片づけをすると心が楽になりそうな気がする

妻の買ってきた本

去年の秋ごろ、妻がよく「ブックオフに行きたい」と言っていた。

「なんで?」と聞くと、「片付けの本が欲しい」とのこと。なんでも近藤麻理恵という片付け界のカリスマがいて、彼女のやり方で片付けると人生まで変わるらしい。妻は、TV番組でそのことを知り、彼女の本を探していたのだ。

一瞬「ホンマかいなー。片付けで俺のモヤモヤも無くなるんか?」と思うと同時に「なんで書店かアマゾンで買わへんの」と言おうとしたが、彼女には彼女の流儀がある。彼女の中では、本は中古で買うべきものなのだろう。

普段、ほとんど読書をしない私の妻だが、時々こちらが「オッ」と思うよなう本を、いいタイミングで読んでいることがある。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」や、カミュの「異邦人」などは、妻が読んでいるのを見て私が手に取り、そこに書かれていたことが当時の私の心に必要な栄養素となった。

そんな妻が、今度は片付けの本を読もうとしているのも、何かしら私に影響を与えることかもしれない。

しばらくして、リビングの本棚に、近藤麻理恵著「人生がときめく片づけの魔法」が並んだ。妻はいくつかリサイクルショップを周り、定価1400円の本を500円で購入していた。

「その本を探すために費やした時間とガソリン代を考えると割に合わない。すぐに新品を買った方がよい。」これは私の考え。妻は、安い食材や日用品があると、平気で時間とガソリン代を使って遠くまで買い物に行く。この辺りの感覚、私と妻はずっと交わらないままだ。私は何も言わない。

そのように、時間とエネルギーと引き換えに安く手に入れた本も、他の本に埋もれたまま冬が来て、新年を迎えた。妻も私も、まだその本の表紙もめくっていなかった。

「家を片付けて、ときめく人生を送りたいんだろ!」なかなか年末の大掃除を始めようとしない妻への言葉が喉元まで出かかったが、グッと飲み込んだ。子育てや家事など二人で協力して行う領域はいくつかあるが、家の整理に関しては妻が主導権を持ちたい領域。そこの見極めをしっかりと行わないと、私の立ち飲み・バイク・サウナ・鉄道などに影響を及ぼす。

近藤麻理恵=konmari

買った本のことなど忘れたまま年を越し、普通に仕事が始まる。1月中旬のある日、オーストラリア出身の同僚童君(彼のニックネーム)と英語でしゃべっていると、彼の方から近藤麻理恵の名前が出てきた。

私は、普段ほとんどテレビを見ない。定期的に見るのは、ニュース、大相撲、タモリ倶楽部ぐらい。最近では再放送の「おしん」。偏っている。だから、知っているのが当たり前と思われる有名人や芸能人が分からない。とにかく顔と名前が一致しない。職場の若者との会話は芸能分野では全く成立しない。最近、子供たちの無知な父親を見る視線が辛い。妻は、もうあきらめの境地に達しているが。

私の心が柔軟で、普通の人が見ているものを見て楽しみ、普通の人が知っている有名人の話題で話ができれば、私のモヤモヤも軽減されているといつも思う。でも、TVを見るのとてもつらい。ラジオの方がまだまし。どうしてだろう。

話を童君との会話に戻します。

どうやら近藤麻理恵さんは、普通にTVを見る人なら知っていて当然の有名人のようだ。芸能人ではないが、主婦に影響力を持つ、片付け界のインフルエンサーらしい。

実際に、オーストラリア人である童君までも知っていた。彼によると、彼女は日本だけじゃなく世界中に影響力を持つ人で、片付けの著書も多くの言語に翻訳されているそうだ。

彼女はkonmariと呼ばれていて、その名前は=”片づける”という意味の英語の動詞としても使われるという。ずっと英語を勉強しているのに知らなかった。

ちなみに日本では「近藤さん」はかなりの確率であだ名が「コンちゃん」になる、そんな話を童君にしながら、今日帰ったらkonmariと本で対面しようと心に誓った。

読みながらいい予感がしてきた

「家の中を劇的に片付けると、その人の考え方や生き方、そして人生までが劇的に変わってしまう」

「人生で何が必要で何がいらないか、何をやるべきで何をやめるべきかが、はっきりとわかるようになるのです」

片づけのテクニックに力点を置いた本かと思っていたら、「はじめに」から人生について飛ばしてくる。

「ホンマかー」と思いながらも、今までの人生を変えること、というか、今までの人生でいいからそれを前向きに受け入れたい私は、思わず前のめりになってしまう。

本を読み進めていく。どんどん読んでいく。

まだ若いのに、1つの分野を極めた彼女の熱がジリジリと伝わってくる。片付けの苦手な私には腑に落ちない部分もあるが、本全体を通じて他人・自分を問わず、幸福な気持ちで生きてほしい、生きたいという気持ちが伝わってくる。すごく好感が持てる。

