レアな経験(宮崎編・中編)

国道10号線

昨晩はシメのうどんを食べた後、仲人さんとコンビニに寄ってホテルへ帰った。私の記憶はそこで途切れている。目を覚ますとつけっぱなしのテレビからBBCニュースが流れていた。

朝食会場で仲人さんに聞くと、私はコンビニで買ったハイボールを飲まずに部屋に戻って寝たらしい。かなり酔った状態である。それでも翌朝目を覚ますとスッキリしている。わだまだ若いのか、楽しい旅で体調が良いのか。

ホテルをチェックアウトして、ニシタチから宮崎駅近くのレンタカー店へと向かってゆっくりと歩く。昨晩の喧騒が嘘のように人気がない。時々、夜遊びをした風の男女が歩いている。

宮崎市の中心地を15分ほどかけて横切る。まだ、ビルが密集していて空き地が少ない。日本中の地方都市の中心部は、空き地だらけでスポンジのようになっている。ここはまだ大丈夫だ。福岡まで陸路で時間がかかることが関係していると思う。

本日は国道10号線を延岡まで北上する。見るべき場所もたくさんある。私たちは、戦前の建築である宮崎県庁舎を車から眺め、宮崎神宮近くの県立総合博物館で予習をすることにした。

休日で、入館料無料であったが博物館は私たちの貸切状態であった。私たちの関心は近世以降の歴史、1階の自然史展示室を足早に駆け抜けて2階へと進む。それなりの規模の展示室であるが、半分以上は民俗系で城や城下町に関する展示はそれほど多くない。

それでもいろいろと見学するうちに、近世以降の宮崎が浮かび上がってきた。その一つは、私の中で「日向の国」で一括りにしていた宮崎が、小藩や支藩が混ざった複雑な場所であるということ。また、徳川時代が始まる前、この地は大友と島津の影響を深く受けていたということ。

私たちはこのイメージを頭に10号線を北へと向かった。

小藩

本日最初に訪問する城は佐土原城である。現在では宮崎市の一部になっているこの地域であるが、江戸時代には3万石の独立した藩があった。

宮崎市街から一続きの平地であり、どこに国境があったのか検討がつかない。国道から西へ外れて丘陵地の谷間のようなところを進むうちに城を示す看板が現れた。

私たちは駐車場に車を停めて建物へと向かう。ここ佐土原城は土日だけ公開されている。地震の影響で正門が閉鎖されていたため、私たちは脇に設置された入り口から庭園を通り抜けて中へ入った。

”城”とはいっても、二の丸跡に立っている建物は発掘作業をもとに建てられた御殿であり、歴史資料館になっている。本丸跡はそこから30分ほど山道を歩いた尾根にあると聞き、訪問を断念した。

小春日和の中、戸を開け放った木造建築の中を歩くのは気持ちがよかった。東側には平地がひらけている。この高台の建物を中心に存在したわずか3万石の領地とはどんなものだったのだろう。国を超えての交流も当たり前のようにあったのではと想像する。

隣町の高鍋に着く頃にはお昼時になっていたため、名物の餃子を食べて高鍋城址へと向かうことにした。佐土原との間には一ツ瀬川が流れているので、おそらくここが国境であろう。

餃子屋さんから城へ向かっていると堀と石垣が見えた。高鍋城の外堀だろうと思うと、まもなく大手門跡が目に入った。桜のシーズンであるこの日は、ここでイベントが行われていて多くの市民で賑わっている。

臨時駐車場に車を止め、三の丸へと向かう。人々が楽しんでいる屋台や出し物には目もくれず、私たちは昔の痕跡を探して二の丸から本丸跡へと登っていく。ここは平山城である。

日本各地の多くの城跡がそうであるように、ここも石垣や曲輪程度しか残っているものがない。1868年、時代が大きく変わる時、前時代的なものには価値がなくなると判断されたのであろう。この時の打ち壊しと空襲がなければと、城跡を訪問するたびに思う。

資料館の職員さんに面白い話を聞くことができた。

ここから北へ向かったところで戦国時代に、大友と島津による大規模な戦いがあり、それは「耳川の戦い」と呼ばれているらしい。そして、その耳川の河口には宮崎の諸藩が参勤交代で用いた港があったという。

