相乗効果
英語にsynergyという単語がある。語源辞典で調べたわけではないが、synとnergyという2つの要素から成り立っていることが推測できる。
synには「同じ」という意味がある。synclonizeは「同じ」「時間化する」を組み合わせて「同時に動く」という意味になる。sympathyは「同じ」「心」で「共感」である。
一方のnergyには「活動」という意味があり、日本語としても使われる「エネルギー」は、en「〜の中で」とnergyとの組み合わせである。
さてsynergyは「同じ」「活動」で「相乗効果」と訳されている。
こうしてみると、一見アルファベットの羅列である英単語が漢字熟語のように見えてくる。その漢字の一文字一文字、ここでいう英単語のパーツの多くは、古代ギリシャ語やラテン語に端を発している。
私は昨年秋からこのsynergy効果を感じている。正確に言うと今までも感じていたが、さらに大きくなったそれを感じている。私の心を震わせている分野は、語学である。
昨年の秋の時点で、私は5つの外国語を学習していた。始めた順番に英語、イタリア語、台湾語、台湾華語、ポルトガル語(ヨーロッパ)である。
しかし、フルタイムで仕事をしながらの5ヶ国語学習には無理があった。どの語も学習時間が足りなく、「できない」という気持ちが積み上がってきた。だから、私は台湾関係の二つを一時的に中断することにした。
ヨーロッパ系の3つの言語を同時に勉強すると、synergyを強く感じるようになった。今までの英語とイタリア語の距離にポルトガル語のそれが加わったからだ。イタリア語とポルトガル語は、同じラテン語をルーツに持つ言語である。
私的な感覚であるが、イタリア語とポルトガル語の距離を1とすると、英語と両言語との距離は5から10は離れていると思う。
しかし、この距離が一気に縮まる瞬間がある。それはラテン語を借りた英単語で、学術用語に多い。例えば「会議」に相当するごは英伊葡の順にconference, conferenza, conferenciaでありほとんど変わらない。
面白いのは伊と葡ではそれぞれriunione, reuniaoという言葉も「会議」の意味で使われることだ。英語でこれらの語と同じルーツを持つものはreunionとなるが、これは「同窓会」や「再会」を示し、会議の中でも少しニュアンスが変わってくる。
あるプロレスラー
興味のない人から見れば「だから何なんだ」ということであろうが、私はこのような気づきが面白くてたまらないと思う人間である。
今まで日伊という線上で起こっていた思考が、日伊葡の三角形の面の上で動いている感覚である。そして、その三角形の頂点間の距離は単語によって変化する。私はポルトガル語を始めて、この1年間たくさんの三角形を見てきた。
「この気づきを何かに記さないともったいない」
私はノートを作ることにした。「私デスノート」「頭(こうべ)ノート」に次ぐ第3のノートである。
ちなみに「私デスノート」には、自分の将来につながっていきそうな気づきやアイデア、またこうありたい自分の姿を、「頭ノート」には私が描写した風景が描かれている。
私は語学のノートを「スコット・ノート」と名付けた。英伊葡の距離感と関係性が私の頭の中に「スコッと落ちるノート」という意味と言いたいところであるが、本当は順序が逆である。
私は言葉遊びが好きで、時々ロンドンの方言であるコックニーのような言葉の使い方をする。コックニーでは階段を意味するstair はapple and pear(りんごと梨)、電話のtelephoneはdog and bone (犬と骨)と呼ばれることがある。
何のことかと思うが、これらは言葉の韻を踏んだ遊びである。stairとpear、phoneとboneが韻を踏んでいて、それらに似たような言葉がついてリズムをよくしているのだ。
私はこのコックニー的な発想に習い日本語でも密かに韻を踏んだ言葉を使っている。例えば、私の中では「難航」「南港」「軟膏」はいずれも前に「桂」をつけて呼ぶ。落語家の桂南光氏とかけているのだ。
私にはこのように韻を踏みながら使っている日本語が数十個ある。もちろん、妻をはじめとするごく親しい人の前でしか使わなく、あとは心の中で発音するのみであるが。
私の語彙の中でノートブックのノートは「スコット・ノートン」と言い続けてきた。私がプロレスに夢中になっていた1990年代に、新日本プロレスで活躍していらアメリカのレスラーだ。
どれぐらい前なのかわからないが、私はノートブックを表す言葉として「スコット・ノートン」を使い続け、今回三カ国語の語彙ノートを作るにあたってその固有名詞として採用したのだ。
これからの展開
このノートを書き始めて、3つの言葉を同時に学ぶことが楽しくてしょうがない。お互いの距離の伸び縮みと、ラテン語の影響が見え隠れするところがなんとも言えないのだ。
例えば「〜の場合は」という表現は、英伊葡の順に”in case of 〜”、”nel caso di〜”、”no caso de〜”とほとんど変わりがない。「恐れる」は”fear”、”temere”、”temer”と伊葡の近さが見えてくる。
さらに「嘘」という言葉は”lie”、”bugia”、”mentira”と一見バラバラのように見える。しかし、イタリア語の動詞で「嘘をつく」は”mentire”となりポルトガル語との関係が見えてくるのだ。
興味のない人にはなんてこともないであろうが、私にとってダイニングテーブいっぱいに各語の辞書を広げながら「スコット・ノートン」を作ることは、時間の経過を忘れる至福の時となる。
ノートを開くきっかけは、イタリア語やポルトガル語の文章を読む時である。読みながら「あっ」という気づきがある。ポルトガル語の”rio”という単語に出会う。川のことである。英語は”river”、同じrから始まっているが距離がある。
イタリア語で川は”fiume”、さらに遠い感じがするが辞書を引くと、イタリア語では「小川」とう意味で”rio”という語がある。
いろいろ調べるうちに私の中にある地名が浮かんでくる。アメリカとメキシコの国境「リオグランデ川」である。グランデ(大きな)リオ(川)という意味が見えると同時に、スペイン語でも川をリオと呼ぶことがわかる。
ヨーロッパ系の言語学習を2つから3つに増やすことで、線が面になるのを感じている。私はもう一つの三角形を作りたい気持ちになった。すなわち日本語、台湾語、台湾華語である。
さらに、ラテン系から少し離れたヨーロッパ系言語を学習すれば、大きな四角形となり、もっと多くのものが見えてくるという誘惑もある。
このように考えると人生は短すぎ、時間がいくらあっても足りない。だから当面は今の三角形に集中しようと思っていたのだが、そのスコット・ノートンもしばらく閉じる決断を、先日私は行った。
そのことについては、時を見て語っていこうと思う。全ては私がどのように生きて、どのように幸福を感じるかの問題である。
