令和五年七月場所

大関

豊昇龍関が初優勝し見事に大関昇進を決めました。名古屋場所が始まる前は豊昇龍に加えて若元春、大栄翔の両力士も3場所33勝の目安に達するか注目されていましたが、豊昇龍のみがそこへ到達することができました。

これで今場所の霧島に続いて来場所でも新大関が誕生します。私は豊昇龍が十両に上がった時から注目していました。彼のファンというわけではなく、私が応援している力士に土をつける存在としてです。

とにかく豊昇龍の粘りは驚異的で、勝ったと思った相手の力士が何度も土俵際で投げをくらって逆転されました。「またやられた」と私も叫びながら豊昇龍の勝負を見ます。

私の中ではプロレスでいう「ヒール役」の力士ですが、これからの相撲界を引っ張って行くのは彼であると思います。きっと次の横綱は豊昇龍であると思います。

今場所貴景勝が休場、霧島も負け越しで9月はこの二人がカド番で迎えます。豊昇龍を加えた三大関の場所で賑やかになりそうです。下からは若元春と大栄翔が次を狙っています。優勝を二度経験している大栄翔は、もっと早く大関を狙えると思っていましたが安定して勝ちを積み上げることができませんでした。それだけ三役から幕内上位の力が拮抗しているということでしょうか。

円熟の渋み

私の中で「お相撲さん」という言葉のイメージとぴったり合うのが宝富士関です。まん丸くて優しそうでどっしりとしている、そんなイメージです。

対戦相手にもよりますが、そんな宝富士が出てくると私は無意識のうちに応援します。四つ相撲が得意で、しっかりと当たり重い腰で寄っていくスタイルは相撲らしい相撲の見本ではないでしょうか。

一時は関脇にも上がった宝富士ですが、最近では前頭の中ごろから下で相撲を取ることが多くなりました。現在36歳で幕内力士の中では数少ない昭和生まれの関取なので体力的にもきつくなってきているのかもしれません。

そんな中でも今場所では9勝6敗と勝ち越すことができました。飛ぶ鳥を落とす勢いの伯桜鵬にも勝ちました。これからも長く円熟の相撲を見せてほしいと願います。

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これから一生

白黒からカラーに

大相撲名古屋場所の中日を私はドルフィンアリーナの観客席で過ごしていました。相撲を見始めたのは三段目が始まった頃でした。取り組み表を見てみると、五段組のうちまだ上から二段目の真ん中あたりです。顔と名前が一致する力士はほとんどいません。

連日満員御礼が続いている今場所ですがこの時間だと観客もまばらです。大きな体育館には座布団の色の紫が目立っています。今度観戦するときはマス席であの座布団に座って見たいなあなどと考えながら取り組みを見ています。

歓声も少ない中、淡々と勝負が行われていきます。それでもご当地の力士が出ると会場に四股名を呼ぶ声が響きます。幕下以下は呼び出しから二分以内に立ち会わなくてはなりません。テレビで放送される幕内の間合いに慣れた身としてはせわしなく感じます。

幕下以下の力士はまわしも木綿の黒一色。さがりを糊付けすることも許されません。髷の形も関取りとは異なります。塩もまけず、力水もなく、待っている間の座布団もありません。ビジュアル的に地味な中で勝負が続いていきます。

東の横綱から序の口最下位まで、一人として同じ立場の人がいなくガチガチに序列が決められているのが大相撲の世界です。番付によって身につけるものから食事や風呂の順番まですべてが変わってきます。

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米作り

兼業農家

詳しいことはよくわかりませんが、私の実家はもともと農地を持っていなかったようです。それでは小作百姓であったかというとそれも違うようでした。昔祖母が私に話してくれた記憶によると、彼女が祖父と結婚した後二人で貯めたお金で田畑を購入して作り始めたようでした。祖父は仕事に行き、祖母は家で和裁を行って暮らしを立てていたと言います。

