2泊以上
私が近年誰かと一緒に行った旅について考えてみます。日帰りの旅は含みません。泊を伴う旅行です。家族、親、友人、仕事の仲間、いろいろと旅をしてきました。
その中で2泊以上の旅を考えてみます。
一番多く旅をしたのは家族です。年に2度は3〜4泊でどこかへ行きました。四国88ヶ所も全て回りました。しかし、子供達が大きくなった今では旅に出てもせいぜい1泊、しかも夕方まではそれぞれが自由行動というスタイルです。最後に家族全員で2泊以上したのは6年前の台湾旅行でした。
次男とは2021年から22年にかけて4回、北海道を旅しました。いずれも4泊5日の旅でした。そんな北海道好きな彼も高校に入ると一人旅をするようになり、私の出番は無くなりました。かろうじて妻は私と2泊以上の旅をしてくれます。
家族ですらこんな感じですから他は知れています。
親とは還暦や古希の祝いなどで私の兄弟の家族も揃って集まりましたが、せいぜい1泊止まりです。
結婚して以来、友達と旅する機会もなくなりました。若い頃はあてもなく一緒にダラダラと旅をしていた友達も、今は会って酒を飲んだら解散です。バイクの仲間とはツーリングに行くこともありますが、今のところ1泊の行程しか組みません。
かつては職場の仲間とも毎年のように旅行に行っていました。一つの年度が終わると、その時の学年団の教師が一緒に旅行に行って労をねぎらうのです。大抵は1泊2日ですが、気合いが入った学年では2泊以上のこともありました。
今は、職場の旅行自体がなくなってしまいました。
こう考えると、現在、私と一緒に2泊以上の旅行に出掛けてくれるのは妻だけということになります。そんな貴重な存在にこの鹿児島旅行から私の仲人さんが加わりました。
付き合いはずっとありましたが、2年半前までは一度も一緒に旅に出たことのなかった人です。そんな人が私にとって二人のうちの一人になっているのです。人生って面白いと感じます。
最初に行くべき場所
私たちの旅の一番大きなテーマは城下町、つまりお城の形態とその周りに発展した街を歴史と地理の視点から考察することです。
城にも長い歴史がありますが、私たちが主に興味を示すのは安土桃山時代以降に作られたものです。それは城の周りに街が出来始めたのはその時代より後になるからです。
そのような地域の歴史の流れを知るためには、まず歴史博物館的な場所に行って全体像を掴んでから街へと繰り出していくのが理想的です。しかし、今回の私たちの鹿児島旅行ではそれができませんでした。初日に歴史博物館が休館日であったからです。変則的な形にはなりましたが、2泊3日の最終日に私たちは鹿児島の歴史を学ぶために黎明館を訪問しました。
後の予定のため黎明館を10時前には出なくてはなりません。開館時間は午前9時です。城の周辺を観察するために私たちには8時過ぎには照国神社前にいました。
島津斉彬公にお参りをして、東へ向かって歩きます。かつての城の敷地内だけあって官公庁など公の施設が目立ちますが、その一角に普通の住宅地も見られます。
私たちがかつての城下町を歩く時、よく意識するのが町割の大きさです。武士の位によって屋敷の大きさが異なり、街を歩いているとその名残が見られることがあるのです。
しかしそれは城下町の話であって、かつての城内は大きく区分けされ官公庁や博物館などの公共施設が建てられているのが普通です。鹿児島の場合もそうなのですが、その一角に細かな区割りが見られたのです。多分、明治以降の地図を比較すると理由が見えるでしょう。一つ持って帰る宿題ができました。
あれこれと話しながら歩いていると黎明館に到着しました。9時の開館を待って入館します。1時間弱しか時間を取れないので近世以降に絞って展示を見ます。
「この城はよそ者に見せる必要のない城だな」と仲人さんは言います。どういうことでしょうか。それは鹿児島の地理的な位置が関係しています。
戦国時代から江戸時代の初期にかけては、お城には国力・武力を誇示するという役割がありました。見せる相手は、特に藩の外からやってきて城下町を通過する人々です。立派な天守閣は街道からよく見える位置に建てられました。
ここ薩摩藩は江戸から見て地の果てにあります。ここを参勤交代で通過する大名もませんでした。武力を誇示する必要もありません。薩摩の南にあって、それほど強力な仮想敵を設定する必要もなかったのではと考えました。
鹿児島城とその城下町の展示を見ながら私たちはそのようなことを考えました。ここは、日本の城下町の中でも特殊なものだと思います。実際にその城の防御機能が用いられたのは、皮肉なことに西南戦争でしたが、明治時代にあってその戦い方は城が作られるときに想定されたものとは異なっていました。

