東銀座まで
新幹線を新横浜で下車して横浜線のホームへと向かう。時間はまだ午前9時過ぎである。私にとって、この駅で下車するのも横浜線の電車に乗るのも初めてのことであった。
やがて八王子方面から電車がやってきた。形式はよくわからない。車両を長く使うJRに西日本に比べて、JR東日本のそれは頻繁に変わるので覚えきれない。
先頭車両で前面展望と運転手の動きを見る。駅に停車をすると、運転席のモニターにホームから見た車両が映し出される。どうやらこの列車のドア開閉は運転手が行なっているようだ。ということは、ここではワンマン運転が行われているのか。
横浜線は日本有数の黒字路線である。合理化の波はこんなところまで容赦なく押し寄せているのかと思う。私たちはどのような世界に向かっているのだろうか。
終点の東神奈川で京浜東北線に乗り換え、一駅先の横浜で下車する。神戸市内発横浜市内行きの乗車券が、自動改札内に回収される。しかし、私の目的地はここではない。
まだ時間に余裕がある。横浜駅構内をぶらりと歩いてから、京浜急行の改札にICOCAをタッチして入場する。「京急そば」で遅めの朝食をとり、ホームに上がると特急がやてきたので、それに乗り込む。車内は満員で息苦しい。首都圏は人が多すぎると、行く度にそう感じる経験をする。
京急蒲田で衝動的に下車する。前回この駅にやってき時は高架工事の真っ最中であった。年数と共に適度に汚れてきた駅を見ると、地上駅時代があったことなど想像できないくらいだ。人もモノも、全てのものが確実に年を重ねていく。
列車が品川駅に到着する。ここも工事の真っ最中。次にここを訪問するときは、別の姿を見せてくれるのか。京急電車は地下へ潜り都営浅草線の線路を北へと走る。
10時半、私は東銀座で下車した。この日、銀座に用事があったわけではない。私の約束は1時間後の東京駅。だからゆっくりと銀座から八重洲へ向かって歩く。
午前中に通っても華やかな街である。多くの人が店の前で列をなしている。それぞれの人が目的と楽しみを持ってこの街に来ているのであろう。私は、心の中に嬉しさを持っていた。ただそれは大きな悲しみに包まれたものであった。
八重洲口の巨大なビルを背景に桜が咲いていた。神戸よりも少し早い。
「先輩は、来年、この桜を見ることができないのか」
私はそう思いながら花を眺めた。私は今から死にゆく人に会いに行くのだ。
5人になって
八重洲中央口で広島からやってきた同期のSと再会する。まもなくR先輩から「着いたぞ」のメールが入る。指定された場所に行くと、M先輩運転の助手席に乗ったR先輩の姿が見えた。R先輩は一足先に高知から羽田に到着。私たちは皆、大学で同じ音楽サークルに属していた。
四人を乗せた車は東京郊外へと向かった。久しぶりの再会に一同盛り上がるが、時折沈黙の時間がやってくる。皆同じことを考えている。D先輩のことである。
今年2月下旬、別の先輩から電話がかかってきた。「大阪でライブハウスを借りてイベントをしたい。Dの病状がよくない。最後のライブになるかもしれない。お前より下の世代に連絡してほしい」そんな内容だった。
それから1月して同じ先輩からLINEが来た。「早く東京に会いに行った方がいい。ライブは無理そう」
私は押入れのダンバール箱を引っ張り出した。数年前、写真を整理してその大半を捨てていた。残っていたのは捨てきれなかった大切な写真である。その中に探していた写真があった。中洲のネオンをバックにD先輩と私が写っていた。
大学卒業後、D先輩は就職し福岡で働いていた。写真は、私が同期のSと一緒にそこへ遊びに行ったとき撮ったものであった。日付は1995年1月8日となっている。D先輩とはその日から会っていない。何度かその時代のメンバーで集まる機会があった。しかし、私とD先輩とはすれ違いが続いていた。
この日、私は31年ぶりにこの先輩と再会しようとしていた。久しぶりに会えることは嬉しいが、分厚い悲しみの渦に包まれた嬉しさであった。
数年の間、毎日のように学校や部室やスタジオで顔を合わした人と、31年間の空白の後、最後の再会を行おうとしているのだ。本当に31年間が存在したのであろうか、そんな気持ちになる。
