懐かしく悲しい地名

捨てられない地図帳

私の興味・関心事に関する最も古い記憶は電柱と電線である。親の話によると、幼い頃、家の近くにある電信柱と電線の配置に興味を持ち、飽きることなく眺めていたらしい。実際に電柱と電線、そしてその付属施設であるトランスや電灯を、広告の裏紙に鉛筆で書いていたことを覚えている。

複数の地点を結ぶ線。私の興味が電線から鉄道に移行したことは自然の流れであった。小学生になる前には、私はすでに鉄道好きになっていた。

小学生の時、愛読書は交通公社の分厚い時刻表であり、私は飽きもせずに、それを何時間も眺めていた。私の中での日本地図は時刻表に掲載された鉄道路線図が元になっている。だから未だに離島や鉄道空白地帯の位置関係に関しては弱い。

鉄道好きには地理好きが多い。私もその例に漏れず地理が一番好きな科目になった。高校の科目選択も当然地理を選んだ。もう30年以上前のこと、どんな授業であったのかそれほど印象に残っていないが、とにかく地図帳に印をつけて書き込みを入れていったことを覚えている。

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お昼ご飯を食べに(続き)

土曜の朝の葛藤

久しぶりに外食をしたことについて書こうと思ったのですが、投資について触れるうち予想外に前振りが長くなってしまいました。それだけ投資を始めてから私の外食の在り方が変わったということで、まだ書きたいこともありますが、今回はすぐにタイトル通り昼食について書きます。

先週土曜日の話です。私は朝、ある葛藤をかかえていました。そしてその葛藤こそ、私を苦しめてきたモヤモヤをよく表しています。

最終的に私のモヤモヤの根源はどうしようもないこと、つまり仏教でいる生老病死であると考えています。そしてその次に来るのが、現在と未来との距離の取り方です。

どういうことか。単純に言うと「今を全力で楽しめないこと」「未来のために今は我慢しなければならないと思い続けること」「”効率”を求めすぎて一見無駄なことができないこと」これらになります。

天気の良い土曜の朝「今日バイクで走っておいしいものを食べたら気持ちイイだろうな」と思います。しかし、同時に私の中に以下のような気持ちも湧き上がってきます。

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お昼ご飯を食べに

価値観が変わった

ブログを書き始めて次の6月で3年になります。書くことは自分の頭の中を見える形、つまりディスプレイに表示された文章にして、自分の網膜へと映し出し、そして最終的に自分の頭へと戻してやる行為です。

ひとつひとつの文章は大したことありませんが、継続の効果は確かに大きく、書くという行為を続けていくと自分の考え方が変わるのが分かります。

行動が変わるから考え方が変わるのか、考えが変わるから行動が変わるのか、おそらくその両方の相乗効果だと思いますが、この3年間に私は数多くの新たな経験をしました。

その中の一つが株による資産運用です。

私は絶対に株なんかする人間になるとは思っていませんでした。株好きの父親から「いつも心が落ち着かない」と聞いていたこともあるでしょう。のべつ株価の上がり下がりに気を取られる生活なんて面白くないと思っていました。

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10年後の君も…

変わらないもの

長男が卒業アルバムを持って帰った。

私から息子へ、1世代の間に写真の在り方は大きく変化した。記録媒体はフィルムから電子データへ変わり、風景は印画紙からモニターに映し出されるようになった。写真を写すコストは、タダ同然となり、撮影される画像は天文学的に増えた。

そのような中、30年前と変わらぬ姿の卒業アルバムが目の前にある。手に取るとずっしりと重い。ページをめくってみる。構成もほぼ昔と変わらない。

冒頭、校長・教頭先生に続く教師たちの集合写真。それからクラスごとの個人写真に、部活動の集合写真、修学旅行や学園祭の思い出と続く。在籍した3年間に起きた出来事がまとめられた裏見返しの直前、見開き4ページの白紙。全く変わっていない。

空白のページには友人から長男に宛てたメッセージが書かれている。読むうちに、私は30年も昔、自分の卒業アルバムの中に記された一通のメッセージを思い出した。同じクラスで3年間過ごしたK君が書いたものだった。

「10年後の君もスレイヤーを聴くのか?」

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毎朝思うこと

午前6時30分

年を重ねていくと、若いころには考えられなかったことが起きます。その中の一つが朝の目覚めです。あれほどスッと起きることが苦手だった私ですが、最近では目覚ましが鳴る直前に自然と目が覚めます。

