レアな経験(宮崎編・前編)

15ヶ月ぶりに

私が仲人さんと二人で旅をするようになって四年が過ぎようとしている。仲人ということで、当然結婚する前からの長い付き合いになるが、このような関係になるとは4年前まで思っていなかった。

2021年冬、私は全国通訳案内士の2次試験を受けた。日本の城下町についての英語による口頭試問であった。その様子を仲人さんに焼き鳥を食べながら話した。彼は日本史のしかも城下町が専門だったため、興味を持って私の話を聞いてくれた。

そしてその場で二人で城下町を旅するというプランが生まれた。翌年から2年間に、江戸時代からの現存12城のうち、仲人さんが行ったことのない丸岡、備中松山、丸亀を中心に4度旅を行った。

結婚をするに際して仲人を立てることすら珍しい現代において、その仲人と一緒に旅をすることは限りなくレアな経験であろう。私は知り合って20年以上経ってから経験するこの新たな関係を楽しんだ。

昼間はひたすら城跡や博物館や古い街並みを巡る。お互いお酒の好きな私たちは、その話をつまみに夜は飲み歩くのだ。観光名所やお土産のことなど全く気にしなくてよい、純粋に地理と歴史に関する興味が郷土料理と地酒に絡まった旅、楽しくないはずがない。

「現存12城を巡るまで」の計画が終了すると、「仲人さんが全県制覇するまで」に変わり一昨年末に私たちは鹿児島を旅した。九州で残っているのは宮崎県。そういうわけで私たちは15ヶ月ぶりの旅を行うことになった。

昔彗星今はANA

「こんな陸の孤島まで来るなんて」

訪問を告げると、宮崎の知人から自虐的なメールが返ってきた。彼女は私たちの訪問する日、入れ違いで関西に来ることになっていた。15年ぶりの再会は叶わなかったが、私たちは久しぶりのやりとりを楽しんだ。

彼女の言うように陸路で宮崎へ行こうと思うと、九州の他のどこよりも時間がかかる。20年前の訪問時は寝台特急彗星で旅した。大分で鳥飯弁当を買い、宗太郎を超えて、ゆっくりと宮崎平野を南下する。旅情を味わえ時間も節約できる最高の旅であった。

彗星の代わりにフェリーで行こうかと考えたが、私の仲人さんは船に弱い。私たちは伊丹から飛行機で旅立った。ただ、歴史と地理を学ぶための旅である。どこでもドアのような飛行機ではなく、片道は陸路で昔の人々の道のりを感じながら移動したい。だから神戸への帰りは鉄道に乗ることにした。

伊丹を出発したANA503便は1時間もしないうちに高度を下げ始めた。やがて大淀川の河口見え、予想外に西側から海へ向かって宮崎空港に到着した。伊丹を飛び立ってからわずかに70分、国内はできるだけ鉄道で移動することにしている私にとって驚異の早さである。

関西から宮崎へは飛行機で1時間と少し、世の中の大半の人にとっては当たり前の感覚であり、私がはみ出していることはわかっている。朝家を出て午前11時に宮崎にいることが信じられない感覚のまま、私たちはレンタカーを借りて国道220号線を南下した。

すぐに青島地区に差し掛かる。宮崎県を代表する観光地も、城下町を優先して今回はパス。ひたすら海沿いの道を進む。瀬戸内海を見慣れた私には海の色が青く感じる。宮崎では太陽は常に海の向こうから登ってくる。

8時過ぎに阪急十三駅で食べたそばも程よく消化されてきた。私たちは油津でマグロと魚うどんで昼食をとった。予想していたより大きな街である。いたる所に広島カープの赤い旗が見える。2月にキャンプでやってくるらしい。

油津から、日南駅を通って今日の目的地である飫肥まで向かう。だらだらと市街地が続いている。

「これって上越市みたいなものですかね」

私は仲人さんに話しかけた。「上越」という大雑把な名前は、港町の直江津と城下町の高田が合併した時にできた。油津から飫肥まで車を走らせてみて「日南」という地名に同じ匂いを感じたのだ。