二人が結婚ししばらくしてから田舎でよくある兼業農家が誕生しました。終戦後おそらく昭和20年代後半のことだと思います。そのあたりのことは父親に聞いてもはっきりしません。祖父母ともっと話をしておけばよかったと悔やまれる部分です。

ともかく祖父母が兼業農家を始めて以来、私の実家では米作りを続けてきました。祖父は力強い人でした。私が物心ついた時には退職していて、とにかく朝から晩まで田畑で働いていました。

少しでも多くの作物を作ろうとしていたのでしょう。余った農作物は農協に出荷していたようです。祖父からは戦争中に飢えを経験した話をよく聞きました。その時代を経験した人にとって毎日お腹いっぱい食べることは当たり前のことではなく、食料を生産できる土地を持つことは命をつなぐ財産を持つことと同じでした。

祖父が亡くなり、祖母と父親が中心となって米作りを続けてきました。出荷するわけでもなく、自分たち家族と周りの大切な人が食べていけるだけの量です。

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乗らないツーリング再び

狭い世界

「教師は世間知らずである」と割と教師自身によって言われます。これは教師が学校という狭い世界の中で長時間仕事をしているから、自虐的にそういうのかもしれません。それは「もっと他の世界を知れるような時間のゆとりが欲しい」という言葉の裏返しかもしれません。

私自身は世間知らずにならなように様々なことに興味を持ち学ぼうと心がけているのですが、実際に私は平日は学校と家を往復するだけですし、土曜も半日は学校にいて、時には日曜も出勤する生活が当たり前のように続いてきました。

したがって平日習い事に行ったり、何かのサークルに入って他の業種の人々と親交を深めるようなことは今までほとんど行ってきませんでした。子供達が小さい頃は少年野球の活動を手伝うことで地域の人たちと交流を行っていましたが、子供達も成長しそれも無くなった今、私が外の世界とつながっているのは、友人以外では馴染みの立ち飲み屋さんが一番大きな存在になっています。狭い世界に生きる私にとって外とつながることのできる貴重な場所です。

そんな私が足繁く通う立ち飲みの常連の中でバイク好きが集まってツーリングクラブができました。職業も年齢も異なる集まりですが、バイクと酒が好きというとろこに共通点があります。

半年に一度ぐらいはツーリングしたいということで、前回は昨年11月に丹波篠山方面へ行きました。レンタカーでした。雨と寒気が予測されたので、私たちは寒さと雨の中バイクを走らせることよりも、居心地よく移動して美味しいお酒を飲むことを優先させたのです。実に「ツーリングクラブ」と名乗ることが恥ずかしくらいですが、私たちはすんなりとその決定を行いました。まあ、立ち飲みで知り合った面子ですから仕方がないでしょう。

そのような前回の「乗らないツーリング」から半年以上経過した先日、私たちは再び「乗らないツーリング」を楽しんできました。もちろん、計画段階ではバイクで行くつもりでした。しかし、事前打ち合わせと称していつもの立ち飲みに集まった私たちは、週間天気予報を見ながらあっさりバイクを断念しました。警報級の雨が来そうだったからです。

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考えてみる

私の1日

・6時から6時半の間に目を覚まし、7時過ぎに家を出る。

・8時前に職場に到着。18時過ぎまで働く。

・19時過ぎに帰宅。夕食、入浴、自由時間。

・できるだけ23時までに寝る。

平日はだいたいこんな時間配分で過ごすことになります。恵まれているのは、今の職場では教師にしては勤務時間が比較的短いことです。日によって変わりますが、平均すると職場にいる時間は10時間ほどです。以前では12時間で普通ということもありました。

この時間配分の中に自分のやりたいことを入れていきます。

毎日行っていることは語学と読書です。家から駅まで、また駅から職場までは常にポッドキャストで英語ニュースかイタリア語の番組を聞いています。一日合計40分ということろでしょうか。電車に乗るとすぐに本を取り出します。片道15分なので、1日30分間電車で本を読みます。

1日が始まって、家に帰宅する19時の時点で私ができたことは「語学30分」と「読書30分」になります。

ここから就寝時間の23時までの4時間が大切になってきます。語学と読書以外にも、私にはやりたいこと、やるべきことがあります。しかし、語学と読書にはキリがありません。だからこの4時間を使ってこの二つの続きを行うのか、または別のことをするのか、いつも引き裂かれる気持ちになります。

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停滞?