朝6時半、布団から起き上がると毎日のように思うことがあります。

「ああ、今日も目を覚ますことができた」

寝室を出て、廊下を歩きながら思います。

「ちゃんと歩くことができる。脳の血管は切れていない」

リビングに入りベランダに面したカーテンを開けます。見慣れな街並みの向こうに太陽が見えます。

「ああ、私は今日本にいる。ラッキー!」

台所でやかんに水を入れ、コンロに乗せて火をつけます。何の問題もなく水がお湯へと変わっていきます。冷蔵庫からコーヒーの粉を取り出し、ペーパーフィルターに山盛り3杯入れます。

だいたいこのころに、妻が起きてきます。

「おはようございます」とお互いに丁寧なあいさつをします。

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dotをつなげる

社会科教師

私にはたくさんの趣味があります。

バイク、サウナ、旅、立ち飲み、語学、読書、音楽、明石焼きなどですが、私の今までの人生を振り返ってみると、一番古いものは鉄道になります。

私は物心ついた時には鉄道が好きになっていました。

この分野にはいろいろなジャンルがあります。撮り鉄、乗り鉄、模型鉄、収集鉄、その分野は細分化される一方です。私は今は「飲み鉄」ですが、子どもの頃にはそのような色分けも明確ではなく、何となく鉄道全体を愛していました。

日本全国に路線網を持つ鉄道を愛するということは、自然と人文地理に興味を持つ人間になります。私は学校で勉強する科目の中で社会、とりわけ地理の分野に興味を持ちました。

中学校の時、ある社会科教師に出会い魅惑され、私の社会好きは決定的になりました。中学を卒業する15才の時には、私の将来の職業は中学校社会科教諭であると決めていました。

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宗谷本線

恥ずかしいけど

現在、私は週に4日ほどお酒を飲みます。コロナ禍以来、ほとんどが家飲みです。7時半ごろに乾杯をし、おかずをつまみながら飲み続けます。子どもたちが食べ終わり、妻がソファーに移動するころ、ようやく軽くご飯を食べ、すぐに歯を磨きます。いつ眠りに落ちてもいいようにです。

実際にお酒を飲んだ日は、いつの間にか夢の中にいます。リビングであろうと寝室であろうと、眠りにつくときのことはよく覚えていません。お酒を飲んでの眠りは浅いと言いますが、私の場合、結構深い眠りで、翌朝もたいていはスッキリしています。

ここまで少し長くなりました。私が書こうと思っていることは、週に2~3回のお酒を飲まない日についてです。

寝不足や疲れている日は、お酒を飲んだ日と同様に布団に入るとすぐ夢の世界なのですが、普通の日は、電気を消した後シラフのまま少し考えることになります。

ここからが少し恥ずかしい話です。

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ひどくなっています (続き)

とある辞書

前回の続きを書きます。

バイデン大統領から「ヤバいデン」というフレーズが生まれ、私の脳内に一日何十回も彼の顔が浮かぶようになりました。

「ヤバい」という言葉を自分で使ったり、他人の発する言葉を聞いたり、書かれたものを目にしたりするたびに「ヤバいでん!」の声と同時に演台に立つ大統領が現れます。

今までのオヤジギャグと合わせて、このままでは私の日常生活に支障をきたすのではないかと思い、こうして文章にすることで客体化しようと試みているのが前回と今回の記事です。

それにしても、私はどうしてこうも人名を中心とした変なギャグを考えてしまうのでしょうか。語学をずっと行っているため、言葉、特に韻を踏む部分に脳が敏感に反応するのかもしれません。

ブログのおかげか、最近は心がかなり軽くワクワクすることが多いので、脳が素早く反応しているのかと思うこともあります。

しかし、私はこんなにも頻繁にオヤジギャグ、またはオヤジギャグにもならない意味不明なフレーズを考える人間ではありませんでした。少なくとも20代の頃はそうでした。

いろいろ考えていくうちにある辞書の存在が浮かび上がってきました。20代の初めにロンドンで購入した薄い辞書です。タイトルは「Cockney Rhyming Slang」とあります。

