宗谷本線

恥ずかしいけど

現在、私は週に4日ほどお酒を飲みます。コロナ禍以来、ほとんどが家飲みです。7時半ごろに乾杯をし、おかずをつまみながら飲み続けます。子どもたちが食べ終わり、妻がソファーに移動するころ、ようやく軽くご飯を食べ、すぐに歯を磨きます。いつ眠りに落ちてもいいようにです。

実際にお酒を飲んだ日は、いつの間にか夢の中にいます。リビングであろうと寝室であろうと、眠りにつくときのことはよく覚えていません。お酒を飲んでの眠りは浅いと言いますが、私の場合、結構深い眠りで、翌朝もたいていはスッキリしています。

ここまで少し長くなりました。私が書こうと思っていることは、週に2~3回のお酒を飲まない日についてです。

寝不足や疲れている日は、お酒を飲んだ日と同様に布団に入るとすぐ夢の世界なのですが、普通の日は、電気を消した後シラフのまま少し考えることになります。

ここからが少し恥ずかしい話です。

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ひどくなっています (続き)

とある辞書

前回の続きを書きます。

バイデン大統領から「ヤバいデン」というフレーズが生まれ、私の脳内に一日何十回も彼の顔が浮かぶようになりました。

「ヤバい」という言葉を自分で使ったり、他人の発する言葉を聞いたり、書かれたものを目にしたりするたびに「ヤバいでん!」の声と同時に演台に立つ大統領が現れます。

今までのオヤジギャグと合わせて、このままでは私の日常生活に支障をきたすのではないかと思い、こうして文章にすることで客体化しようと試みているのが前回と今回の記事です。

それにしても、私はどうしてこうも人名を中心とした変なギャグを考えてしまうのでしょうか。語学をずっと行っているため、言葉、特に韻を踏む部分に脳が敏感に反応するのかもしれません。

ブログのおかげか、最近は心がかなり軽くワクワクすることが多いので、脳が素早く反応しているのかと思うこともあります。

しかし、私はこんなにも頻繁にオヤジギャグ、またはオヤジギャグにもならない意味不明なフレーズを考える人間ではありませんでした。少なくとも20代の頃はそうでした。

いろいろ考えていくうちにある辞書の存在が浮かび上がってきました。20代の初めにロンドンで購入した薄い辞書です。タイトルは「Cockney Rhyming Slang」とあります。

コックニーとはロンドンの下町イーストエンド周辺で話される方言です。オードリー・ヘップバーン主演の名作映画「マイ・フェアレディ」はこの方言とイギリスの階級を絡めて描いた作品です。

映画で描かれたようにコックニーには「ei」の音が「ai」となったり、「h」の音が発音されなかったりといった音声上の特色がありますが、それに加えて語彙の面でも大きな特徴があります。

それは韻を踏んだ隠語が数多く存在するということです。いくつか挙げてみます。

  • apples and pears ⇒  stairs
  • dog and bone ⇒  phone
  • trouble and strife ⇒  wife
  • loaf of bread ⇒  head
  • butcher’s hook ⇒  look

「リンゴとナシ」が「階段」、「犬と骨」が「電話」、「面倒と苦悩」が「妻」、「パンの塊」が「頭」、「肉屋の釣りがね」が「見ること」になります。こうして日本語にすると意味不明ですが、英語を発音すると言いたい語の韻を踏むために、わざわざ単語を長くしていることがわかります。

私の持っている辞書にはこのような言葉が数百個書かれています。今は使われていないものもあると思いますが、下町のロンドンっ子はこのような面倒くさい言葉を日常的に使用しているのです。なんだか私の姿を見ているようです。

実際に、私は一時期コックニーを話せるようになりたいと思ったことがありました。少し言葉が上達した時は、俗語を使ってみたくなるものです。今はきれいな英語を話したいと思うので、中途半端なことはしたくありませんが、当時の私は若かった。「マイフェアレディ」を繰り返し見て発音を真似したり、この辞書で語彙を覚えたりしました。

男の人は年をとっていくと、脳の構造がオヤジギャグを言いやすくなると何かで読んだことがあります。私の場合、この加齢に加えてコックニーの語彙を覚えようとした経験が、今の状態を作り出しているのかもしれません。