いつもならいろいろ話し合って「宿題にするか」となる場面であるが、仲人さんはスマホに向かって話しかける。即座にAIが日南市の由来について解説をしてくれる。

前回の鹿児島旅から15ヶ月。この間に私も仲人さんもAIとの距離が縮まった。疑問はすぐに聞き、概略を頭に入れて次の問いを考えることができる。より深く探求できるのか、思考が浅くなるのか、そのどちらでもないのか、今のところわからない。

飫肥

川を渡ると街の雰囲気が変わった。幅の広い道沿いに統一感のある建物が並ぶ風景に、知覧のメインストリートを思い出した。飫肥の城下町だ。しばらく走るとまた橋を渡った。私たちは飫肥城へと曲がる地点を通り過ぎたようだ。

しかし、おかげでこの街の大きさがよくわかった。最初の橋の上流が通り過ぎた橋である。この間酒谷川は大きく蛇行しており、その段丘面に作られたのが城下町飫肥である。つまりこの川は、飫肥城の外堀の役目も果たしている。

私たちは引き返し城へと向かった。車を降りて大手門へと歩く。この街を紹介するとき必ず使われる光景が現れる。アスファルトから少し視線を上げれば、200年前と変わらない光景が現れる。

私たちは資料館を見学し、本丸跡へと向かった。その平面は一定の間隔で植えられた杉の巨木に覆われていた。「ここで缶蹴りをしたら面白いだろうな」と仲人さんが言った。

私たちは空を見上げた。木々の隙間からわずかに空が見えた。山と海に囲まれたわずかな平地に小さな藩があり、その中心がこの城であった。ここにいながら人々は外の世界をどのように想像していたのであろうか。

宮崎や都城まで抜けるのも大変な道である。多くはこの狭い地域で生まれて、そこで暮らし、一生を終えていたのであろう。そう考えると、今朝伊丹から飛行機でやってきて、ここで午後を迎えていることが不思議でならない。

資料館に参勤交代の記述があった。陸路で日向まで移動し、そこから船に乗って大坂へ着き、さらに陸路で江戸へ向かったという。日本で一番江戸へ向かいにくい場所の一つであったであろう。

知人の「陸の孤島」という言葉を思い出した。

ニシタチ

私たちは日南ICからできたばかりの高速道路で宮崎市街へと向かった。途中、田植えが行われていた。まだ三月下旬である。兵庫より2ヶ月早い。2期作なのかもしれない。

自然の地形とは関係なく一直線に掘られたトンネルを私たちは進む。ナビを見るとグングンと宮崎市街が近づいてくる。

「日南線はいつまで持ちこたえるだろうか」

日本各地で考えることをここでも感じた。

レンタカーを返却する前に、私たちは県立平和台公園に立ち寄った。戦中に建てられた巨大な塔を見るためである。その中心には「八紘一宇」の文字が刻まれている。

この言葉に力を持たせるために、高さ36メートルのこの塔が建てられた。そしてその思想性ゆえに、戦後はしばらくの間文字が削り取られていた。時が移り変わり、今はまた復元されている。

形式と内容の間の人為的な取り決めでできているのが言葉である。石に彫られた形が、人間の思考に影響を与え、その行動を規定する。巨大な塔に彫られた4文字、その言葉の力を感じたくて私たちはここへやってきた。

レンタカーを返してホテルにチェックインすれば、今日の反省会という名の飲み会が始まる。宮崎の繁華街、通称「ニシタチ」と呼ばれる橘通り西側を歩いて店を決める。人口の割には歓楽街が大きい。プロ野球のキャンプで人が集まるからであろうか。

私たちは、地鶏の炭火焼きを焼酎で流し込みながら今日1日を振り返った。朝から12時間も一緒に行動しながら話が尽きることがない。もっと早く旅行をするべきだったのかもしれない。

宮崎名物辛麺は翌日にまわして、私たちは釜揚げうどんとビールでしめることにした。うどん好きの妻が探しくてくれいた店だ。確かに、讃岐とも博多とも違ううどんである。

たかがうどんであっても、場所が変われば違うものが出てくる。この多様性が、この国を旅して一番面白いと思うことである。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。