サウナに行きたい
「日本ってすごいね。世界的に見てどうしてこんなに感染者数が少ないんだろう」このような会話を立ち飲みの常連さんとしていたのは、去年の初夏、緊急事態宣言があける頃。
これで徐々に日常生活が戻ってくる、そのように考えていた。その初夏からさかのぼること数か月、去年の今頃、コロナウィルスは対岸の火事であった。日本の自治体も中国の姉妹都市にしきりにマスクを送っていた。
流行り廃りの激しい現代で、ニュースが1年にわたって同じ話題を伝え続けることは稀である。そして、正に私たちはそのような未曾有な事態の中で今を過ごしている。
2度目の緊急事態宣言が発令されて3週間が経過した。諸外国のような罰則を伴った都市封鎖とは異なるため、今一つ何が変わったのか体感しにくい。飲み会や大勢での会食はすでに1年前からなくなっているし、私個人でもスナックやバーを飲み歩く習慣はない。買い物も好きではなく、そんな時間があれば家で語学をしていたい。
ただ私にとって生活の一部となっていたサウナに行けないのはツライ。特に今回の緊急事態宣言は初場所の開催と重なっていたので、サウナで相撲中継を見るこを至福の瞬間とする私にとっては余計にキツイことであった。
別に宣言の内容がサウナへ行くことを禁止しているわけではない。しかし、家族の目、職場の目、連日報道される医療機関のひっ迫状況、これらを考えるサウナに行くことは「不要不急の外出」に当たるのではないかと、私の良心が私に訴えかけてくるのだ。
であるから、前回の緊急事態宣言時と同じく、今回もサウナは自主規制という形で3週間過ごしてきた。
しかし、この2年近く毎週行っている習慣をとめるのは難しい。ただでさえ汗をかくことが少ないこの季節、私の皮膚の汗腺が「汗をかきたいよう」「老廃物を外に出したいよう」と訴えかけてくる。
不定期に、”なんとなく”銭湯に行っていた時とは異なり、サウナで汗をかいて、水風呂でしめて、外気に当ててあげることは、私の体からすれば飼い犬が散歩に連れて行ってもらうようなものである。それが無いと調子が狂い、不満が溜まってしまう。
私は仕事中も気が付いたらサウナのことを考えるようになっていた。先週までは大相撲初場所があったので気が紛れていたが、今週はそれが終わった「相撲ロス」とあいまって反動がすごい。「サウナイキタイ、サウナイキタイ」と呟きながら、自主規制でサウナにいていけない自分が惨めに感じられてくる。
欲望を喚起した言葉
そんな中職場の同僚がぼそっと言った一言が私の心をかき乱した。その日、その同僚L氏は脚を踏み外し足首が捻挫気味であった。歩き辛そうに足を引きずりながら彼は言った。「今日はサウナやめとったほうがええかな」。
「おおっ!こんな近くにもサウナーがいたのだ!」私は興奮した。L氏とはたまに会話をするが、今までサウナについて話したことはなかった。
聞けばL氏もサウナが好きで、定期的に「サ活」しているらしい。一通りサウナの話で盛り上がった後、私はため息をついた。
「そうだ、自主規制しているのは私で、サウナに行ってはダメということはないんだ」
そうは言うものの脳裏には知り合いの医療関係者の顔が浮かぶ。本当にこの一年間、心も体も休まることなく働きづめである。そんな人々をさらに苦しめるような可能性のあることをしても良いのであろうか。でも私の体調も整えたい。
私はしばらく悶々とした。そして前向きに考えるようにした。とにかくできる限りのことを行い妥協点を探ろう、そう考えた。いわば「密を避けて蜜を味わう」作戦である。
私が普段「サ活」を行うのは、サウナ専用施設やスーパー銭湯が中心となる。きれいで大きく、食堂を始めとする施設が併設されているところが多い。広範囲から多くの人が訪れて、長時間滞在する傾向がある。
私の良心は緊急事態宣言の中、こういった「様々な地域の人が密になる空間を避けた方がいい」といっているのだ。
それならばその反対の「特定の地域の人が利用する、密にならない施設」を探せばよい。私の頭に「サウナ併設型の客の少ない銭湯」という言葉が浮かんできた。
「そうだ、普通の銭湯の人の少ない時間なら密が避けられる」と思うものの、私の住む地域には「サウナ併設型」の銭湯はない。かつてはあったようだが、21世紀に入り、銭湯はものすごい勢いでその数を減らしている。
私は自分の記憶とネットを頼りに探した。サウナ併設型であまり人が溢れていない銭湯。私の脳裏に、かつて仕事のついでに立ち寄った、ある神戸市内の下町の銭湯が浮かんできた。「客が少ない」など書いているので名前は伏せておくが、そこには確か小さいながら水風呂もあったはずだ。