効率よく物を収納する方法など書かれていない。ミニマリストのように極限まで物をそぎ落とす技術が書かれているわけではない。

この本で一番大切なことは、生き方を考えること、そのために必要なものを考えること、そして、自分に所属するものの声をいかにして聴くのかということ。

読んでいて、猛烈に片付けがしたくなってきた。今まで数限りなく、片づけをしてはすぐに元通り、を繰り返してきたが、今度はうまくいきそうな気がする。

終わりの方に書かれていた一言が、鋭く心に突き刺さり、同時に私に救いの手を差し伸べてくてれいるような気がした。

しかし結局、捨てられない原因を突き詰めていくと、じつは二つしかありません。それは「過去に対する執着」と「未来に対する不安」。

人生がときめく片づけの魔法 (近藤麻理恵)P238

「捨てられない」の部分を「モヤモヤの」に置き換えたら、見事に私のことを言っているようだ。過去への執着と未来への不安、まずは物から乗り越えてやる、そんな気持ちで次の休日を待った。

まずは衣類から

konmari流では、片付けは「モノ別」に。そして、最初に行うのは衣類。

2月のある休日、私はすべての衣類を和室の畳の上に並べた。寝室のウォークインクローゼットから、洗面所の棚から、リビング横の衣装ケースから、自分が着ている下着とジャージ以外の衣類を一カ所に集める。

狭い和室は、まるで冬の雪国のようになった。厚さ20センチほどの雪ならぬ衣類が、畳の表面を覆う。平凡な一人の男が、週に5日仕事に行き、2日間休日を過ごす。仕事用のスーツ3~4着×2シーズン、シャツ5~6枚、防寒具、休日用の数着、バイク用の上下、何枚かの下着、パジャマ。理屈で言えばこの程度で一通りの日常生活を送ることができる。

しかし、目の前にあるこの光景は何なんだ。生まれて初めて見る、自分に所属する衣類の全て。同じ色目のカーディガンやセーター。絶対に着ることのない柄のTシャツ。ウェストが入らないズボン。意識的に視界の外に追いやられたまま、何年間も過ごしてきた衣類が、蛍光灯の光の下にさらされる。

konnmari流に従って、作業を続ける。一枚一枚直接手で服を持ち、服の声を聞く。その時自分の心が「ときめく」かどうかが判断基準。とは言っても、すべてときめかなかったら、私は裸で過ごさなくてはならない。

そのあたりの塩梅を加味しながら服を分けていく。1時間もしないうちに大きなゴミ袋4枚分の衣類とお別れすることになった。私は、それらに「ありがとうございました」と声に出して言う。中には一度も袖を通さなかった服もある。服を無駄にしてしまったことを反省、でも前を向く。

残った服の居場所を全て決めてあげる。かなり量が減ったので、すんなりと位置が決まった。

1週間経って…

仕事から帰るとスーツやコート・インナーを、とりあえず空いているスペースにつるしていた私。スペースがない場合は、ハンガーに掛かっていた衣類を別の場所(椅子の背もたれなど)に移し、無理やりスペースを作っていた。

konmari式片付けの後、一番大きく変わったのは、仕事から帰った後、このスペースを確保する作業をしなくてよくなったこと。服を決めた住所に戻すだけ。洗濯した服も同じ。

場所が決まっていることが、こんなに楽なのかと実感している。要は、今までは、生活スタイルに対して服が多すぎたのだ。

そして、場所決めをして分かったもう一つのメリット。それは、その場所にある服がダメになった時のみ、新しい服を買えばよい、と気づけたこと。

今までは、いつも「服が無い」という欠乏感に悩まされていた。本当はありすぎるのに、全体が見えないから、一度コーディネイトがうまくいかなかっただけで「服が足りない」という気持ちになり、闇雲に服を買ってしまっていた。

服の住所が決まれば、そこが空き家になったら補充するだけ。そんな考え方ができる。仏教で言う「足るを知る」という状態。今までの私は、水を飲み続けても喉の渇きが癒されない「渇望」状態だった。これでは、悟りはひらけない。

konmari流のおかげで、少しモヤモヤする要素が減ったと思う。衣類の次は、靴、本、書類と進めていこうかと思う。

「過去に対する執着」と「未来に対する不安」。片付けができなかったということは、これらと対面することを恐れていたこと。第1歩を踏み出してみると、これらと勝負することも、まんざら悪くもない。今はそんな気持ちがしている。