コックニーとはロンドンの下町イーストエンド周辺で話される方言です。オードリー・ヘップバーン主演の名作映画「マイ・フェアレディ」はこの方言とイギリスの階級を絡めて描いた作品です。

映画で描かれたようにコックニーには「ei」の音が「ai」となったり、「h」の音が発音されなかったりといった音声上の特色がありますが、それに加えて語彙の面でも大きな特徴があります。

それは韻を踏んだ隠語が数多く存在するということです。いくつか挙げてみます。

  • apples and pears ⇒  stairs
  • dog and bone ⇒  phone
  • trouble and strife ⇒  wife
  • loaf of bread ⇒  head
  • butcher’s hook ⇒  look

「リンゴとナシ」が「階段」、「犬と骨」が「電話」、「面倒と苦悩」が「妻」、「パンの塊」が「頭」、「肉屋の釣りがね」が「見ること」になります。こうして日本語にすると意味不明ですが、英語を発音すると言いたい語の韻を踏むために、わざわざ単語を長くしていることがわかります。

私の持っている辞書にはこのような言葉が数百個書かれています。今は使われていないものもあると思いますが、下町のロンドンっ子はこのような面倒くさい言葉を日常的に使用しているのです。なんだか私の姿を見ているようです。

実際に、私は一時期コックニーを話せるようになりたいと思ったことがありました。少し言葉が上達した時は、俗語を使ってみたくなるものです。今はきれいな英語を話したいと思うので、中途半端なことはしたくありませんが、当時の私は若かった。「マイフェアレディ」を繰り返し見て発音を真似したり、この辞書で語彙を覚えたりしました。

男の人は年をとっていくと、脳の構造がオヤジギャグを言いやすくなると何かで読んだことがあります。私の場合、この加齢に加えてコックニーの語彙を覚えようとした経験が、今の状態を作り出しているのかもしれません。

複利の効果

このように最近ではオヤジギャグが現れる頻度が高いため、集中して真面目に何かを考えることができなくなってきていると思います。これはこれで、内心「ニヤッ」とほくそ笑む場面が増えて精神衛生上はいいのかもしれません。ひょっとしたら、不真面目なようでリラックスできているから考えることの中身はよくなっているかもしれません。

しかし、例えば以下のようなフレーズを口にする時、私の頭は結構回り道をして、無駄なエネルギーを使っていると思うのです。

この調査のポイントを確認しておかないとヤバいですね

この文には「ヤバい」の他に、私の脳が勝手に反応する部分が3カ所あります。「調査」は「ジェフリー・チョーサー」、「ポイント」は「ヒゲとボイン」、「確認」は「豚の角煮」をそれぞれ喚起させます。

ジェフリー・チョーサーは14世紀のイギリスの文人で「カンタベリー物語」の著者です。「ヒゲとボイン」は漫画家小島功の代表作の一つで、ビックコミックオリジナルに連載されていました。

こんな単純な文章が、私の中ではこうなります。

「この(ジェフリー)調査(ー)の(ヒゲと)ポイントを(豚の)確認しておかないとヤバいですね(ヤバいデン!)」

カッコに囲まれた部分は私の心の中で発せられる声です。いったい私は何なのでしょうか。こうやって文字になった私の心を見ると、かなりややこしい存在であると感じられます。

別に頭をひねりながらこのような文を考えるわけではありません。何かを言おうとしたとき、言いたい言葉に反応して余計な言葉が湧き上がってくるのです。そしてそれは、私の心の状態が軽ければ軽いほど頻繁に起こります。機嫌がよいと鼻歌が自然に出てくるようなものです。

ありがたいことに、最近の私の心の状態はよく、ブログを書き始めた2年半前とは比べ物にならなく、別人になったような気がします。⦅ここで「別人」に反応して「別人(鉄人)28号」が出てきました⦆

そんな機嫌のよい私の中で、おかしな言葉が次々と生産されていきます。そしてそれらの言葉がお互いに影響し合って、まだ頭の中でとどまっていますが、話がどんどんと複雑になっています。それは資産がある程度の額を超えると複利の効果でどんどんと増大していくのに似ている気がします。

着地点は?

