9月最終週
残り1週間で9月が終わる。学校の学年の半分、暦の一年の4分の3が終了する。
子供の頃から思っていたことがある。
プロ野球のオープン戦が3月に始まる。一月後に公式戦が始まり、夏休みの始めにオールスターがあり、9月に入ると残りゲーム数が新聞に表示され、マジックが点灯する。
「始まった」と思ってから「あと少し」までの時間的感覚が、後から振り返ると異常に短いのだ。
「もう野球シーズンも終わりなのか」を何十回も繰り返してきた。少年だった私は、あっという間に50を超えるオヤジになってしまった。
「大人になるってどんな気分なんだろう」
子供の頃の私はそう思っていた。
今の私と当時の私は地続きでつながっている。一日一日歳を重ねてきた。だから子供の頃と気持ちは変わっていないように思える。中身も子供時代と変わらなく思えるのだが、それは私のアウトプットを見ると錯覚であることがわかる。
毎日外国人教師と英語で話をする。日本語を介することなく、英語を英語のまま理解し、頭に浮かんだ英語を声に出す。
そんな私も中1のはじめ、英語を習っていた友人が私に示した単語を発音することができなかった。そこには”this”と書かれていた。
数年後、セサミストリートを見て、エルモの言ったセリフ”What’s next?”が聞き取れた時は嬉しかった。
確かに中身は変わっている。知恵や知識も増え、できることも多くなった。オヤジになった私が想像する「子供の頃の私の気持ち」は幻想に過ぎない。
私は成長を続けている。それはわかる。
ではなぜ、私はこの数十年間相変わらず欠落感を感じ続けるのだろうか。「もう九月になった。今年もあと3ヶ月で終わる。私は何もできなかった」どうして、この言葉が頭を回り続けるのだろうか。
自分では頑張っているつもりである。通勤時間はずっと学んでいる。歩くときは語学の音声を聞き、電車の中では読書をする。
家に帰り、お酒を飲まない日は、12時ごろまで語学や読書に加えて文章を書いたりギターを練習したりする。
休日は平日より早く目を覚ます。勉強するためである。なかなか起きてこない妻を尻目に、3カ国語を練習し、新聞を読み、本を手にする。家事を手伝うときもpodcastを聴きながらだ。
たぶん、平均的な50代のオヤジと比べると、かなり学んでいる方だと思う。
それなのに、私はいつも欠乏感を感じながら生きている。自分がどこを目指しているのか、どういう心の状態になりたいのかがよくわからない。
時間はある
「時間は誰の前にもある。ただ優先順位を間違えているだけ」
そんな言葉を聞いたことがある。確かにそうである。私の前に時間はある。しかし「時間がない」と感じ続ける自分も、確かにいる。どうやって折り合いをつけていけば良いのであろうか。
私は自分の気持ちを記しながら考える。私は確かに成長している。50代にしては学んで行動を続けている。しかし、この「時間がない」「私はまだ十分に行っていない」という気持ちだけはずっと変わらない。
子供の頃からずっと思っていた。「自分の心が落ち着かないのは、欠乏感を感じるのは、まだ十分に行なっていないからだ」。そう思い続けながら、気がつけば50代に入っていた。
この先、自分の心が落ち着き欠乏感が癒やされる時がくるのであろうか。
人生は永遠に続くものではない。というか、今の私の年齢を考えると心も体も元気で過ごせるのはあと二十数年というところか。
このまま走り続けていても心の平安は得られないのではないかとう不安がある。あれがしたい、これをしなくてはならないと、自分は行動の面で欲張り過ぎている。
ブログを書き始めて、この心の縛りに気がついたはずであるが、時折こうして浮かび上がってきては私を苦しめる。
何かを捨てないと楽にならないのではないか。何を捨てる。語学、文を書くこと、読書、サウナ、酒、相撲、バイク、明石焼き、農業、ギター、旅、鉄道。
確かに私は人並み以上に行なっていることが多い。こうやって記して見ると、自分が欲張りなことがよくわかる。南方熊楠のような頭脳を持っていたら、全て行うことができるかもしれないが、私は凡人である。
「何を捨てたら楽になるのか」そう考える反面で、何かをやめたらその事実がまた私を苦しめることも容易に予測できる。そんな袋小路に私は入っている。
抜け出すために
ここから抜け出すためには、項を一つ繰り上げてみるしかない。考え方を変えてみる。上空から私を眺めてみる。
私が上から見ている人間は、やりたいことをたくさん持っている。その数に対して行う時間がないことに苦しみを感じている。人生は短いと言って嘆いている。
こう考えてみよう。
目の前にたくさんの好きな食べ物がある。私は自由に食べることができる。できれべみんな食べたい。しかし、私の胃の大きさには制限がある。どうしよう。
もっと俗なことを考える。
私の前にたくさんの女性がいる。みな私の方を見つめている。誰一人とっても魅力的である。私には彼女たちを自由にする権利が与えられている。夢のような状況である。しかし、私の体力には限界がある。どうしよう。
上のような状況で嘆き悲しむ人間がいるであろうか。これらは、古今東西多くの人の人生の中でも例外的に幸運な状況である。
私は恵まれ過ぎているのだ。やりたいことが、魅力を感じることがたくさんある。そして、私にはそれを行うことのできる健康な体と恵まれた環境がある。
こう考えてみると、私の悩みは実は恵みであることがわかる。少しずつ行うのもよし。一つを深く行うのもよし。何をどうしていても、結局は自分は好きなことをしている状態に変わりはない。
全部を深く行うのは無理。しかし、その状態は幸せな状態でもある。
九月が終わるのが早いと感じようと、生きている限りはまた九月はやってくる。その間をやりたいことで埋めることができたら、例えそれが半端者の集まりであろうと、幸せなことであると思う。
今回は特に、文章を書きながら私は癒やされた。