食料の未体験ゾーンで葛藤

夕方6時半の茎ワカメ

1月のある休日の夕方、妻が買い物から帰ってきた。買い物袋から取り出される数パックの茎ワカメを見る。今年も茎ワカメの旬がやってきた。が、茎ワカメを魚屋に買いに行き佃煮にするのは、毎年僕の仕事。

「今年は茎ワカメの佃煮作ってくれるの?」と尋ねる僕に、

「本当は買うつもりなかったけど、思わず買っちゃったの」と妻。

「思わず買った」理由を妻が話してくれた。

行きつけのスーパーの鮮魚コーナーを通った時、その日はいつもと比べてあり得ないぐらいの商品が売れ残っていた。数時間後に廃棄される運命のそれらの魚介類を見ていると、やるせない気持ちになった。もう晩御飯のおかずは作っていたので、せめて佃煮にできる茎ワカメを買って帰った。

以上のような流れであった。

スーパーで私も時々思う。

「今ここにある食料の中で、実際に人の口に入るのはどれだけなんだろう?」

そしてこんなことも思う。

「ここにある食料品の中で、動植物の死体ではないものは、何があるのだろう?」

植物に対して死体という言葉は普通使わないが、命を奪われた状態であることには変わりないので、この記事では使わせてもらう。

想像力を働かせてみる。肉・魚・野菜はもちろん、かまぼこなどの加工品、麺類、乾物、ジュース、缶詰、お菓子。すべてが動植物に由来している。結局思いついたものは、水、塩、にがり、この3つ。特殊なものとして金箔。

冷静に考えると当たり前のことであるが、スーパーは動植物の死体のかたまりであり、私たちはそれらを食して命をつないでいる。

日本語で食べる前の「いただきます」は、「命いただきます」のことだと聞いたことがあるが、まさにその通りで、私たちは、水とミネラル以外は、命しか食べていないといえる。

フードロス

昨今、フードロスが問題になっている。問題になるということは、フードロスできる環境にあるということ。熱帯雨林でも、サバンナでも、海の中でもフードロスはあり得ない、人間がいない限り。人間以外の動物は必要以上の食料を確保しない。クジラなどの巨大な動物が死んだ場合も、時間をかけてどこかに回収されていき、次の生き物の栄養素となる。焼却炉で焼いたりしない。

命を奪われ、食べられる状態になりながら、食べられずに廃棄される食品。命の連鎖を止める行為、そう考えると罰があたりそうで不安になるが、商品を売るためにはそんなことは考慮されない。

フードロスに関して最近よく取り上げられる食品、恵方巻。もともと関西の習慣だったらしいが、全国チェーンのスーパーとコンビニに乗っかって、この国の節分行事の一つとなった。求めてくる客に「売り切れです」と言う方が、廃棄するほど作り過ぎるより「ビジネス的」にはダメージが大きいという売り手の判断。毎年、恵方巻、つまり鮭や穴子やキュウリやノリや稲の死骸は、他の生命体に回収されることなく焼却炉へ送られていく。

これではまずいと、今年は「予約販売のみ」や「売り切れの可能性があり」という文言が目についた。売り手も変わろうとしている。が、ここである疑問が湧き上がる。この変化は、恵方巻の廃棄が「ビジネス的に」マイナスのイメージを与えるため行っているのか、それとも、命をつなぐことない殺生に禁忌を犯しているという恐怖を感じてのものなのか。願わくば後者であってほしい。

日本全国で毎日どれだけの食料が捨てられているのだろう。宴会や忘年会の後、テーブルに残る料理の数々。コンビニのレジの後ろで廃棄を待つ賞味期限切れの弁当。

レストランや小売店だけではない。

冷蔵庫の野菜ケースの奥、パントリーの一番手が届きにくい場所に置かれたもの、これらの食品は大抵食べ物としての役割を果たすことなく捨てられていく。

捨てられた食品は、燃えるごみとして焼却炉で焼かれるか、または埋め立てられるか。アメリカやヨーロッパでは、ゴミは焼かれずに埋め立てられると聞いたことがある。それら有機物は数億年の後、化石燃料になる可能性がある。しかしその時、化石燃料を使う存在がそこにいるのか。

石油を使って食品が焼かれる。その石油こそ、数億年前に命を失いながら、次の生命体に回収されることなく地中に埋まった動植物の成れの果て。その命のエネルギーが、長い時を経て燃える。捨てられた命を燃やすために。

レアな時代に生きる私たち

スペイン風邪が猛威を振るった1917年、世界の人口は18億人程度であったといわれている。100年間で約4倍になった。日本の人口も、明治初頭の3千万から100年間で1億2千万に。

