なぜ外国語

自習監督

英語科教諭の一人がインフルエンザに感染した。LINEで指示を仰ぎ、時間の都合がつく教師がその教諭の受け持つクラスに自習監督に行く。先週私が行った二つの自習監督の、そのどちらでも見られた様子について書く。

自習の場合たいていの場合はプリント学習か、教科書付属のワークブックを行うことになる。この日私が指示を受けたのは授業の予習プリントであった。

これから学ぶレッスンに出てくる単語や熟語を調べ、文法事項の解説を読み、本文に書かれている内容に対する簡単な質問に答えるものだ。

その日、プリントを配布すると生徒たちは一斉にタブレットを取り出してそれをカメラで写し始めた。そして、そのタブレットを横に置き、プリントに記入を始めた。

私は一瞬何が起こっているのかわからなかった。少なくとも、私の授業ではこのような光景は見られないからだ。好奇心に駆られて目の前の一人に聞いてみた。

「なんでみんな写真撮ったん?」

その生徒は私にタブレットの画面を見せてくれた。私が配布した自習プリントに変わりない。しかしよく見ると、そこには日本語しか書かれていなかった。

つまりこういうことだ。彼らは英語の予習プリントをAIに和訳させ、その日本語を見ながらプリントを記入しているのだ。

プリントには、単語や熟語の意味を書かせる部分がある。出題者の意図としては、本文をよく読み行間から意味を推測する。自分の知識を総動員して、その文脈での意味を考える。単語がわからなければ辞書を引き、その作業の手助けをする。

生徒がやっていることは、タブレットに浮かぶ日本語をそのままプリントの同じ位置に書き写すことだけである。

内容理解についての質問も同様。日本語で文章を読み、質問に当てはまる部分を探してプリントに写す。こちらは、単語や熟語よりも少しは頭を使うことになる。しかし、それは日本語の文章を読み取る力であり、英語のそれではない。

生徒たちはとても真面目に作業を行っていた。みんな早いペースでプリントを仕上げていく。私は、始めにこのプリントを回収して休んでいる先生に渡すことを告げていた。

勉強が好きそうな生徒は多くないが、こういう時は真面目に自習を行う。プリントの提出が成績に加点されることを知っているからだ。だから、できるだけ早くプリントを終わらせて、あとはタブレットで自分の好きなサイトを眺めている。

彼らにとって”タイパのよい”行動である。

目的にかなっている

私は彼らの様子を呆気に取られながら見ていた。英語学習の時間に彼らは全く英語を学んでいない。しかし、彼らからは、それがおかしいことであると思っている雰囲気が伝わってこない。

彼らは、彼らのできる最短時間で課題を行い、指示通りそれを提出した。私は「英文を何度もよく読み、自分の知識を総動員して問題を解きなさい」とは言っていない。そのようなことは自明のことであると思うからだ。しかし、それは彼らには当てはまらないことであった。

AIの登場によって、それほど頭を使わなくても、今までできなかったことが容易に可能になった。論文や小説を書かせれば、自分のアウトプットよりはるかに正確で読み応えのあるものができる。人を感動させる音楽や絵画だって作ることができる。

高校生用の英語の問題を解くことなど、AIにとっては一瞬の作業である。そしてそのAIがもたらした恵みを、私の目の前の生徒たちは受け取り、余った時間で自分の好きなことを行う。成績につながる課題は終わらせた。自分の時間を好きなことに使える。なんてコスパの良いツールだと思っているであろう。

私たちの世代は「それでは英語を勉強する意味がない」と思う。しかし、文部科学省の定める学習指導要領の外国語において、一番重視されているのは「コミュニケーション能力」である。

AIの進化と現代の学生たちの行動を考えると、実はこの目標に近づいていることがわかる。私は半分皮肉を言っているが、もう半分は真面目である。

AIの登場によって、言葉の壁がなくなりつつある。書面でも音声であっても、英語が一瞬で日本語になり、その逆も同様である。一昔前の翻訳と比べ、その精度は格段に向上し、頓珍漢なAIの回答は減った。

一般的に考えられているコミュニケーションのコアは、情報伝達と理解である。時間と労力をかけて相手が理解できない英語を身につけるのより、AIを利用した方がこのコアにはるかに近い活動ができる。

外国語を学ぶことによって成し遂げることができた教育目標は、今や外国語を学ばなくてもAIを使いこなすことによって表面上は達成することができる。

ではどうして私たちは英語を、外国語を学ばなくてはならないのであろうか。

変身・変態

自分の考えを持つ。それを相手に伝えて理解してもらう。そのためのコミュニケーションツール、それが英語。私は教科を問わず同僚がそう生徒に言うのを、えずきそうになりながら聞いていた。

苦労して習得していた能力が、AIという本物のツールに置き換わった今、それらの教師たちは学校で学ぶ英語をどのように捉えているのだろうか。

もうそろそろ「コミュニケーション」や「ツール」を全面に出すのはやめた方がいいと思う。どうしてもコミュニケーションを重視したいのなら、その中身を変えるべきではないか。意思疎通から贈与と返礼へ。わかりやすさから現状の自分を否定する苦しみへ。

どうして外国語を学習するのか。人は他者を必要とするからである。他者とは自分の思いが辿りつかない存在である。それでも人は他者に触れたい。その思いが最初の贈与を起動させる。

私たちは相互理解することがない。ただ、自分を変える時、相手に少しだけ近づくことができる。今まで自分に存在しなかった世界の断片、思考の枠組みを持つことで、自分とは異なる他者の視線の先に触れることができる。

外国語学習ほど、この境地に近づけるものはないではないか。私たちは外国語を学び、私たち自身を変化させる。もちろん母国語の語彙や表現を増やしていくことでもこれはできる。しかし、全く異なる言語体系を学ぶことはこの能力を加速させる。

他者を必要とし、理解できない他者に近づこうとする資質、それを人間性と呼ぶ。だから外国語学習は人間性を身につける活動なのである。

その素晴らしさを希釈して高校生たちに伝えられないのか。

私は、この時代に生まれて、このような動機で英語を学ばざるをえない生徒たちが、可哀想でならない。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。