私たちは高鍋の後、直接延岡城へと向かう予定であったが、寄り道をすることにした。

大名の道 神の道

宮崎から延岡に北上する時、海は常に東側にある。西側の九州山地に端を発した河川が左から右へと流れている。私はそれら河川にかかる橋を渡りながらその長さに驚いた。

私の頭の中にある集水域に対して河川の規模が大きいのである。台風が頻繁に通る地域だけあって降水量が多いことを感じさせる。

それら河川が平地に形成するアップダウンを感じながら、私たちは延岡方面へと向かっていく。左手の山がだんだんと近づいて、やがて目の前に来る場所に美々津が位置している。宮崎からここまで海岸線には砂浜や礫の浜が続き、ここで岩礁が現れる。

海洋土木の技術力が低かった昔、大型船を座礁の心配なく接岸できた場所はここまで無かったのだろう。だから飫肥や高鍋の大名たちは参勤交代の折陸路でここまで来て、船に乗って東を目指した。

ここで乗船したのは大名たちだけではない。神武天皇も東征のおりこの港を利用したという伝説が残る。だからこの地には紀元2600年の記念行事の後、日本海軍発祥の碑が建てられた。

私たちは美々津の港に車を止めて耳川の対岸を眺めた。水深のありそうな地形をしている。木々の間に祠が見える。神武天皇と関係しているに違いない。

港のすぐ手前には例の記念碑が建てられていて、その奥手には神社が見える。私たちは国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された街を散策する。この辺りには、江戸時代から鉄道が開通するまで数多くの廻船業者があったという。そのうちの一つが歴史資料館になっていた。

木と石と土と紙、そしてわずかな鉄で作られた建物に入る。日本各地を旅して感じることであるが、気候の良い季節は伝統的な日本家屋ほど安らぎを感じる空間はない。

温暖化が進んだ今は、心地よい期間の幅が狭まっている。三月下旬昼下がり、私たちはこの建物2階の畳に座り海を眺めていた。風が通り抜け、その風と共に燕が部屋に入ってきた。こんな素晴らしい気持ちには滅多になれないと思った。

資料館を出る時、係の人が建物を背景に記念撮影をしてくれた。私たちが座ったのは「バンコ」という建物前面に設置された簡易長椅子である。普段は畳まれているが、客が来ると下されて即席の縁側となる。

その素晴らしいアイデアに唸っていると、係の人は「ポルトガル語が語源です」と言った。英語のbankやbench、イタリア語のbancoと共通したルーツが容易に想像できる。苦労は多いけど、語学を続けてきて良かったと思える瞬間である。

再び港に戻ると向こうからジョイント音が聞こえる。やがて787系が右手から現れて耳川の鉄橋を駆け抜けて行った。鉄道好きとして叫びたくなるくらい魅力的に光景である。

この美しくカーブしたガーター橋が架けられたのは大正時代である。日豊本線の開通により、美々津港の重要性は低下した。人と荷物は鉄道へ流れた。

それから100年、鉄道設備の基本構造は変わっていない。今回の旅で何度も車内から日豊本線を目にした。鉄道は風景に溶け込んでいる。高規格道路が不自然に目立っている。

反省しない

予定外の美々津訪問があったため、延岡到着が遅れそうでる。それでもここを訪問してよかったと思っている。訪れる各地で、私たちは職員に質問をする。仲人さんは日本史の専門家であるが、細かい地域の特定の時期に関しては、その地の人には敵わない。

好奇心を持って接すると、相手は真剣に答えてくれる。嬉しそうな表情をしている。「そういう質問を待ってました」という顔である。そういうやりとりをして、知識を得て、目の前の景色を変化させることがたまらなく楽しい。

正面に大きな煙突が見えてきた。旭化成の企業城下町延岡である。資料館は閉まっていたが、私たちは延岡城跡へ登り市内を見下ろした。日本の大きな川に挟まれた天然の要塞上にこの城はある。

「後ろからの防御が弱そうだな」と仲人さんが言った。だから私たちはレンタカーを返す前、そちらがどんな地形になっているのか確かめに行った。

昨日は地鶏中心だったので、今日は海の幸で一杯飲みたい。ホテルにチェックインした後、私たちは事前に下調べしておいた数軒をまわるが、いずれも満席であった。私たちの旅にはよくあることで、私のセンスは良いと変な自信がつく。

結局ホテル近くの普通の居酒屋に落ち着いた。目当てのメヒカリは置いてなかったが、それなりに地のものを堪能することができた。何より、焼酎のボトルが安かった。前日は躊躇したが、この日は頼んで湯割りを重ねた。

シメの辛麺は覚えているが、その後コンビニに行って酒とつまみを買ったことは記憶にない。昼間は大いに学びのある旅ではあるが、夜の酒場では何の反省もなく、学習成果が上がらない。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。