それまでの人類の人口増加曲線から考えると、ありえないほどの急激な人口増加。これは医療の発達と、食料生産の増加に負うところが大きい。

「明治24年に東北本線が全通した時、これで飢饉になっても餓死しなくて済む、米を積んだ救済列車がやってくるから、と東北の人は思った。」このような内容を鉄道旅行作家、宮脇俊三さんの本で読んだ記憶がある。

東北に限らずに食料不足で餓死することは、明治になってもあり得る話だったのだろう。

明治どころか昭和でもそうだ。何しろ太平洋戦争を経験したのだ。戦争中はともかく、戦後も食料不足が続き、国レベルで栄養失調を経験し、それにより多くが命を落とした。

私の父方の祖父母は共に大正時代に生まれ、若き日に戦争を経験した。祖父の戦争話は、半分は飢えの体験談だった。「もう腹が減って、減ってなあ~」30年以上前に聞いた祖父の声が昨日のことのように浮かび上がってくる。

そんな祖父母と暮らしていた子供時代、二人が食べ残しの皿を冷蔵庫に入れることが嫌だった。「あと少しなのだから、食べるか捨てればいいのに」よくそう思った。結局残り物は、腐るまで冷蔵庫の中に。

冷蔵庫の中だけではない。祖父母の部屋の引き出しや紙の箱の中は、いつのものかわからないお菓子やドライフルーツで溢れていた。

とにかく捨てられないのだ。飢餓を体験した記憶が、食料を捨てる手を止めさせていた。食べきれない量の食べ物があっても、それが食べ物である限り捨てることができない。腐敗してカビが生え、これは食料ではないという段階になり、はじめて手放すことができた。

父は戦後生まれで飢餓状態を経験していない。しかし、そんな祖父母に育てられたせいか食べ物を粗末にすることはない。TVで食べ物を無駄にするような番組を見ると、露骨に嫌な顔をしていた。母親もその手の番組を嫌っていた。

父母の世代は、飢えで周りの人を無くした経験はないが、店で売られているものの中で、食品は他の生活用品とは持つ意味が違い「いい加減に扱うことは許されない」という意識があると思う。

そして私たちの世代。食べ物の大切さは分かるが、それは身を賭して得た感覚ではなく、頭で教わった知識。途上国の痩せた子供たちの画像に涙を流すことはできるが、その後の食事のまずさに不満を口にこぼすことができる、そんな世代。

そんな私も今、次の世代の子育てを行っている。飢えることの恐怖、食べられることへの感謝の気持ちは、世代ごとに失われている。飢餓状態がベースであった人間の歴史の中で、初めて登場している世代だと思う。

気持ちの整理がつかない

物の価値は時代背景によって異なる。食料を生産し過ぎて廃棄してしまうことは、良いことなのか、悪いこととは言わないまでも、仕方のないことなのか。

考えてみれば、経済は必要以上のものを生産し、人々の欲望を喚起し続けることで拡大を続けてきた。「これが欲しい」のレベルを上げ続け、ものとお金を増やし続けることの上に食品ロスは存在する。そして私も、今その豊かな経済活動の渦の中にどっぷりと浸かっている。

長い人間の歴史を考えると、食品を大量に廃棄することができるのは、極めて例外的な時代だと思う。そんな時代に生を受けた私たちは幸運である。それはわかっていても私の中から消えないモヤモヤ。それは、植物にしろ動物にしろ、有機体が他の生命によって回収されないまま消滅してしまうことの不自然さに起因していると思う。

気持の整理がうまくつかない。余った食料を、すべて肥料か動物の餌にしてしまう、これなら心が受け入れられそうだ。しかし、そんな都合のいいことは、効率が最優先させられる現代では無理な話だ。では、最初から必要な量だけ生産する、これも多様な選択肢の自由を享受している世界から見れば後退に等しい。

飢餓を経験した身内の話を直接聞いた最後の世代である私の心は、この豊か過ぎる人類未体験の時代で葛藤している。

シアトルのLRT(後編)

Sound Transit3の続き

長くなりそうだったので前後編に分けた。

去年シアトルに行き、次は2021年以降に再訪問しようと決めている。→ その理由はシアトルのLRTに「やる気」を感じるから。→ そのやる気を感じる根拠がSound Transit3。

Transit3ということは、2や1もありそう。

調べてみた。あった。最初の計画はSound Moveとよばれ1996年に、Sound Transit2は2008年に設定され、郡をまたいだバス路線や、貨物鉄道の路線を借りた通勤列車など、Puget Sound(ピュージェット湾)周辺の3つの郡から中心都市シアトルへの利便性向上を目指し、公共交通網を整備してきた。

