満足感と不足感

妻の視点

「似たもの夫婦」という言葉があります。好みや考え方や行動様式が同じような夫婦を表す言葉です。もともと共通点が多かった二人が一緒になったのか、一緒に暮らすうちに同じような性格になるのか分かりませんが、私たち夫婦もいくつか同じものに興味を持っています。

それらは鉄道旅、うどん屋巡り、神社仏閣訪問などですが、妻がこれらを好きになったのは私の影響であると、私は思っています。去年あたりからこれらに加えてもう一つ、私たちが共通して興味を持つ者が現れました。大相撲です。

我が家にはテレビが一台しかありません。私が熱中して大相撲のテレビ中継を見るうちに、同じ部屋にいた妻も気になり始めました。私がいろいろ解説するうちに妻も楽しそうに相撲を見るようになりました。力士同士の対戦と並んで、妻を引き付けたものは呼び出しの面々でした。

きっかけは私が「嵐の大野君にそっくりな呼び出しがいる」と妻に伝えたことでした。朝日山部屋の呼び出し「天琉(たける」氏です。序の口呼び出しのため、力士の名を呼ぶ場面はテレビには映りませんが、土俵の隅で力士の世話をしたり懸賞のぼりを持つ姿は頻繁に映ります。

天琉氏に興味を持って以来、妻は大相撲力士名鑑を片手に相撲を見るようになりました。呼び出しがテレビに映ると誰なのかチェックをします。「こんな楽しみ方もあるんだな」と私は感心しています。

退屈な現実が存在するのではなく、退屈な心がそれに沿った世界を作りだすのだと思います。逆もまた真であり、何事も面白いと思いながら見たらそういう現実が現れるのです。目の前に広がる世界をどのような面白い視点を持って切り取るのか、幸せな人生とは私の外側というよりも、こちら側をどう整えるかの問題であると思うようになりました。

妻が相撲観戦の中に幸せを見いだす準備は整いました。私は彼女を大阪場所へ誘いました。

大阪デート

選抜甲子園と大阪場所は大阪に春を告げると言います。この二つのイベントが行われる時期は、ちょうどコートを着なくなる時期と重なります。身につけるものが減ると共に気持ちも軽やかになってきます。

そんな春の一日、私は妻と一緒に大阪ミナミへ向かいました。まず千日前の道具屋横丁で看板や提灯を見ます。これは将来、明石焼きの店を開業するときに必要なものの下調べです。「こんな看板に店名入れたいなあ」とワクワクしながら周ります。

お昼が近づいたので南海難波駅近くの居酒屋でランチを兼ねた昼飲みをします。こんな時私の妻はお洒落な店を要求してこないので助かります。カウンターの中で板さんが黙々と仕事をするその店は、飾りすぎないが仕事は手を抜かずというちょうどいい料理を手頃な値段で食べさせてくれました。難波へ来ることがあれば再訪したいお店でした。

高島屋でもう少し食べ物を買い、一時過ぎにエディオンアリーナこと大阪府立体育館へ入場しました。建物正面には数十本の関取の名前の入ったのぼりが風に揺られています。気持ちが盛り上がります。

私たちは東の椅子席で観戦しました。かなり上の方でしたが体育館なので予想以上によく見えます。私たちは三段目の終わりから見学を始めました。この時点で会場はガラガラでした。外国人の姿が目立ちます。私たちのまわりにもフランス人らしき一行が座っています。英語で書かれた取り組み表を手にしています。通訳案内士として相撲の説明をするのも面白いかもと頭に浮かびます。

十両の取り組みが終わると会場は一杯になり「満員御礼」の垂れ幕が出ました。今場所から声を出しての応援が解禁となりました。一番の声援は地元力士の「宇良」に対するものでした。外国人たちはどうしてこの力士だけ異様に盛り上がっていたのか不思議そうにしながらも、一緒に「UUURRAAA!」と叫んでいました。いい光景です。

5時間近くの間、私たちは食べて、飲んで、何より相撲観戦を楽しみました。好きな呼び出したちを生で見られて妻も楽しそうでした。6千円の席でこれだけ楽しむことができるのです。いい趣味を持ったなと私は幸せを感じました。

