8月最終週
昼間の暑さは変わらないが、日が1日1日短くなっていく。仕事から帰宅して、電気をつけることなく本を読むことができたのが夏休みの始まり。今は玄関ポーチの明かりを見ながら「ただいま」を言う。
道を歩きながら蝉の死骸をよく目にする。7年間土の中で過ごし、たった2週間太陽の下に現れて、その命を終えた体を横たえている。
私はその姿を見ながらたくさんのことを想像する。蝉が命を得たその日から屍になるまでに残したものを考える。餌を食べて、新陳代謝を行い、成長し、成虫になり、大きな声で空気を震わせて鳴き、受精卵を残す。
あるものはその途中で病気になり、あるものは他の動物の餌になる。予想外の低温や山火事の熱で命を落とすものもあるだろう。それらを潜り抜けた幸運な個体は太陽の日をあび、木々の下を飛び回り、天寿を全うした後、猫に食われたり微生物に分解されたりする。
蝉が残したもの、次の世代と自分の体。ただそれだけである。
想像力を蝉から他の生き物に移してみる。
蝉と同じタイプの生き物は多くいる。昆虫や魚類や爬虫類である。何も変えない、残さない。ただ生きて、次の世代と自分の体を残して命を終える。自然の法則に従って、生まれるべき時に生まれ、食べるべきものを食べ、何も持たず、何も変えずに死んでいく。
何かを変えたり所有する生物もいる。大抵は巣である。スズメバチやミツバチが巨大な巣を作る。たいていの鳥は小枝を集めたり木をくり抜いて巣を作る。
最も大きな変化をもたらすのはビーバーだろう。北米や北ヨーロッパに生息するこの動物は、木を切り倒して川を堰き止め、その結果できた湖に人工島を作る。木を積み重ねて作ったダムは、水を漏らさないために間に川底の泥を集めて敷き詰めるらしい。
私の知る範囲では、ビーバーが最も周りの環境を変化させる動物である。作ったダムや巣が次の世代によって使われるとすれば、ビーバーは何かを所有し資産として次世代に残せる動物となる。
ここまで書いていて私の好きな鳥、ツバメに思いが移った。私は、ツバメが子育てする姿を眺めるのがこの上なく好きなのだが、多くの巣はすでにあったものの使い回しである。ツバメも物を作り、遺産を残す。
調べてみるとそのような動物は多いかもしれない。
火を使う動物
夏の終わりに蝉の亡骸を見ながら私は思う。
「どうして人間はこんなに周りを変えてものを溜め込むんだろう」
蝉は何も変えず何も持たなかった。
巣を作る動物たちは自然の姿を変えて、変化した状態を残した。しかしその変化は、自然にあるものを動かして別の場所へ置き換えることが基本。
わかりやすいのは鳥の巣。小枝を1ヶ所に集めてお椀の形にする。または泥をすくって唾液と混ぜて貼りつける。
ビーバーも木を切って集め、泥でその間を塞ぐ。自然界のものがある場所から別の場所へ移動するだけであり、そのものは変化しない。
蝉の亡骸の下にはアスファルト舗装された道がある。アスファルトの原料は石油である。石油も自然のものといえばそうである。しかし、人間以外のどの動物も石油をアスファルトに変えることはできない。そこに必要なものは不自然なプロセスである。
視点をドローンのように上空へと移動させる。蝉の亡骸が横たわっている街が見える。住宅やビルが立ち並び、網の目に舗装道路が張り巡らされ、電線が全ての建物を結んでいる。
街は多種多様な素材で作られている。自然のものをそのまま加工したものは木と石と泥。その他コンクリート、プラスチック、ガラス、銅、鉄、アルミ、全て人間が不自然に加工したものだ。
私は想像する。2万年前の人類はビーバーとそれほど変わらなかったのではないか。木や石や泥を使って家や道具を作る。自然のものが少し形を変えただけ、そんなものを所有する。
それら自然の道具が形を変えたのは、人類が鉄や銅といった金属を使い始めた時である。炎をコントロールすることでそれが可能になった。
火を使うことで、人間は自然の物質の持つ性質を大きく変えることができた。オリジナルとは性質の異なる物質を作り出し、新たな物質が次の新たな物質を生む礎となった。
「プロメテウスの火」はギリシャ時代の神話である。三千年前に人類はその特異性と危険性に気づいていたのである。
ゆっくり少なく
鉄を生産することを覚えて以来、人類は指数関数的な勢いで周りの環境を変化させてきた。46億年の地球の歴史の中、たった数千年で地表の様子は大きく変わった。
もちろん、地表の様子は人間の登場以前も変化し続けている。私が言いたいのは、人間にしか作れない物質によって変えられているという意味である。
再び蝉の亡骸を考えながら思う。
「人間はどうしてこのように自分の周りの環境を変え続けてきたのだろうか」
私たちの営みを最も単純にしてみる。生まれて、生きて、次の世代を残し、そして死ぬ。それは他の動物のやっていることと全く変わらない。
さまざまな物を生み出し周りの環境を変えることで、その一つ一つの質が変わっているのだろうか。
生まれるはずのなかった命も生まれている。乳幼児の死亡率も下がった。病気もどんどんと克服されている。死を迎えるまでの時間も長くなった。では、肝心の生きている中身、人が何を感じながら息をしているかについてはどうなのだろう。
現代文明にどっぷりと浸かった私に、単純に答えることはできない。「鉄道やバイクやサウナがない時代に生まれてお前は幸せか?」と聞かれると答えに窮してしまう。
しかし、あまりにも目まぐるしく変化して、あまりにも多くの物を所有することに血眼を上げる現代に生きながらあの乾いた蝉の亡骸を見ると、それでいいのかと思わずにはいられない。もっとゆっくり、もっと少なくていいんじゃないかと思ってしまう。
周りが変化すればするほど、ついていくのにエネルギーを使い、持てば持つほどそれらの維持に気を配ることになる。人間だけが持つ豊かさを味わいながらも、同時に人間だけが持つ苦労を感じている。
蝉になりたいとは思わないが、もっとゆっくり、もっと少なく生きる人間でいたいと、夏の終わりに感じている。