シアトル市内と空港を結ぶLRTも、その中で計画・建設され、2009年に開業した。現在、路線は1路線。シアトル市内中心とシータック空港(シアトル・タコマの両都市を合わせた地名)とを、約30分で結んでいる。

「空港へ乗り入れる鉄道」と聞くと、関西空港駅や成田空港駅を連想してしまうが、それらの駅に比べるとずっと存在感が薄い。地方都市の宮崎空港駅や仙台空港駅に比べてもそうだ。拍子抜けしてしまう。

ターミナルビルから、あまり人通りの多いとは言えない通路を10分ほど歩き、駅のコンコースへ。大都市の空港最寄り駅なのに、自販機が3台しかない。人の数も、関空や成田のことを思うとまばら。ポートライナーの神戸空港駅ぐらいだろうか。

ホームからは巨大な立体駐車場と、空港へ向かう車で渋滞する幅広い道路が見える。アメリカの自動車の存在感の大きさを感じさせられる。

しかし、それほど目立たないものの、この状況にLRTが一矢を放ったのは確実だ。環境問題への関心と、増え続けるシアトル都市圏の人口。Sound Moveから約10年で都心の一部を除き全線立体交差、パークアンドライド用の立体駐車場も備える近代的なLRTができ上った。日本はその間、掛け声だけでほとんど何も変わっていない。それを考えると、日本と比べて、空港駅に人が少なくても「これからがんばれよ」と励ましたくなる。

計画・建設は続いて行く

Sound Transit3完成予想図
Sound Transit完成予想図

分かりにくい図であるが、Sound Transit3が計画通りに進むと、こんな路線図になる。郡を超えた急行バスや、貨物路線利用の通勤列車も図に入っているが、ピンクと赤の部分がLRTになる。

このうち開業しているのはわずか1路線だが、次の路線の建設が着々と進んでいる。

2021年の予想
2021年の予想図

縦の路線から右に伸びている部分、ここが現在建設中の部分である。シアトル中心地と、東側にある都市ベルビュー、さらにはレッドモンドまでを結ぶ予定。日本の感覚からすれば、それほど長そうな路線には見えないが、こちらの郊外の駅間はLRTでも信じられないくらい長い。平気で3~4キロぐらいの駅間もある。

さて、このベルビューへの路線、最大の見どころとやる気を感じさせる部分は、ワシントン湖に架かるフローティングブリッジ(浮き橋)を通ることである。

浮き橋をネタに建設状況を確認

シアトルとベルビューの間にはワシントン湖が横たわり、そこには2本の長大な橋が東西に架かり両都市を結んでいる。もし、これらの橋が無ければ、一見して、直線距離の5倍ぐらい南か北へ大回りする必要がある。

その重要な2本の橋、その名の通りワシントン湖に浮いている。巨大なコンクリートの箱をつなぎ合わせて浮かせているらしい。見た目にもぴったりと水面に張り付いているようだ。

出張の折、その日の予定を終え、向こうのスタッフが「どこか行きたいところはないか?」と聞いてきた。他の同僚は黙っている。私の鉄心(鉄道好きの心)が騒ぎ出す。

私:「なんか有名な浮き橋があるって聞いたんだけど、この近く?」

スタッフ:「よく知っているなあ。長い方の浮き橋に行ってみようか。」

私:(まずい。LRTが建設中なのはマーサー島を経由する短い方)

 「マーサー島も見てみたいな。湖の中の島っていいね。」

我々を乗せた車は、私の本心を見透かされることなく、南側のフローティングブリッジへ向かった。

片道4車線もあるのに渋滞している。この混み合う自動車専用道路の1車線をつぶしてLRTを建設しようというのだ。アメリカは本当に変わった。私は心に熱いものがこみ上げて来た。

素晴らしい湖の景色の反対側、つまり中央分離帯の方に私の視線はくぎ付けだった。レールがすでに敷設されている部分もある。今にもLRTがやってきそうだ。浮き橋だけあって、揺れを吸収する設備がレールにあるのだろうか。興味は尽きない。

あと2年もすればここにLRTが通る。シアトルダウンタウンをトンネルで抜け、高層ビルを背にしてスタジアム付近で東へ分岐。ワシントン湖との間の丘をもう一度トンネルで抜けると、フローティングブリッジ。前方にはマーサー島とベルヴューの高層ビル街、そう思うとワクワクしてくる。それだけでもシアトルを再訪する理由になる。