4年経過

今年も6月が終わろうとしています。2023年も半分終了です。このブログを始めて4年が経過しようとしています。自分の文章力の無さと遅筆さに愕然としながらも何とかここまで記事を書き続けることができました。これもこのブログにアクセスし、私の記事を読んでくださる人の存在を感じることができるからであり、それなしではここまで続けられなかったと思います。

コメント欄を開いていない私が読者の存在を”具体的に”感じることができるのは、1年に2〜3回、思い出したように見るサーバーのアクセス数においてです。今のルールでは毎週土曜日に投稿しているので、そこだけ棒グラフがぴょんと跳ね上がっています。アクセス数も見るたびに増加しています。

私が投稿したらこれだけの人々が私の書いた文章を読んでくださるのだ、そう思うと元気が湧いてきますし、敬意を持って執筆しなければならないと思います。

何度も書いたことですが私はこのブログを自分のために書いています。私の心の中を可視化するためにキーボードを叩いています。その理由はブログを書き始める4年前まで、私は自分の人生に満足していなかったからです。

私の心の中はモヤモヤでいっぱいでした。「自分はどうして心からの幸せを感じられないのだろう」いつもそう思っていました。「このまま歳をとってこの世から消えていくのか」そう思うと寝られませんでした。恐怖にも似た思いでした。

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レアな経験 三度目 (後半)

パラダイスゾーン

仲人さんとの城下町ツアーも二日目の朝を迎えた。旅行の朝はいつも目覚めがよい。この日も私は目覚ましの鳴る数分前に自然に目を覚ます。展望風呂の付いたホテルであったので、朝風呂に浸かりながら福山の街を眺める。

見渡す限り平野は建物で埋められている。結構な都会だ。東側には日本鋼管の巨大な工場が見える。これらは全て芦田川の運んだ土砂の上に立てられている。強固に見える建物や工場も、この地形が作られた時間を考えれば、ほんの少し前に現れたものに過ぎない。

二階建ての鉄道の高架が東西に連なって街を南北に二分している。山陽本線の4両編成の電車やEF210電気機関車のけん引する貨物列車が時折二階部分を通っていく。さらにその上を8両と16両の新幹線が、あるものはゆっくりと、あるものは高速で駆け抜けていく。人口50万人に迫る街であっても通過する列車がある事実は、この区間の流動の大きさを示している。

この山陽路にもう一本鉄道を通してみたい。私の脳内、妄想の中では姫路から山陽電車が岡山を経由してこの街まで繋がっている。朝の福山を見ながら、私は目の前の景色に自分の空想を重ね合わせた。

体にも目にも心にもいい朝風呂であった。

仲人さんと一緒にホテルで朝食を取り、二日目の行動を開始する。心配されていた雨もどうにかもちそうだ。さて、今日もたくさんの学びがある一日が始まる。私たちはワビサビ号に乗り込み、福山の街へと繰り出した。

今日のメインは福山城周辺である。しかし、城へ向かう前に少し見てみたい場所があった。それは福山駅から南方向へ下った霞町というエリアだった。

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レアな経験 三度目(前半)

今度は西へ

最近では少しレアなこと、それは婚姻に際して仲人を立てること。その中でもかなりレアなことは、その仲人さんと一緒に旅をすることである。私は縁あってそのような体験を去年6月、10月と二度も行うことができた。そして先日三回目の旅を終えた。

