ツバメが戻ってきた
6月に巣立ちを迎えて、空になったツバメの巣に再び生命の息吹が戻っています。
毎日観測していた最寄り駅の巣は、6月に巣が空になった後、尾っぽだけ見えて動かないツバメがいました。ひょっとしたら巣立ちに失敗したまま力尽きたツバメかなと思っていましたが、どうやら抱卵していたようでした。
新たに子育てを始めたツバメは、この前子育てを終えたツバメといっしょなのでしょうか?または別のツバメが巣だけ利用しているのでしょうか。
同じツバメだとしたら、雛が巣立って1月ほどで次の卵を産み子育てするのは相当きついことだと思います。異なるツバメだとしたら、卵を産み育てるこの1か月の差は何がそうさせているものなのでそうか?
ひょっとしたら、同じように見えて異なる種類のツバメなのかもしれません。
このように、観察しだしたら様々な疑問点がわき、興味尽きないツバメですが、ツバメの子育てを面白いと思って見始めたのは、40歳を超えたころからです。
ツバメは基本的に人間の住んでいる地域に巣を作るので、今まで見る機会は沢山あったはずなのに、全く興味を持ちませんでした。
やはり、自分自身が子育てを経験すると、モノの見方が変わってくるのかもしれません。
ツバメの子育ては、誕生から育児・巣立ちまでという、人間でいえば20年間を数週間の早送りで見せてくれます。
まだ子育てが終わっていない私は、その点にひかれているのかもしれません。幼くて食べ物から排せつまですべてを世話していた息子たちを重ね合わせると同時に、彼らが立派に成長して私たちから独立する時を想像しながら。
そしてあの空になった巣を見た時のなんとも言えない気持ちは、子供たちが独立し、私たち夫婦が年を取り、体が弱り、この家に住めなくなって、思い出の詰まったこの場所が無人になってしまう、その喪失感を先取りしているのかもしれません。
新たな命の誕生から、成長、死への予感までをわずか数週間で感じさせてくれるツバメの巣。しかも、それは大切なことなんだよと言わんばかりに、毎年その姿を見せてくれます。
“Humanbeing are born, they live, and they die.”
ある英語の物語を読んだとき、もっとも印象に残った一文を思い出しました。
あるショッピングセンターの一隅に
先日仕事で訪れたあるショッピングセンターの建物の片隅、1階店舗の前、降雨時に濡れないよう回廊になっている屋根の角にツバメの巣を見つけました。
地上から約3.5m、手が届きそうで届かない微妙な高さにある巣なので、親ツバメの帰還時は、まさに人間の頭に触れんばかりの距離を滑空してきます。
暗いうえに手元がぶれていい写真が撮れませんでしたが、これがその巣です。
見た瞬間に「この巣は狭すぎ」と思いました。
4羽が一列に並ぶことができずに、一羽は後方に追いやられています。
4羽の雛が押し込められていて、体の向きを変えることすらできそうにないほどです。
「こんな状態で体の向きを変えて、下にフンを落とすことができるのだろうか?」と思いましたが、地面にはフンが落ちていたので、何とかしているのでしょう。
もう一つ気になること。
明らかに右から2番目の雛の体が飛びぬけて大きいのです。
パッと見て、他の雛の1.5倍ぐらいありそうです。
写真ではわかりにくいのですが、左の雛のすぐ隣は角になっていて、親ツバメは右手後方から巣に向かってきます。
親ツバメが飛んでくるたび、4羽の雛は一斉に鳴き始めるのですが、一番大きい右から2番目がよく餌を手に入れているように感じられます。
確かに、飛んでくる方向を考えたらベストポジションだと思います。
このまま雛たちが、大きくなり続けたらどうなるのでしょうか?
おそらく、体格のよい2番目が生き残り、残りのどれかが落下、ということになるかもしれません。
雛にとって落下は即、死を意味します。
巣の中で、何番目に、どの位置に卵を産まれるのか、そんなことがツバメの生死を決めるのかもしれません。
不条理ですね。
でも、それが自然の摂理なのでしょう。
人間は原因と結果を同じ価値で結び付けたがります。
「これだけ苦労したのだから、あとで同じだけ報われる」とか、「努力をしなかったから、後に後悔する」など。
しかし、自然の摂理はそんなことを超えているのでしょう。
そんなことを考えさせられました。
1週間後、どうしても気になって再び巣を見に行きました。
巣はガランとして、雛は一羽もいませんでした。
何もいない巣を見ても「狭いな」と感じました。
4羽の雛たちは、無事に巣立ったのでしょうか。
それとも、私たち人間が「不条理」と感じる自然にとっては「当たり前」のことが起こったのでしょうか。
モヤモヤ ⇒ ⇒ ⇒ 幸せ?
”人は、時々、自然の持つ不条理な一面を思い出す必要がある。”