私の気持ちが高鳴る。
自然体で「いってきまーす」
密は避けられそうなのでそこには罪悪感を感じないが、妻に嘘をつくことには少し心が痛む。しかし、私が今から銭湯に行こうとしている経緯を私の信条と共に説明するのもややこしいし、そうしても「やめとった方がいいんじゃない」の一言で済まされそうである。私は単に「ちょっと仕事の後処理して買い物して酒屋によって帰る」と説明した。
もう15年以上一緒にいるのにどうしてこんな気の使い方をしなければならないのか、と感じるが逆にその罪悪感がこれから久しぶりに味わおうとするサウナへの気持ちを盛り上げる。私は自然体で「いってきまーす」と言って家を出た。
電車を降りて軽い足取りで昼下がりの銭湯へ到着すると、予想通り客はほとんどいない。私は「手ぶらセット(サウナ付き)」の料金を番台で払う。普段利用するサウナ施設はどこもホテルの受付のような番台?であるが、ここでは昔懐かしい男女の暖簾に挟まれた小さなスペースである。
料金を払うと、タオルと同時にプラスチックのカギを渡された。サウナは別料金のためサ室のドアを開けるためのものだ。懐かしい。普段利用する施設はどこもサウナは利用料金に含まれている。この変な形のプラスチックを見るのは久しぶりだ。
木目調の金属製ロッカーではなく、本当に木製のロッカーに服を入れて浴室へ向かう。中には5人ほどしかいない。「よっしゃー、密は避けられた」私は自分の行為を自分の頭の中で納得させようとする。それにしても大変で面倒くさい世の中だ。
男女風呂が壁で隔てられ上空でつながった構造、洗い場に並ぶ黄色いケロリンの洗面器、温度調整ができない水とお湯が別々の蛇口、何十年も変わらない街の銭湯の姿が目の前にある。
「スーパー銭湯やサウナ専用施設もいいけど、ここにもまた味わいがあるな」私はノスタルジックな気分に浸りながら肝心なサ室を探す。
ここでも簿記のルールが
浴室の一番い奥にあるサ室へと向かう。中には人が一人しかいない。近くの露天スペースに小さな水風呂があることも確認。手を付けると水温約20度といったところ。少し高めだが、サ室に入る前は「真冬の屋外で本当にここに入れるのか?」と思ってしまう。
洗い場に引き返し体と頭をきれいにする。この作業が終わればいよいよ3週間ぶりのサウナだ。気持ちが高まってくる。
サ室へ向かうと先ほどの1人がまだ頑張っている。サウナーのオーラが出ている。彼も悩んだ末に私と同じ選択を行ったのかもしれない。
例のプラスチックのカギでドアを開けて中へ入る。久しぶりに感じるこの熱気。中は何というかサウナっぽくないサウナ。マットもなく、タイル張りで、ウレタンのシートを敷いて座る。シートの上で胡坐をかかないと触れる床面が熱い。
初めての経験に戸惑いながらも、「サウナー」の先輩の所作をまねて体を温めていく。5分ほどすると体中から汗が噴き出てくる。「そうそう、この感覚。あと5分我慢しろよ、たっぷり水風呂を味わわせてやるからな」自分の体に話しかける。
私と「サウナー」の二人が、サ室と水風呂を行ったり来たりする。3往復、4往復。一瞬合う目と目。言葉は無くても、彼の思っていることが伝わってくるようだ。当然、私の気持ちも向こうは理解しているだろう。
水風呂の後、ととのいイスは設置されていないため、浴槽の縁に座ってぼーっとする。血中を巡る酸素と共に多幸感に包まれる。サウナって本当にいいものだ。
ゆったりしたスペースも、木の香りも、サウナマットもない無機質な空間。しかし、この状況で久しぶりに味わうサウナは蜜の味がした。私はここでも簿記の法則を感じてしまう。
1つの出来事は必ず二つの見方がついてくるということ。「サウナに行きにくい」という世相は「負債・貸方」のように見えるが、それには「それを克服して入れた時の蜜の味」という「資産・借方」が同時に発生する。
「分相応の幸福を感じるようになりたい」そう思って書き始めたこのモヤモヤblogであるが、最近、この簿記の「借方・貸方同時発生」の原理を意識することが、そこへ至るためのヒントであると感じ始めている。
私は、満足してそこを後にした。久しぶりのサウナも良かったが、今回は昔ながらの銭湯の良さも感じたサ活であった。街からなくなってしまう前にその魅力を味わいたいし、またそうさせないためにも銭湯へ通おうと思っている。