残念だけど…

案内所で…

何となく嫌な予感がしていました。今年の夏も店の前を車で通ったとき、シャッターが閉まってました。グーグールで検索すると店舗情報に赤い文字で「閉店」と書かれていました。

しかし、ネットの情報は間違っていることも多々あります。私は信じられなくて悶々とした数週間を過ごしました。

この前の土曜、私は時間ができたのでバイクにまたがり明石市内へと向かいました。国道2号線から南へ進路を変え数百メートル進むと浜国道と交差します。それを本町方面に進むと左手に店があります。

確かに建物はありました。しかし、シャッターは閉まっています。時間は午後4時、今までなら開いていた時間です。

「たまたま今日は早じまいしたのかもしれない」

私はドキドキする気持ちを抑えながらバイクを駐輪場に止めて、明石駅の観光案内所に向かいました。「明石焼物語」と書かれたパンフレットを1枚手にして中を見ます。

明石市内の地図を取り囲むように明石焼き関係の店の紹介が描かれています。何度見ても店の名前がありません。地図にも載っていません。前回見たパンフレットには載っていました。記された見ると「2022年4月現在」と書かれています。前のものとは変わっていました。

パンフを片手に私は窓口へと向かいました。

案内係の若いお姉さんに恐る恐る聞きます。

「ヤスフク明石焼工房はもう営業していないんですか?」

「えーっとそれは…」お姉さんはそういうと何か手元の資料をめくっています。

「間違いかもしれない」と、少し期待が湧いてきました。明石では有名な店なので閉店しているのなら即答するはずだからです。

奥の方から別の係のお姉さんがやってきて私に言いました。

お姉さん:「高齢のために店を閉められました」

私:「いつのことですか?」

お姉さん:「もう1年以上前です」

私:「えーっ、それじゃあ明石焼きはどうなるんですか?」

お姉さん:「大阪の日本橋に2件焼き器を作っている店があるそうですが…」

私は肩を落としながら駐輪場へ向かいました。バイクを再び安福さんの店の前まで走らせます。

かつては店の両側に「明石焼」と書かれた赤いのぼりが立てられていました。入口の両側には出荷を待つ焼き台が所狭しと置かれていました。大きな窓の向こうには数多くの焼き器や明石焼きの調理器具が並べられ、真ん中の狭い通路の奥に安福さんが座っていました。

シャッターが閉められのぼりの消えた建物は、いったい何の店なのかわかりません。両側の店は無くなり、安福さんの店を囲むようにマンションの建設工事が進んでいました。

2年半

「ヤスフク明石焼き工房」とは、明石市内で唯一、手打ちで銅版を加工し明石焼きの焼き鍋を作る工房でした。家に帰りながら、私はこの2年半に起こったことを振り返りました。

2年半と言えども、最後に訪問したのは去年の2月ですから、お店と関係があったのは1年にもなりません。そのような短い間でしたが、私にとってはとても長く感じられ、そして大切な時間でした。

ひょんなことから妻と「飲食店をするなら明石焼きがしてみたい」という話になりました。2020年の6月のことでした。そこから休日になると妻と明石を訪問し、明石焼きをビールと共に食べるようになりました。

何度目かの明石で「銅製の焼き器を手作りで作る唯一の職人がいて、市内の明石焼き店の7割はその職人が作った鍋を使っている」という話をききました。本当に明石焼きの店をするのなら、絶対に手に入れたい鍋です。

私たちはその職人の店「ヤスフク明石焼工房」を訪問しました。そのあたりのいきさつは2年前「明石魚の棚へ再び」に書きました。そこで家庭用9個焼きの鍋を手に入れて、私たちは玉子焼き(明石ではこう呼ばれる)を焼き始めました。

玉子焼きを焼くことは一筋縄ではいきません。何度も焼き続けて銅鍋全体を焦げ?で黒くコーティングしなければなりません。私は鍋の写真を撮って何度か安福さんのものへアドバイスをもらいに行きました。(今日も明石で玉子焼き

焼き始めて約半年、何とか焦がさずに焼けるようになったころ、私は安福さんに業務用の焼き鍋とコンロのセットを注文しました。安福さんは「嫁さんに店やらしたらええがな」とよくおっしゃってましたが、開店の予定があって注文したわけではありませんでした。

私が店を出す条件が整うまでに何年かかるのかわかりません。その間、安福さんも年を重ねていきます。まだまだお元気でしたが「ワシで終わりや!」と言われていたことも気になりました。150年に渡って続いたお店も、跡を継ぐ職人がいないということです。

安福さんはそんな私のわがままを聞き、まだ使う予定の無い私に鍋を作ってくれました。今私の手元には、最初に買った家庭用の鍋と、業務用の12個焼きの鍋が二つ、ガス台があります。

家庭用鍋
業務用鍋
ガス台

私が業務用の道具を手に入れたのは去年の2月のことでした。その時、一緒に上げ板(明石焼きをのせる板)を2枚買いました。店を出すのであればその10倍は欲しいところですが、私は少しずつ買い足して、そのことをヤスフク明石焼工房へ来る用事にしようと思っていました。

しかしながら、結局は私がこの店の暖簾をくぐったのは、この時が最後になってしまいました。それから先は最初に書いた通りです。今思えば無理をしてでも明石に行けばよかったです。

点のつなげ方

さて、今から私はどうして行けばよいのでしょうか。私の前にはいくつものドットがあります。

  • 明石焼の店を開く
  • 全国通訳案内士の資格を取った
  • サイドFIREを目指す
  • 実家の田畑を耕す
  • 今の仕事について語り始める

ブログを書き始めていくつかのドットがつながりました。

語学学習が私を苦しめるものの一つと気づき、自分の自信の無さにキリをつけるために英検1級を取得しました。そのことから全国通訳案内士の存在を知りました。検定を目指して日本史と地理を勉強をするうち、かつて社会科教師を目指していた頃の気持ちがよみがえってきました。

今の仕事は好きだけど、もっと自由な時間がほしいと思いました。お金の勉強を始めるとサイドFIREという生き方があることを知りました。証券口座を作りidecoやNISAを始めました。投資を始めると、いかに自分が無駄なものを求めていたのかが見えるようになりました。身の回りの物は少しで事足りる、初めてそんな気持ちを味わいました。

死を一番恐れているということもわかりました。これはどうすることもできません。しかし、その日が来るまでに私ができることはあります。私は現在進行形で「バケツリスト」を作成中です。リストを実行しながらも同時に作り出しています。どんどん長くなっています。

いろいろなことが私の周りで変化しています。考えて行動すればするほど、私の見える景色はその色合いを増しています。

さて、そんなドットが散らばった中で「明石焼き」という点をどうしていけばよいのか、まだ具体的には決まっていません。しかし、私の中には漠然としたイメージがあります。

それは「明石焼き」の店に関しては、利益を得るための店ではなく、人と人とをつなぐための店にするイメージです。私が玉子焼きを焼いて提供することで、そこに人が集う機会を作り、私がいなかったら存在しなかった会話をビールを飲みながらしている、そんな感じです。

いずれにせよ、美味しい玉子焼きを焼かないことには話になりません。そのために私がすることはまだまだあります。玉子焼きに関して道に迷ったとき、もう「ヤスフク明石焼工房」に聞きにいけないのは残念ですが、明石に行けば安福さんの作った鍋で焼く店が数十件あります。そこに道はあると思います。

私のスマホの待ち受け画面は、ここ2年間ずっと、安福さんと私の2ショットのままです。お店は閉まりましたが、私はこれからもこのスマホを眺めながら玉子焼きを作り、道を探していきます。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。