複利の効果

このように最近ではオヤジギャグが現れる頻度が高いため、集中して真面目に何かを考えることができなくなってきていると思います。これはこれで、内心「ニヤッ」とほくそ笑む場面が増えて精神衛生上はいいのかもしれません。ひょっとしたら、不真面目なようでリラックスできているから考えることの中身はよくなっているかもしれません。

しかし、例えば以下のようなフレーズを口にする時、私の頭は結構回り道をして、無駄なエネルギーを使っていると思うのです。

この調査のポイントを確認しておかないとヤバいですね

この文には「ヤバい」の他に、私の脳が勝手に反応する部分が3カ所あります。「調査」は「ジェフリー・チョーサー」、「ポイント」は「ヒゲとボイン」、「確認」は「豚の角煮」をそれぞれ喚起させます。

ジェフリー・チョーサーは14世紀のイギリスの文人で「カンタベリー物語」の著者です。「ヒゲとボイン」は漫画家小島功の代表作の一つで、ビックコミックオリジナルに連載されていました。

こんな単純な文章が、私の中ではこうなります。

「この(ジェフリー)調査(ー)の(ヒゲと)ポイントを(豚の)確認しておかないとヤバいですね(ヤバいデン!)」

カッコに囲まれた部分は私の心の中で発せられる声です。いったい私は何なのでしょうか。こうやって文字になった私の心を見ると、かなりややこしい存在であると感じられます。

別に頭をひねりながらこのような文を考えるわけではありません。何かを言おうとしたとき、言いたい言葉に反応して余計な言葉が湧き上がってくるのです。そしてそれは、私の心の状態が軽ければ軽いほど頻繁に起こります。機嫌がよいと鼻歌が自然に出てくるようなものです。

ありがたいことに、最近の私の心の状態はよく、ブログを書き始めた2年半前とは比べ物にならなく、別人になったような気がします。⦅ここで「別人」に反応して「別人(鉄人)28号」が出てきました⦆

そんな機嫌のよい私の中で、おかしな言葉が次々と生産されていきます。そしてそれらの言葉がお互いに影響し合って、まだ頭の中でとどまっていますが、話がどんどんと複雑になっています。それは資産がある程度の額を超えると複利の効果でどんどんと増大していくのに似ている気がします。

着地点は?

去年から浮かぶたびに手帳に記し続けてきたギャグ?の数は、現在60個を超えました。日本語の語彙がどれだけあるのか分かりませんが、普通に新聞や本を読むためには少なくとも2~3万語は必要だと思います。その中での60語なら大したことはないように思われますが、実は話は少し複雑になります。

私が手帳に記した言葉以外にも、私の脳が勝手に反応する言葉は数多くあり、むしろそちらの方が多いのです。そしてそれらの言葉はここに書くことができない言葉です。簡単に言うと個人名と下ネタです。

私が今まで出会ってきた人々の苗字や名前や所属名、そういったものがある言葉と反応し韻を踏んで現れます。性や排泄に関する言葉に関しても同様です。

脳が反応する頻度としては、それら手帳に記されていない言葉の方が多いかもしれません。

私の今の悩みは2つあります。

1つ目は今は心の中にとどまっているそれらのギャグが、人前で現れてしまうのではないかということ。いくつかはすでに妻の前では言っています。「ヤバいデン」を繰り返す男を、私の仕事の関係者がどのような目で見るのか、考えると恐いです。

2つ目の悩みは言葉と思考に関係したものです。心は何によってできているのか、その問いに対する現時点での私の答えは「言語運用」となります。「私の心」は私が今までインプットし・インテイクした言葉が表出しているものであると思っています。

インプットの中で最大のものは自分が自分に対して投げかける言葉です。そしてその言葉の中に、今おかしなギャグが入り続けています。それによって私の思考はどのような影響を受けるのでしょうか。

「よい」と「悪い」は状況によって変わるものなので絶対的なものではありません。しかし、そのような変な言葉使いをしなかった私と比べると、私の思考は明らかに異なるものになるでしょう。

私の頭に現れるギャグの嵐が、これからの私にどのような影響を及ぼすのか、興味がある半面恐さもあります。今私が考えていることは、日本語以外のインプットを増やしていくことです。

ざっくりと考えると、今私は75%ぐらいの世界を日本語で見ています。20%は英語、5%はイタリア語です。この、日本語以外の割合をもっと上げていけば、おかしなギャグの出番が減ってくると思うのです。