「また来年も来よう」そう言って大阪を後にしました。

満足感の裏で

霧馬山が初優勝を決めた大阪場所千秋楽から二週間が過ぎる頃、私はハードディスクレコーダーから相撲番組を消去しました。録画されているのは早朝に放送されているダイジェスト版です。これに加えて、通常の相撲中継の十両取り組みの時間帯を録画する時もあります。

私は見ることの無かった十数本の番組を消去しました。録画可能時間はまだ余裕があります。残しておくかDVDに焼いておけばいつか見る可能性があります。今までもその可能性に賭けて何度も番組を残してきました。

しかし、いつもそれらの番組を見ることなく次の場所が始まってさらに録画は増えていくのです。場所が終わって見切ることができなかった録画は二度とその機会がやってこない、だから消去するのが理にかなっていると思います。

そうは言っても私の中に「不足感」が残ります。

場所が始まり、休みの日はリビングやサウナで観戦し、仕事帰りに立ち飲みで幕内上位を見て、その他にも暇を見つけては NHKの動画配信やダイジェスト版の録画で取り組みを見ようとします。

それであっても場所の終わりには見ることのできなかった大量の取り組みを消去することになるのです。私は土俵の上で起こっている出来事を全て目にしたいと思います。そしてそこに物語を見出したいと思うのです。そんな生活ができたら楽しいだろうなと思います。

私は自分がひどく贅沢なことを言っているのがわかります。一体世間にどれだけ1年に六回、15日間に渡って一日何時間も取り組みを見続けることのできる人がいるのでしょうか。仕事を引退して暇を持て余している人ならわかりますが、雇われて働いている人間には無理な話です。

相撲以外に全く趣味がない状態なら可能かもしれません。休日と帰宅後の時間に録画しておいた取り組みを見続けるのです。語学、読書、サウナ、ブログといった他の私の活動を止めれば可能かもしれません。しかし、それは果たして私の人生なのかと思うのです。

結局同じ場所で

私は自分の幸せについて考える時、結局いつも同じ場所で立ち止まります。

「時間」なのです。私が最も欲しているのは時間なのです。そして時間とは命のことに他なりません。この世にいることのできる時間、それが命です。その命の使い方を巡って私はいろいろと考えてモヤモヤしたり不足感を感じたりしているのです。

以前から記事に書き続けているように、私の悩みの根本は「生老病死」にあります。今から2500年前にお釈迦様が考えた悩みと同じことでモヤモヤしています。

私は自分のこの世での自分の持ち時間が減っていくこと、そしてその時間を思うように使えないことに苛立って絶望を感じているのです。相撲の録画を消すことに対しての私の感情は、その一部分が現れたものです。「私の持つ命の時間の中で、これらの取り組みに割ける部分がない」と。

同じことは、相撲以外の部分でも常に起こっています。

私はもっともっと本を読みたいです。

すべての都道府県のサウナに行きたいです。

日本中、世界中を旅してまわりたいです。

ツーリングに行きたいです。

英語とイタリア語をもっと勉強したいです。台湾語も再開したいです。

米やいろいろな野菜を作りたいです。

月に数日でもいいから明石焼きの店を開きたいです。

リストはどんどんと長くなっていきます。それに対して、一つのことに対して割くことができる私の命の時間は短くなっていきます。高級家電メーカーであるバルミューダを創業した寺尾玄氏は言いました。

「人生が3000年あれば、僕は今働かないで昼寝をしている」

その通りだと思います。今、私が3000分の50辺りを通過中なら焦ることはありません。残りの2950年でできることを考えればいいのです。

しかし、現実は桁が二つも違います。私が、気力と体力共に満ち足りてこの世にいることのできる時間は、長くても30年ほどでしょう。想像したくない現実です。人の人生はあまりに短いです。先人たちの言葉が身にしみてきます。

私はこうして自分の思いを書き出しました。頭の中ではなく、可視化できる状態にしました。仮定の話をしても仕方がないので、現実的に私の時間をどう使って行くのかを考えます。

忘れてはならないことは、私は「不足感」だけ感じているのではないということです。今回の大相撲観戦で「満足感」も大いに感じました。自分の持ち時間を変えられないのなら、そちらの方に気持ちをフォーカスしていくのが鍵かなと思っています。

関連記事: 令和五年大阪場所  メロンを食べながら  残念だけど

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。