車は病院の門をくぐり、ホスピス棟まで進む。駐車場に懐かしい後ろ姿が見えた。私の同期のBである。背中の雰囲気が30年前と変わらない。ただ、やはり顔はそれなりに時間の経過が刻まれていた。
5人になった私たちは、マスクを着用して受付へと進んだ。
握手
「抗がん剤の影響で髪が抜けている。あと黄疸で黄色くなっている」
東京在住で何度か見舞いに行っていたM先輩が私たちに伝えた。
「覚悟はされているんですか」
私が尋ねる。
「全部わかっているし。落ち着いている」
M先輩が答えた。
病室をノックすると奥さんが出てきた。初めて見る人である。それから奥のベッドに座るD先輩の姿が見えた。思ったよりは痩せてはいない。しかし、私の知る若々しい青年は老人のような様相に変わっていた。
31年という時間を差し置いても、人間の姿はここまで変わるのかと思った。ただ、視線を合わすと昔の先輩の姿が現れた。
形通りの挨拶をする。何から話したらよいのかわからない。ベッドの横に置かれたパソコンからは、聞き慣れた曲が流れていた。先輩が2月にスタジオに入って合わせた時の動画だった。D先輩は椅子に座ってギターを弾いていた。しんどそうに見えた。先輩はその直後に再入院した。
「昔はこれの3倍ぐらいの音で弾いていた」
D先輩が口にした。
動画が終わった。
R先輩がオリジナルのバンドTシャツを手渡した。その正面には学生時代の4人の写真がプリントされている。
一人一人取り止めもない話をした。私は先輩と博多で撮った写真を見せた。その時の思い出話になった。
今どういう気持ちなのか、やり残したことはあるのか、聞きたかったが聞けなかった。私が先輩と同じ立場ならどうなるのだろう。自分の、ただ一度きりの人生の終わりが迫っているのだ。私はとても正気ではいられないと思う。ただ、私にもいつかそんな時がやってくる。だから、その時何を思うのか知りたかった。
先輩が箱から小さなクッキーを取り出し、袋を破って口にした。その姿を見て不思議な気持ちになった。体は生きていくために栄養を欲しているのだ。なのに同じ体は同時に自身の破壊を続けている。生きるとは矛盾を抱えながら揺れ動くことのように思えた。
先輩の足が腫れ上がっている。肝臓がほとんど機能していないという。時折辛そうな表情になる。私たちは立ち上がった。そろそろお別れを言うべき時だ。
みんなで写真を写して、一人一人先輩と手を握り合った。私は右手で握手をした後、左手を差し出した。
「先輩のように滑らかに左手を動かしてギターを弾きたかったです」そう言った。
先輩は部屋から出て受付まで送ってくれた。そこで待っていた奥さんからお礼のお菓子をいただき恐縮する。
もう一度、皆が握手をした。私が最後だった。先輩は最初から左手を差し出してくれた。
受付から玄関までの長い廊下を歩いた。建物を出る直前、後ろを振り返った。病室に入っていく先輩の姿が見えた。
私たちはそれぞれ帰宅の途についた。
100分の1
サッカー好きの先輩は「ワールドカップが見たい」と言っていた。サッカーに興味のない私は、今年のいつ開催されるのかさえ知らなかった。調べてみると、案外近かった。これなら先輩も見られると期待した。
D先輩の訃報が入ったのは再会からわずか4日後の夜であった。
時間を計算してみると、私たちが会って100時間後の旅立ちであった。今から思うと、私たちがホスピスを訪問した時点で、D先輩の余命は100時間であった。
その貴重な余命の100分の1を、先輩は私たちのために使ってくれた。
私たちがこの世にいることができる時間を命をいう。だから、誰であっても余命を抱えながら生きていることになる。普段は意識せずに過ごすことができるが、生物にとって死が避けられない限り、振り返れば私たちは皆、いつの時点でも余命を生きていたことになる。
31年ぶりに視線を合わし、言葉を交わした。私の発した言葉に対し、D先輩は反応し、それに対して私も言葉を続けた。両者に命がなければ成立しないことだ。
別れ際の手の感触。指板を自由に動き回ったあの手は、もうこの世に存在しない。あの指で出した音は、どこへ行ってしまったのだろうか。
生きているとはつくづく不思議なことだと感じる。
私は、これから生きている限り、桜を見るたびこの日の出来事を思い出す。
