例文800
私の手元に20年前に買ったイタリア語のテキストがあります。NHK出版から販売された「イタリア語 書ける!話せる!実用文例800」です。当時の私はイタリア語の勉強を始めたばかりでした。「800もの例文を覚えたらけっこう話せるようになる」そう思って購入しました。
このテキストは言いたいこと別に52のパートに分かれています。各パートは見開きの左側のページに日本語が、右側にそれに対応したイタリア語が載せられています。例文で確認した表現を元に、ページの半分を隠して日→伊、または伊→日へと訳す練習ができるようになっているのです。
このテキスト、購入してから本格的に使われるまで20年近くの月日が必要でした。各ページの端に学習した日付が書かれています。1~2年は平気でとんでいます。つまりそれくらいの頻度でしか開かなかった本です。
それが2022年初めから突然変わりました。きっかけはその前の年のイタリア語検定2級の作文が全くできなくて悔しい思いをしたことでした。一日見開き6枚、12ページのノルマを課して伊訳練習を始めました。できない日もありますが、このペースで行くと2週間以内に一冊終えることができます。見開き2ページを終えたら、端に「正」の字をつけていきます。私はこの年のイタリア語検定までに20回、この本を繰り返しました。これだけやると800の例文はほとんど覚えています。
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向かえた2022年の検定ですが、リスニング・筆記ともに合格点を取りましたが、何と作文が前年と同じ点数で一次試験不合格でした。「これだけやったのに全く書けなかった前年と同じ点数とは…」悔しい気持ちでしたが立ちどまるわけにはいきません。私は、もう一冊例文集を買いました。「口が覚えるイタリア語」といい、約500の例文が載っています。
不合格が分かった昨年の11月からこの2冊のテキストを並行して練習し始めました。偶然にも新しいテキストも「実用文例800」と同じく52章からできています。私は、それぞれのテキスト見開き4枚ずつ、計16ページを一日の割り当てにしました。こうすると一日に100例文の日伊訳の練習になります。
52は4で割り切れるので、本当に毎日このノルマをこなせば13日で一冊終えることになりますが、今は15~16日のペースでやっています。
この練習を続けていくと、自分の脳の中にある変化が起こることに気がつきました。それは、何気なく日本語の記述を目にしたとき、英語と並んでイタリア語の表現が頭に浮かぶようになったことです。
私はよく「これ英語で何と言うのだろう」ということを意識しながら日本語を読みます。読書時ではなく、注意書きや簡単な説明を目にするときです。コンピューターのバックグラウンドアプリのように常時このような意識を持っていたら疲れますが、時折意識することは英語力維持のために有効です。
先日も私が英語を意識しながら過ごしていた時「今や日本語で話すことに慣れてしまって…」という表現を目にしました。
私の脳はいつものように
“Now I’ve got used to talking in Japanese…”
という英語の表現と共に、
“Ormai sono abbituato di parlare in giapponese…”
というイタリア語のフレーズが出てきました。
こんな時、私は無数の中断と再開を繰り返しながらもずっとイタリア語をやってきてよかったという気持ちになります。こんな知命の近いオヤジになっても、自分の脳が力を伸ばそうとしていることが嬉しくなります。
少しずつ…
決まった語学のルーティンと一緒にやっていることが筋トレです。「筋トレ」というとボディービルダーのようなイメージを受けますが、全くそんな大したものではありません。専門的な知識も根性もないまま「ねばならない」という私の病気に引っ張られたこれもルーティンです。
やり始めた理由はいくつかありますが、大きなものは「脂肪肝」と「高血圧ぎみ」であると診断されたことです。どちらもお医者さんには「酒を控えろ」「体重を落とせ」と言われました。
お酒を減らすことはなかなか難しいです。「酒を飲まない」以外で体重を減らすためには、控えめに食べて基礎代謝を上げることだと考えて筋肉量を増やすことにしました。
語学のルーティンを行うと集中力が落ちてくるため、そこに筋トレを挟みます。イタリア語の作文が見開き4ページ終わったら腕立て伏せ20回、屈伸20回という風にです。