ダウンタウンではトンネルを走行
ダウンタウンでは地下を走行

日本が直面する問題に思いが至る

シアトルを始めとして、ポートランド、ロサンゼルスなど全米の各地で公共交通、特にLRTが見直されている。アメリカだけではない。この動きの中心はヨーロッパで、その嚆矢は四半世紀以上前に開業したフランス・ストラスブールとドイツ・フライブルグのLRTであったと記憶している。

平均寿命が延びる中で交通弱者の移動をどう確保していくのか、これらは政府や地方自治体の大きな課題である。道路の維持管理に税金が投入されるように、本来公共交通は、利益が出る・出ないということのみで語られる性質のものではない。

実際にSound Transitの資料を見ると、歳入における運賃収入の割合は10%を切っている。公共交通とは字の通り、ごみ収集や上下水道などと同じく、人々が生活するうえで享受すべき基本的な公共サービスの1つなのだ。

しかしながら、現在の日本では、公共交通を「(金銭的な)利益を生み出すべき装置」とみられる傾向が強い。これは、私企業が数多くの鉄道やバスを運営する日本独特の状況に起因しているかもしれない。

しかし、国の成長が止まり、人口が減少していく中、このモデルはいずれ限界を迎える時が来るだろうし、実際に毎年多くのバス路線や鉄道が廃止になっている。

大きすぎる政府は不安に思うが、何もかも規制緩和を行い、自由競争の名の元に消耗戦を続けていくのは、さらに不安に感じられる。

バリバリの車社会、アメリカ・シアトルで今回のような経験ができて嬉しかった。それは、Sound Transitから「みんなから集めたお金をより立場の弱い人につかってあげよう」「少し便利さを我慢して、長い目で環境のことも考えようや」というメッセージを僕が感じたからだろう。Sound Transitの計画の実行は住民投票によって決定される。ということは、ここにはそういう他人を思いやれる人々が一定数住んでいるということ。

ベルヴューへの路線が開通する2021年以降、この街がどう変わっていくのか再訪して見てみたいと思う。

シアトルのLRT(前編)

先輩との会話

令和元年末のある一日。その日は午後から先輩のB氏と一緒に仕事をした。B氏とは昨年9月にシアトルへ一緒に出張をした間柄。部署は異なるが、たまに同じ仕事に携わることもある。B氏とは性格がかなり異なるが、そこそこ気が合い、話も弾む。そして僕の仕事ぶりに彼女は一目置いている、と僕の方は思っている。

そのB氏、仕事が終わり帰り際の一言。

「ORCAまだ使えるかなあ?」

ORCA(オルカ)とは、シアトル周辺の公共交通共同体が発行しているICチップの入った交通カードである。

「ORCAに有効期限はありませんけど、どうしたんですか?」

「明後日から娘とシアトル行ってくんねん。プライベートで。」

「この前行ったばっかりですやん!」

旅行好きで今まで多くの場所を訪問したB氏が、お嬢さんとのプライベート旅行の場所に選んだのは、この前行ったばかりのシアトル。よほど魅力的だったのか。

僕にとっては、先輩がORCAのことを覚えていたことが嬉しかった。

実は前回のシアトル出張の際、鉄道好きの私はどうしてもORCAを持ちたくて、空港から移動の際「普通に切符買ったら」という先輩に対し「ORCAあったら絶対便利ですから」といって買わせてしまったのだ。鉄っちゃん(鉄道好き)って本当にややこしい。

出張中、基本的には現地スタッフが車で送迎してくれたが、休日の移動では、バス・トラム・LRTを問わず乗車できるORCAは重宝した。B先輩や他の仲間はどう思っていたかわからないが、「ORCAには有効期限がないからいいじゃないか」と、相手ではなく自分を納得させる理由を探す。

「B先輩はシアトルに行くんかあ」

そう思う僕の頭に真っ先に浮かんできたのは、空港からダウンタウンまで乗ったLRTである。なぜ浮かび上がるのか?それはシアトルのLRTに「やる気」感じるからである。

ORCAのカードリーダー
ORCAのカードリーダー

初訪問前に再訪を決意

もうずいぶん長い間鉄道が好きである。情熱の度合いは別として、焦がれている期間はバイクよりもずっと長い。もの心ついた頃から好きだったといってもいいぐらいだ。

若い頃は鉄道が持つオタクなイメージを気にして、隠れキリシタンのように、人前では興味ないふりをしていた時期もあった。しかし、この10数年間で様子は大きく変わる。鉄道好きの女子「鉄子」まで現れる順風の中、鉄道は一般に広く認知される趣味となった。風向きが変わり、かつての「背徳感の中にある蜜の味」は失ってしまったが、その代わり堂々と挙動不審な行動を行えるようになった。