鹿児島市のやる気
私たちは足早に黎明館から市役所前の電停へ歩きました。もっと鹿児島の歴史を勉強したかったのですが次の約束があったのです。その約束とは鹿児島市電の車庫と整備工場の見学です。
今回の旅行を企画した時、市電と市バスの路線図が見たくて鹿児島市交通局のHPを見ました。そこで車庫見学ができるという情報に出会い私は興奮しました。ただ、曜日と時間と人数が限定されるため、今回の旅ではこの時間帯でしか予約できなかったのです。
仲人さんには事後承諾でしたが、私は仲人さんがこういう場所に興味があることを知っていました。私たちは「神田」の電停で下車し目の前にある交通局の建物へ入って行きました。
受付を済ますとまず資料館へ案内されます。そこには昔の電車の部品や方向幕や路線図などが所狭しと展示されています。昔の路線図には今は廃止された伊敷線や上町線も載っています。私は案内していただいた元運転手の職員の方から、廃止される前のこれらの路線の話を聞くことができました。
資料室の一つの面には大きな窓が備え付けられています。その窓を通じて留置線に止まる電車群、その向こうには桜島の姿が見えます。鹿児島好きの鉄オタにとってはたまらない光景です。明らかにこの窓は「見せる」そして「魅せる」ために取り付けられています。
資料室を出て整備工場へと向かいます。工場を囲むように2階にギャラリーが取り付けられています。ここも最初から見学コースにすることが前提で設計されています。
私たちは、台車が取り外された全検中の電車を見下ろしています。その横には旋盤など各種工作機械が並んでいます。別の線上ではパンタグラフ周りの整備が行われています。
「遊園地なんかに行くよりもここに一日いる方が楽しいだろうな」そんなことを考えながら私は目の前の作業を見つめていました。非日常的な空間に遭遇してアドレナリンが出ているのがわかります。
鹿児島市電は以前から気になる存在でした。センターポール化や軌道内緑化を積極的に推し進め、市電は単なる乗り物ではなく街の風景の一部として価値を創造する政策を進めてきました。
今回鹿児島に来て、あらためてこの街の市電の魅力を強く感じることができました。城山と桜島と街並みと市電、それらがセットになってこの街の風景を作り出しています。
そしてその思いにトドメを刺したのが、このやる気のある資料室と整備工場です。鹿児島市内外の人々に広く市電について知ってもらおうという思いが伝わってきました。
再び鹿児島に来ることがあれば真っ先にここに来よう、そう思いながら併設されたショップで購入した市電Tシャツを手に私たちは鹿児島中央駅へ向かいました。

あと3つ
5回目のレアな旅も終わりを告げようとしています。昼過ぎの鹿児島中央駅で、私たちは薩摩地鶏の鉄板焼きを食べながらこの旅で感じたことを話し合っています。もちろん手には芋焼酎の湯割りです。
私たちの旅は、博物館や資料館や歴史的痕跡を求めての街歩きがメインで、インスタ映えする場所に行ったり買い物を楽しんだりすることがありません。
私たちが興味を持つのは、時間の経過とともに変わっていく人間の営みの姿、その痕跡を探しながら想像力を働かせて当時の人々の暮らしに共感を重ねていくことです。
もう一つは、そういう人間の営みを作る土台となった自然の状態を考えることです。こちらは遥かに長い時間の物差しを使うことになります。造山作用や侵食作用など場所によって様々な自然状態が現れて、その上に人間の営みが生まれます。
私たちはこのようなことを考えながら目の前の景色を見るのが大好きなのです。そして、こういうことに興味を持って旅をすることは人を選びます。指宿温泉で砂風呂に入ってシロクマを食べたいという人はたくさんいますが、その隣の山川港で火山活動でできた火口壁を見て薩摩藩の密貿易の痕跡を探したいという人はレアなのです。
私は、仲人さんと20年の付き合いにして初めてそういう旅ができています。そのことに感謝しながら新たなレア旅のプランを立てて行きたいと思います。
帰りの新幹線でこれからのことについて話をしました。仲人さんが未訪問なのは宮崎、山形、秋田の三県になります。いずれの県も神戸からは2泊以上はかかります。
レアな旅は続きます。私たちはこれからも学び続けます。その先に何があるのかと聞かれても答えに窮しますが、とにかく見て、想像して、考えて、腑に落とすことが楽しいのです。
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