去年から浮かぶたびに手帳に記し続けてきたギャグ?の数は、現在60個を超えました。日本語の語彙がどれだけあるのか分かりませんが、普通に新聞や本を読むためには少なくとも2~3万語は必要だと思います。その中での60語なら大したことはないように思われますが、実は話は少し複雑になります。

私が手帳に記した言葉以外にも、私の脳が勝手に反応する言葉は数多くあり、むしろそちらの方が多いのです。そしてそれらの言葉はここに書くことができない言葉です。簡単に言うと個人名と下ネタです。

私が今まで出会ってきた人々の苗字や名前や所属名、そういったものがある言葉と反応し韻を踏んで現れます。性や排泄に関する言葉に関しても同様です。

脳が反応する頻度としては、それら手帳に記されていない言葉の方が多いかもしれません。

私の今の悩みは2つあります。

1つ目は今は心の中にとどまっているそれらのギャグが、人前で現れてしまうのではないかということ。いくつかはすでに妻の前では言っています。「ヤバいデン」を繰り返す男を、私の仕事の関係者がどのような目で見るのか、考えると恐いです。

2つ目の悩みは言葉と思考に関係したものです。心は何によってできているのか、その問いに対する現時点での私の答えは「言語運用」となります。「私の心」は私が今までインプットし・インテイクした言葉が表出しているものであると思っています。

インプットの中で最大のものは自分が自分に対して投げかける言葉です。そしてその言葉の中に、今おかしなギャグが入り続けています。それによって私の思考はどのような影響を受けるのでしょうか。

「よい」と「悪い」は状況によって変わるものなので絶対的なものではありません。しかし、そのような変な言葉使いをしなかった私と比べると、私の思考は明らかに異なるものになるでしょう。

私の頭に現れるギャグの嵐が、これからの私にどのような影響を及ぼすのか、興味がある半面恐さもあります。今私が考えていることは、日本語以外のインプットを増やしていくことです。

ざっくりと考えると、今私は75%ぐらいの世界を日本語で見ています。20%は英語、5%はイタリア語です。この、日本語以外の割合をもっと上げていけば、おかしなギャグの出番が減ってくると思うのです。

今のところ日本語以外でギャグは現れていません。これら二つの外国語の割合を増やすことで、脳の働きを変えていくのです。それは、これらの言語をもっと流ちょうに運用したいと思う私にとっても都合のよいことです。

日本語以外で変なギャグが現れ始めたら、それはそれで嬉しいことなのかもしれません。

ひどくなっています

去年6月の記事

去年の6月19日に「エクリチュール?」というタイトルで記事を書きました。私たちが自らの選択する言葉によって思考の枠組みを規定される中、おかしな言葉使いをする私はどのようなモノの考え方をしているのか、というような内容でした。

そして「おかしな言葉使い」というのは、いわゆるオヤジギャグのことです。いや、オヤジギャグというのは一応、他人に対しても通じる言葉使いですが、私の場合は自分のなかだけでしか通用しないものも多数含まれます。つまり、オヤジギャグ以下の戯言を毎日数多く発しているのです。

起床する時、横にいる妻に呟く「そろそろ起きようかわ虹子」という一言から私の一日は始まります。妻曰く、いつから言い始めたのか分からないくらい当たり前のように言い続けているそうです。

私がギャグを言っても、妻は嫌な顔をせずにスッと流してくれるため、私は罪悪感を持たないまま、決して面白いとは言えないチープなギャグを垂れ流し続けてきました。私はさすがに言い過ぎかなと思ったので、自分がどんな発言をしているのか、昨年から言う度に手帳に書き記していきました。

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無くなる前に

面倒になってきた

今まで年上の人にさんざん言われてきた言葉。

「年をとればとるほど1年が速くなるぞ」

この言葉に対して余裕を見せながら付き合ってきた私だが、最近はその余裕もなくなり、この時間の加速に抗いながらも結局は飲み込まれているような気分である。

初めての場所を訪問するとき、そこから駅へと向かう道は、最初駅からその場所への道のりと比べて、距離的にも時間的にもはるかに短いような気がする。ニュートン力学で考えれば、それは単なる錯覚であって、距離は変わりようながいし、同じペースで歩けば時間も同じである。

しかし、帰り道は確実に距離も時間も短い。世界を見て認識しているのは私である。私にとって私の感じ方は、そのまま私の現実となる。そんなわけで、人生の後半は矢のごとく過ぎ去っていく。2022年の1月も信じられないような速さのうちに終わってしまった。

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