知識が無いため、筋トレと言っても「腕立て」「屈伸(スクワット)」「腹筋」「背筋」ぐらいしかバリエーションがありません。
「語学も筋トレももっと落ち着いて別々にやったらいいのに」と思うのですが、私の場合それだと続かないのです。体重はなかなか落ちなく、肝臓の数値も変わらないのですが、筋肉だけは少しついてきたかなあと思っています。
私の中で今イタリア語学習は体を動かしながら行うもの、という位置づけになりました。
真の理由
このように私は使うアテのない言語を毎日練習し、本当はやりたくもない筋トレを続けています。何のためにこれらを行なっているのでしょうか。私の大切な時間を、一見あまり意味がありそうにないものに使い続けています。
「イタリア語は英語をより理解するための手助けになり、筋トレは脂肪肝や血圧を下げてくれる」周りの人にはこのように説明します。しかしこれらの理由に私自身が100%納得しているわけではありません。私の心は、無意識の領域ではもっと別の理由を持っています。
最近少し私が背負っているものがわかるようになってきました。どうして私は頭と体を使い続けなければならないという呪縛に取り憑かれているのか。
イタリア語と筋トレは頭と体を使うことのそれぞれの代表であり、他にも私の日常は常にこの二つを使わなければという強迫観念に支配されています。
例えば私はよく歩きます。電車で行けるところも頻繁に徒歩移動します。5階ぐらいならエレベーターに乗りません。駅でエスカレーターに乗ることもなく階段を歩きます。その間ずっとイアホンからは語学か勉強系のポッドキャストが流れています。
電車に乗ってもボーッとすることがありません。常に読書をしています。今はそんな事はありませんが、かつては電車で読書中に寝てしまうと自分に対する激しい嫌悪感に襲われていました。
「寝る時とお酒を飲む時以外は、常に体と頭を使い続ける”有意義な”ことを行わなければならない」このような思いに取り憑かれてずっと過ごしてきました。随分とストレスフルなことだと感じます。そのおかげなのか、体は健康ですし、平均的な人よりも物事をよく知っていると感じる場面もあります。
私は歳をとり、動けなくなり、訳のわからないことを言いながら死んでいくことを恐れているのです。私は自分の無意識の中でその恐怖と戦っていたのだと感じました。もちろん、言葉にした時点で無意識は有意識になりますが、今まで言語化できなかった恐怖心の一つはその死ぬ時の無様な姿の自分にあります。
体と頭を動かし続けている間は、そのような自分にはなっていません。和文伊訳の練習を行っている瞬間は、正気で頭の働いている私です。今日私にできることが明日もできる。その「できる」をできるだけ長く続けていきたい、そういった思いで私は”有意義なこと”に取り憑かれているのだと思います。
去年、ハッと正気に戻らされる出来事がありました。
プロレスラーのアントニオ猪木さんの死です。
晩年の猪木さんの姿を久しぶりにテレビで見た時、私は激しく動揺しました。「年月の経過はあの強靭な人をこのような姿に変えてしまうのか」と涙が出そうになりました。
私は生物の在り方として当たり前の光景を見ているだけです。どんな人も生き続けるうちに次第に老いて、やがては死をむかえます。その直前の姿はかつての力強さや黎明さが失われているのが当たり前の姿です。
日本のプロレス界で最も偉大で強かった男であってもその例外ではありません。その自然の摂理を目の当たりにした時、私はその姿を自らに投射せずにはいられないのです。身近な人たちが歳をとって死んだ時もそうでした。
思うように体を動かせない、思うように思考できない、結局最後はそのような姿になって旅立つことが多いのです。私の無意識は今まで、そんな未来の自分の姿に抗おうと意識下の私を動かしてきたのだと、今思うことができます。
イタリア語の学習について書こうと思った記事が思わぬ方向に進んでしまいました。これも書くことの一つの効用であると考えます。
私の無意識下で私に取り憑き、私を苦しめてきたことはこれでだけではないと思いますが、これからも書き続けることでそれらと向き合っていきたいと思います。
そして、以前にも何度か触れましたが、私の抑圧してきたことの中で最大のものは、私の仕事の中にありそうなのです。そして、それを掘り下げていくと自分の父親に到達しそうな予感もします。怖い気持ちもありますが、少しづつ近づいていきます。
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