今のところ日本語以外でギャグは現れていません。これら二つの外国語の割合を増やすことで、脳の働きを変えていくのです。それは、これらの言語をもっと流ちょうに運用したいと思う私にとっても都合のよいことです。

日本語以外で変なギャグが現れ始めたら、それはそれで嬉しいことなのかもしれません。

ひどくなっています

去年6月の記事

去年の6月19日に「エクリチュール?」というタイトルで記事を書きました。私たちが自らの選択する言葉によって思考の枠組みを規定される中、おかしな言葉使いをする私はどのようなモノの考え方をしているのか、というような内容でした。

そして「おかしな言葉使い」というのは、いわゆるオヤジギャグのことです。いや、オヤジギャグというのは一応、他人に対しても通じる言葉使いですが、私の場合は自分のなかだけでしか通用しないものも多数含まれます。つまり、オヤジギャグ以下の戯言を毎日数多く発しているのです。

起床する時、横にいる妻に呟く「そろそろ起きようかわ虹子」という一言から私の一日は始まります。妻曰く、いつから言い始めたのか分からないくらい当たり前のように言い続けているそうです。

私がギャグを言っても、妻は嫌な顔をせずにスッと流してくれるため、私は罪悪感を持たないまま、決して面白いとは言えないチープなギャグを垂れ流し続けてきました。私はさすがに言い過ぎかなと思ったので、自分がどんな発言をしているのか、昨年から言う度に手帳に書き記していきました。

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無くなる前に

面倒になってきた

今まで年上の人にさんざん言われてきた言葉。

「年をとればとるほど1年が速くなるぞ」

この言葉に対して余裕を見せながら付き合ってきた私だが、最近はその余裕もなくなり、この時間の加速に抗いながらも結局は飲み込まれているような気分である。

初めての場所を訪問するとき、そこから駅へと向かう道は、最初駅からその場所への道のりと比べて、距離的にも時間的にもはるかに短いような気がする。ニュートン力学で考えれば、それは単なる錯覚であって、距離は変わりようながいし、同じペースで歩けば時間も同じである。

しかし、帰り道は確実に距離も時間も短い。世界を見て認識しているのは私である。私にとって私の感じ方は、そのまま私の現実となる。そんなわけで、人生の後半は矢のごとく過ぎ去っていく。2022年の1月も信じられないような速さのうちに終わってしまった。

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どちらで行こうか?

新たな悩み?

12月12日の全国通訳案内士2次試験から一月半が経ちました。試験用の勉強をやめると、今度は本棚から未読の本が私に「まだ読まれてないよ」と視線を送ってきます。そんなわけで、私はこの間かなりのペースで読書をしています。

本棚の本を読む傍らで、書店にもよく行きます。もともと書籍に関しては財布の紐がゆるい私ですが、クレジットカードで買うようになってからはその傾向に拍車がかかりました。

加えて、通勤途上に公立の図書館があるため定期的にそこへ立ち寄って本を借りてきます。買おうかどうか迷うレベルの本がタダで借りられるので、読む読まないは別にして目についた本があるとサッと手に取ります。

そのようなわけで、私の寝室には相変わらず未読の書籍があふれています。しかし、私は本を読み続けているので、少しづつ減って、また少しづつ溜まる、いわば流れのある堆積であります。

読むのは主に紀行文、ビジネス書、新書、エッセイといった脳に対する負荷が低いものが中心となります。そのような書籍を通勤電車や家での空き時間に読んでいきます。読書はとても楽しく心を満たしてくれる行為でありますが、最近はいろいろな人を知ることで新たな悩みというか、少し考えるべきことも出てきました。

それは服装に関してのものです。

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久しぶりのモヤモヤ

水島新司氏の訃報

最近なぜかスマホに勝手にニュースが入ってくるようになった。側面のスイッチを押せば、最初の画面に速報という形で簡潔な知らせが現れる。そのまま画面をタップすると、詳しい記事へと進むわけだ。

自分では設定した覚えがない。しかし、こうやってニュースが現れ続けることを考えると、いつの間にかそのような状態を作ってしまったのだろう。自分ではそれほど怪しいニュースではないと思えるため、そのままにしてしている。興味の無い芸能関係の話題が多いため、ほとんどは記事に到達することなく削除される。

そのようなスマホニュースに先日、漫画家の水島新司氏の訃報が入ってきた。名前を聞いたのは久しぶりだった。確か数年前にマンガを書くことをやめたというニュースを聞いたきりだったと思う。そして、そのニュースの更に数年前に「あぶさん」の連載が終わったという知らせを聞いた。