初めて読む人のために事の経緯を記す。

私は2021年に全国通訳案内士の試験を受けた。そのいきさつを書き出すときりがなくなるのでここでは省略するが、ともかくその年の12月に二次試験を終えてその後しばらくして仲人さんと飲む機会があった。

杯を酌み交わしながら通訳案内士の話になった。英語による口頭試験のテーマは「城下町」であった。私の仲人さんは日本史が専門で、その中でも城下町は最も造詣の深い分野であった。

「一緒に城下町ツアーしませんか」

私の提案に仲人さんも賛同していただき、松阪・津・伊賀上野を巡るツアーを行ったのが昨年6月。とても楽しくストレスのない旅だったため二回目の話もとんとん拍子に進み、10月には一乗谷と福井を巡った。

どちらもとても学びのある旅であった。私たちは買い物も全くせずにひたすら古の痕跡を巡った。五感を最大限に働かせて現代の景色の中に数百年の歴史を見出そうとした。仲人さんは私の質問に丁寧に答えてくれた。想像力を働かせて表れ景色は刺激的で学ぶことは本当に楽しい、そう思える経験であった。

家族旅行とも友人との旅とも違う旅であった。好きなところだけ行くと言えば一人旅に近いが、仲人さんとの旅行は解説付きである。もう20年間も私たち夫婦の後ろ盾になってくださっている方との二人旅。確かにレアで独特で味わい深いものがある。

ということで私は仲人さんに三度目の旅を提案した。最初の二回は東への旅であったので今度は西へ向かうことにした。私はミニバン「日本文化ワビサビ号」で仲人さんの自宅へと向かった。両側のドアの下部に錆が出ているからこう呼んでいる。そのサビも時間の経過と共に同心円上に広がり、少しシャレにならないぐらいの大きさになっている。少し恥ずかしいが今更どうにか隠せるレベルではないので気にしないでおく。

二人の乗せたワビサビ号は山陽道を西へと向かう。山陽道といっても街を避けて山間部を走るため、自分が今どのあたりにいるのかは看板を見ないとわからない。これが国道2号線なら走りながらおおよその場所がわかって変化があるのだが、山陽本線に対する新幹線と同様に新しいものほど人気を避けてつくられる。

それでも吉井川や旭川といった大きな河川を渡ると岡山県を走っていることを実感する。ワビサビ号は岡山ジャンクションから岡山道に入り北へと向かった。最初の目的地は高梁市の備中松山城である。

よく残ってくれた

賀陽インターからループ橋へ向かうと高梁の街が一望できる。山の合間に高梁川が流れ、わずかに形成された平地にびっしりと建物が立っている。それが高梁の街である。私たちは川沿いの国道を少し北上した後右折、伯備線を渡って谷間へと入っていく。途中山陰へ向かう特急やくもが見えた。今年の2月、この列車でここを通って出雲へ向かった。山間の小さな街を走る振り子式特急列車、絵になる。

駐車場でマイクロバスに乗り換えて途中の降車場まで運ばれる。ここから先は徒歩で天守まで向かわなくてはならない。備中松山城は最も高い場所に天守が現存する城でその標高は400mを超える。私たちは舗装されていない山道をゆっくりと歩いて登っていく。

「こういう時、植物学の知識があればといつも思います」私は仲人さんにいう。仲人さんは日本史が専門である。私は人文地理や自然地理に興味がある。城に登りながら戦国時代や地形の話はするが、目の前にある草木を細かく分節する語彙を私たちは持ち合わせていない。

草木だけではない。地面を這う虫や周りでさえずる鳥。見上げた空に浮かぶ雲の形。山を登りながら私達の体と心に生ずる変化。どんな事であってもそこには学ぶべきことがあるし、知れば知るほど、語彙を増やせば増やすほど目の前の景色は面白くなる。

15分ほど歩くと大手門後に到着した。「足軽箱番所跡」の立て札が立っている。ここから天守までの間、仲人さんに足軽についての説明を受ける。

私の目の前には当たり前のようで当たり前ではない光景が広がっている。山の上に何重にも石垣が組まれていてその上が平らに整地され、さらにその上に建物が建てられているのだ。

