「君たちが全て悪いわけではない」。スマホ依存に対して考えてもらう内容であった。

子供達にこの話題を話そうと思ったきっかけは、こども家庭庁が行った調査の結果であった。高校生がネットを利用している平均時間、1日あたり6時間44分だという。

10年前なら「1週間の間違いではなかろうか」そんな疑念も浮かんでいたであろうが、毎日生徒たちの行動を目にしながら「多いけどありうるな」と今は思える。

私は生徒たちに、どうしてこれほど便利で面白いゲームやアプリが無料で公開されているのか考えさせた。経済が発達し、一通りの必需品が皆に行き渡った後に、企業は何から利益を得ようとしているのか話をした。

時間はお金になる。1分、1秒でも多く、人々がスマホの画面に釘付けになれば、それだけ広告や商品を売るチャンスが増える。だから世界中で有能な人たちが、いかに人々の目を画面に向かわせるか知恵を絞る。

巧妙に構築されたアルゴリズムが、「そろそろ他のことやろうか」と思う子供達の前に、興味あるもう一つの動画を提示する。普通の高校生で、この誘惑に勝てる意志を持つことは難しい。

置き場所が決められていた大きなモニターのデスクトップパソコンとはわけが違う。トイレでも布団の中でも、子どもたちは場所を選ばずにネットの世界につながることができる。

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828 ありがとう

夜11時半

「今日が最終日のはず」

寝室で眠りにつこうとしていた私はベットから降りて本棚の上のラジオを手にした。電源を入れる。いつもの周波数が液晶に表示される。

スピーカーからは何も聞こえてこない。「ザーッ」の音もない。ラジオが死んでいるようだった。3月31日の夜11時半、AM828kzの電波は関西地区の磁界を震わせていなかった。

少し遅かった。NHKラジオ第2放送はその前日の深夜に95年の歴史を終えていたのだ。最後の音を聞きたかったが、私の不注意でそれも叶わなかった。

まあいい。全てのものは移り変わっていくのだ。終わりのないものはない。しかしこの寂しさはなんだ。長きにわたって当たり前のように隣にいた人が、気がついたらもう会えない場所に行ってしまった、そんな気持ちだ。

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