誤解しないでほしいが「挙動不審な行動」とは法に反して罰せられるようなものではない。好きすぎるあまりに出てしまう、鉄ちゃん以外には理解できない行動のことである。

例えば、列車を降りた後すぐに改札へ向かわないでホームの端へ。次に通過する特急列車を確認してから外へ出る。その列車がディーゼル車だと、深呼吸して排気ガスの匂いを味わったりする。

車を運転中、踏切で止まれば「ラッキー」と思い、窓を下ろして踏切の警報音と列車の走行音を味わう。

仕事帰り、一人歩きながら、突然電車のモーター音やコンプレッサー音を口ずさむ。

気持ち悪いからもうやめる。

そんな私であるから、昨年シアトルへ訪問する前にも、ある程度あちらの鉄道事情を下調べしていた。仕事で行くのだから自由に挙動不審な行動をとるわけにはいかない。しかし、移動中の車からチラリとでも列車や駅が見えたとする。その時、下知識があるとないでは心の中に浮かび上がるイメージががらりと変わってくる。どうせ行くのなら「鉄萌え」しやすい状況を作って行きたい。

幸い私は英語が少し分かるので、あちらの関係ありそうなホームページを順次サーフし、必要があればノートをとる。英語学習を続けていてよかったと思う一時である。

ある程度情報が集まってきてから私は思った。

「こちらの公共交通機関、やる気があるねえ!」

私はシアトルの地を初めて踏む前に、ここを2022年に再訪したいと思うようになっていた。さてその「やる気」とは何か。

Sound Transit 3

ニューヨークなど東部の大都市を除き、アメリカの都市圏交通は車に大きく依存している。シアトルも例外ではなく、ダウンタウンはギュッと詰まっているが、郊外はなだらかに開発されて車が交通の主役である。

しかし、昨今の環境問題に対する意識の高まり、高齢者や車を持つことのできない交通弱者救済などの理由で、公共都市交通網の整備が進められるようになった。その中で鉄道によるものをLRT=Light Rail Transitと呼ぶ。

このLRT、日本でも25年ほど前から、路面電車のある街を中心に議論になり、いくつかの導入・延伸計画も作られた。しかし、公共交通に利益を求める日本の体質もあり、富山や宇都宮といった数都市を除き、計画は一向に進まない。

私は、この件に関しては、この20数年間ずっとモヤモヤではなくイライラしている。街は郊外へ広がっていく、街の中心地の面白い店や場所がなくなる。同じような街ばかりになる。

LRTというコンセプトが注目され、ドイツをはじめとするLRT先進国への行政の視察は行われるものの、路線延長はこの4半世紀ほとんど変わらない。とにかく、日本では動きが遅い。鉄っちゃんの妄想力だけが、路線図を広げていき、現実が追い付いてくれない。

話をもとに戻す、シアトルのLRTにやる気を感じたことだった。

こちらのLRT、Sound Transitという組織によって運営されている。soundとは英語で湾・入り江のことで、シアトル一帯はPuget Saundに位置している。transitは訳しにくい英語だが、Sound Transitを強引に訳せば「湾岸交通」。

注目すべきはそのSound Transitの母体で、これはピュージェット湾周辺のPierce郡, King郡, Snohomish郡の3つの自治体が共同で運営している。ちなみにシアトルはKing郡に含まれるから、かなり広範囲の交通を担っていることがわかる。

1993年に設立されたこの組織の財源は売上税・固定資産税・自動車税から成り、その用途は地域内の市長17人とワシントン州交通長官の18人からなる委員会によって決められる。

この委員会によって2016年に決定された「第3次計画」を”Sound Transit 3″と呼ぶ。

この計画、鉄心(鉄道好きの心)を刺激し、行政の公共交通に対しての「やる気」を感じさせるのである。

(以下後編へ続く)

サウナ&大相撲

サ室内のテレビ

去年の初夏、サウナにハマり始めて以来、土日を中心にコンスタントにサ活を行っている。県外に行く機会ががあればその地のサウナに入ることにしている。この半年間で名古屋、長崎、福山、鳥取でサ活。名古屋へは伝説のサウナ「ウェルビー」に入るためだけに足を延ばした。

普段は家に近い神姫間(神戸と姫路の間)でスーパー銭湯を中心にいろいろと開拓を行っている。それなりの数はあるが、長時間サウナに入った後、なるべく車やバイクを運転したくないので、どうしても鉄道沿線の施設を利用することが多い。