私は氏の作品を読み続けてきたわけではないが、それでもドカベンは全巻持っていて何度か読み返し、私の野球観や人間観に少なからず影響を与えた。その他「光の小次郎」や「男ドアほう甲子園」などは、タイトルを聞くだけで、それらを読んだ子どもの頃の気持ちがよみがえってくる。

そんなわけで水島氏に関するネットニュースをしばらくいくつか見ながら、氏の人生と自分の少年時代を思い出しているとある記事に出会ってしまい、しばらくモヤモヤすることがあった。

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奇数月の楽しみ

年に6回

奇数月の最初の週が終わる頃、私の心は弾み始めます。

「これから楽しみな2週間が始まる。やったー!」

もう十分にオヤジの年なのですが、夏休みを前にした子どものような気持ちになります。そう、奇数月の半ばには大相撲が開催されるのです。1年に6回、1回あたり15日、全部足すと90日。

ということは、1年の約4分の1は大相撲が開かれていることになります。実際は結構な数字ですが、始まったらすぐに終わり次の場所がなかなか来ないと思うのは、私がそれだけ大相撲が好きということを表しているのかもしれません。

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本気で挑む人

漢字好きのイギリス人

同じ職場で働く案くんはイギリス人でロンドン出身です。私は米語よりもイギリス英語の方に興味があるため、彼によく質問をします。中途半端な英語の使い手にありがちなことですが、私も河口域英語やロンドンの方言が話せたらかっこいいなと思うので彼にいろいろと質問しようとするのですが、意外と反応がありません。

彼はアッパーミドルなのでコックニーは話さないし、Estuary Englishも分からないというのです。「そんなの分かれへん」と関西弁で答える彼は、逆に私に数多くの日本語に関する質問をしてくるので、私も「分かれへんなあ」とお互い様です。

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日本最北のサ活

ノシャップの先へ

なんだかんだあってこの年3度目の北海道、2回目の稚内にいる。夕方6時前の列車まであと5時間半、さてどのようにここで過ごそうか。

この街へ来たのはこれが2度目。前回はこの年(2021年)の春であった。旭川からの日帰りという強行軍。午後1時前に到着し、レンタカーを借りて宗谷岬へ行った。最北の地でたらふく海鮮を食べようと期待していたが、コロナ禍のため食堂は一軒も開いていなかった。仕方なく、セイコマートのポテトフライで空腹をごまかした。

今回もほぼ同じ時程での稚内。さてどうすると次男に尋ねると稚内温泉に行きたいという。「わざわざここまで来て温泉か?」と思ったが、どうしたいのか尋ねたのは私なので、彼の意見に従う。

観光案内書でバスの時刻を見ると、10数分後に出発する便の都合がよろしい。駅前で昼食は食べられないが、温泉施設に行けば何とかなるであろう。私たちは午後1時のバスに乗り最北の温泉を目指した。

2日前からの寒気で窓の外は一面雪に覆われている。それも私の感覚からしたら「ここまで積もるか」というぐらい雪が積もっている。そして、北国の人々は「この状態で走れるか」というような道を、何事もないように運転している。

ノシャップ岬の入り口を過ぎると民家が乏しくなる。バスは南へ向けて走る。右手に海、左手に荒涼とした丘、その間には魚の加工施設が目立つ。私たちのバスは時刻通り駅から18分で温泉へと到着した。この雪の中で遅れがないとは恐れ入る。温泉に食堂とサウナがあることを期待しながら下車する。

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やはり言葉か

人気のない場所で

12月下旬のある朝、私は次男と一緒に氷点下に凍てつく駅前に立っていました。周囲はまだ薄暗く、雪が断続的に降り続いています。乗っていた列車が立ち去り、微かに聞こえていたエンジンとジョイント音が消えると、一面無音の世界が広がります。

私たちが下車したのは「歌内」という無人駅で、北海道の宗谷本線にあります。この駅には1日に上下3本ずつしか列車が止まりません。私たちは宿泊していた音威子府から下りの始発に乗り、ここで下車した後、約30分後に上りで引き返します。同じ下り方面の列車に乗ろうと思えば3時間以上待つことになるからです。

こんなに寒くて暗い朝に私たちがここにいる理由、それは歌内駅で下車することでした。駅で下車すること自体がその駅に行く理由になるのでしょうか。

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