石は地面を掘れば出てくるというものではない。それなりの大きさの石が取れる場所から運んでくる必要がある。人工的な動力を持っていない時代、これだけの石や資材をこんな山の上まで持ち上げるのに一体どれだけの労力がかかったのであろうか。想像すると気が遠くなりそうになる。

私たちは天守の中に入り、その後二重櫓を見学した。漆喰に50年前の日付の落書きがある。私はそれを見て少しムッとしたが、仲人さんは「あと300年経ったら価値が出るかな」と柔軟である。確かに、全てはどう切り取るかである。どうせなら機嫌良くいられるように目の前を切り取って生きたい。

この城がどうして今まで残っているのか不思議な気持ちになった。室町から戦国時代にかけて城は平地へと降りてきた。城下町はそれと共に現れた。山上の天守は象徴としての役割を果たすために残されたのだろうか。実際に藩主の屋敷は高梁の街の中、現在高梁高校にあたる場所にあった。

よく残してくれたものだと思う。明治維新で主人を失った天守は荒れ果てていたという。昭和になって修復する運動が起こり、多くの人の力によって現在の姿を取り戻した。

私たちは1時間ほど城に滞在したのち山を下った。古き時代の面影を残す街で私たちは季節ものの鮎を食して次の城へと向かった。

かなりの場所

私たち二人を乗せたワビサビ号は国道313号線を南へと下って行く。高梁川の支流の成羽川に途中まで並走し、分水嶺を超えると今度は小田川の谷に入る。しばらく下流へ向かうと井原の街に出る。デニム生地で有名な街である。私にとって初訪問の街でありいろいろと気になるが、今回はどこにも立ち寄らず西へと向かう。

県境をあっけなく超えてしばらく走ると福山市神辺地区に入る。この場所で西から東へと流れてきた芦田川が山にぶつかって南へと流路を変える。その東から西へと突き出た山の上に私達の目指す神辺城跡がある。時刻は4時過ぎ、急がないと資料館が閉まってしまう。

住宅街を抜けて狭い山道を登ると山頂近くに資料館と駐車場があった。私たちは閉館時刻の近づいた資料館に入る。館内には係の1名と私達のみである。三階の展示室から時代通り順番に見学していく。

私にとって驚きであったのは、この山から高屋川の谷を挟んで反対側、備後国分寺側の山の斜面に数多くの古墳があったことである。地形の模型のこの場所が、古墳を示す赤い点でいっぱいになっている。芦田川が土砂を運び現在の福山のある平地を形成する前は、この辺りまで海が入り込んでいたのではないかと想像する。ここは古墳時代の人にとってかなりの場所だったのではないであろうか。

資料館を出て駐車場と反対側の神辺城跡へと向かう。”城”が見たくて来る普通の人はがっかりするであろう。何しろここには石垣すらほとんど残っていないのだから。石垣や櫓は17世紀初頭に福山城を建築する際に持って行かれたと言われている。石や木材の価値が現在とは全く異なることを教えてくれる。

山を歩いていると石垣を剥ぎ取られた廓らしき場所が所々に現れる。今では木々に覆われているが、城が現役であった頃はあたり一面に見晴らしが効くように整備されていたであろう。

尾根を進むとその先端近くに見晴らしの良い場所があった。仲人さんと二人で眼下を眺める。二つの方向からやってきた川が合流し地峡を通って海へと流れていく。どちらから何がやってきてどこに向かおうとするのか手に取るようにわかる場所である。

「ここに城を作りたい気持ち、よくわかりますね」私は仲人さんと顔を見合わせた。

本日の城下町ツアーはこれで終了した。あとはホテルにチェックインし、瀬戸内の幸をあてに美味しいお酒を楽しむだけである。私はここでどうしても食べたい魚があった。「ネブト」と「シャコ」である。

ネブトはテンジクダイという親指ほどの小さな魚で唐揚げにすると美味しい魚であり、前回の福山訪問で初めて食べて好きになった。シャコもこの辺りの名物で10数年前までは大量に採れていたらしいが、海水温の上昇のためか近年は漁獲量が激減しているらしい。そういえば回転寿司からもシャコは消えてしまった。

いつものように私と仲人さんは地の魚と酒を味わった。大いに話もした。あとは帰ってもう一本ビールでも飲みながら寝るだけであるが、私達の中で終わったはずの本日の城下町ツアーが復活した。

地図を見ながら居酒屋からホテルへと向かう。歩きながら考える。この福山の町割りはおかしい。南北の町割りの中に、北西から南東への大きな通りが割り込んでいるのだ。明らかに不自然な感じがする。通りを延長してみると一方は城へ、もう一方は入江へとつながっている。

「明日博物館で解決しましょうか」そう言って私は眠りについた。

後半へ続く

関連記事: レアな経験(前編)  レアな経験再び(前編)

舟の話

山の舟

平成の市町村合併が進んだのは私が働き始めしばらくしてからだと思います。合併の形には二つのパターンがありました。一つは隣接する大きな街に飲みこまれれてその街の一部になる形、もう一つは合併の後にまったく新しい名前の街に生まれ変わる形です。

大学生の時からうどん目当てに頻繁に訪れていた香川県も合併により大きく自治体の数を減らしました。私が主に訪問していた地域は高松から西になりますが、そこにもかつては香川町や綾南町がありました。これらの自治体は今ではそれぞれ高松市と丸亀市の一部になっています。

一月前、私は妻と次男を連れてこの旧綾南町にある温泉施設へと行きました。讃岐うどんを食べ歩く間、お腹を減らすための時間です。

この「綾」という文字は私にとって特別な響きがあります。「綾南町」や「綾歌町」は私の讃岐うどん趣味の原点のような場所で、そこには「綾川」が流れています。この辺りは景色を含めて、私が香川県で一番いいなと思える場所です。

さて、今回はうどんの話ではありません。私は旧綾南町の温泉施設のサウナの中にいます。公共施設だけあって、信じられないような安い値段で利用できます。平日はデイセンターも兼ねているため、入浴客のほとんどは地元の人のようです。

外気浴はできませんが、サウナ室と水風呂と洗い場のイスを使ってセッションを繰り返していきます。最後のセットにしようと思い、サウナ室で温まっていると地元の常連らしき人が一人入室し、知り合いの室内のもう一人と会話を始めました。二人はともに70歳ぐらいでしょうか。

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ヒヤリとした

家にいたい

私はブログに文章を書く。書きながら内なる自分と対話する。読んでいる人の反応を想像する。そうしながらキーボードをたたく。それを繰り返しながら月に5~6本の記事を書き続けてきた。

他者の存在の力を借りながら自分と対話をすることで、私の中にありすぎるものや欠けているものが見えてきた。私が何を考えて、何を考えてこなかったのかがわかってきた。

モヤモヤに押しつぶされそうだった私の人生は、今、ワクワクに満ちている。考えてアウトプットすることが行動を生み出し、行動することが現実を変化させてきた。文章を書き続けて本当によかったと思っている。私は自分の人生に幸せを感じることができるし、その大きさはこれから増していくと想像できる。

しかし、そんな私の最近の生活にも、思いがけず後ろへ下がってしまう出来事があった。

朝、目を覚ます。もともとその夜は眠りが浅かった。詳細はよく覚えていないが嫌な感じの夢ばかり見る。気持ちがどんよりと落ちている。このままベットにいたいと思った。いつもならスッと目覚めてその日に起こりそうな楽しいことを想像する。しかし、その日は仕事に行きたくないと思った。家にいたいと思った。

隣にいる妻の手を握り必死に耐えた。久しぶりにこんな気持ちになった自分を認めたくなかった。

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