そんな私のサ活であるが、何度か同じ場所に通ううち、サ室内のテレビ番組に傾向があることが分かってきた。

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台北の夜市で思ったこと

夜市で夕食の後、別の夜市へ

台湾旅行の3日目、士林夜市で夕食を済ましホテルへ帰宅したもののまだ飲み足りない。小腹も少し空いている。

妻と子供たちはホテルのwifiを使って動画を見たりゲームをしたり。もうホテルから出ていく気配がない。「せっかく台北まで来ているのに」と口から出かかるが、グッと飲み込む。人によって楽しみ方や優先順位は違う。そしてそれらと自分の欲望との折り合いをつけながらやっていくのがよい関係を築くコツ。それは他人でも家族であっても同じだ。

台湾に来る前から気になっていた食べ物がある。小ぶりのカキを卵と小麦粉で焼く牡蠣オムレツである。台湾語で”オーアツェン”と呼ばれてる庶民的な食べ物。

前回訪台した時は仕事がらみだったため、万が一あたった時のことを考えて我慢していた。今回はプライベート、そして明日帰国のため何とかなるだろう。私は数年間待ちわびた牡蠣オムレツを求めて一人、夜の街に繰り出した。

私たちは台北の中心地のひとつ中山地区に滞在していた。日本統治時代から栄えていた場所で数多くのホテルや商業施設があり、夜遅くまで人通りが絶えない。

前回も思ったが、コンビニの多さに圧倒される。主にファミリーマートとセブンイレブン。それに地元資本らしいハイライフという店が混じる。この地域のどこにいても、グルリと周りを見回せば2件はコンビニが目に入る、そんな密度だ。

歩道や少しスペースのある所には露店が出ている。台湾風ホットドックや焼き鳥のようなもの、練り物、何かのスープ。漢字で書かれているので、ある程度中身は分かるが「猪血湯」といった文字を目にしても、それを額面通り受け取ってよいものかどうか迷ってしまう。

様々な業種の店舗が混ざり合ったエネルギッシュな街を西へ向かって歩いて行く。地図によるとこの先に「寧夏夜市(ニンシアイエシー)」という夜市があるらしい。

やっと食べることができた

街を歩くこと10数分、あたりの様子が変わってきた。明らかに向こう側に人ごみがあるのが分かる。さらに近付くと煌々と輝く看板群と共に人で溢れる通りが見えてきた。寧夏夜市である。

広めの通りの中央にぎっしりと飲食を中心とした屋台が並んでいる。そしてその後ろ側には通常営業している店舗が。

寧夏夜市メインストリート
人で溢れるメインストリート

夜市は人で溢れている。そして一見したところ地元の人が多そう。子供の姿も多数見られる。とはいっても、人が車道まで溢れ、なかなか先に進めなかった士林夜市のような混雑ぶりではない。自分のペースでじっくりと店を探す。

こういう時一人だと気が楽だ。子供が迷子になったり、奥さんが不機嫌になることを心配しなくても済む。若い頃から一人で知らない街を歩くのが好きだった。これだけ人がいて、僕のことを知っている人が一人もいない。群衆の中での孤独感、ネガティブな意味でつかわれることが多い言葉だが、時には味わってみたくなる。

数ある店の中から美味しそうな店を探し、牡蠣オムレツとビールを注文する。店にいる客は殆どが牡蠣オムレツを注文している。これが名物になっている店なのだろう。

牡蠣オムレツと台湾ビール
牡蠣オムレツと台湾ビール

しばらくして注文の品が到着。卵と小麦粉で作った生地の中に牡蠣と白菜。その上にとろみのある赤みがかったタレがかけられている。牡蠣は小ぶりのものが十数個入っている。日本ではあまり見られない大きさだが、生地と共に食べるには丁度よい。見た目から辛さを覚悟したタレは意外と甘い。

もっと刺激のある食べ物かと思ったら、毎日でも食べられるあっさりした味。日本のお好み焼きよりも胃に軽く、ビールとよく合う。数年来待ちわびた牡蠣オムレツにすっかりと満足し、私は店を出た。

時刻はまだ10時前。市場を端から端まで歩いてみる。長さ300mほどの一本道。南の方へ下ると、食べ物だけではなくおもちゃやゲームの屋台もたくさん見られる。子供たちが多数遊んでいる。この辺りの子供は夜10時になっても外出を許されているのだろうか。

地元の人はどんな気持ちなんだろう

にぎやかな夜市をただブラブラと歩く。店の種類の多さ、活気、店員のエネルギーに圧倒される。訳もなく笑顔になり、ワクワクしてくる。それはまるで寺社仏閣の縁日に、屋台がずらりと並んだ参道を歩いているような気分だ。1年に数回、ずっと心待ちにしてきた日。この時ばかりは多めにお小遣いを貰い、夜遅く帰っても許される日。そして僕は考える。

「地元の人は毎日どんな気分で過ごしているのだろう。今の僕みたいにモヤモヤも忘れ、ワクワクした気分なのだろうか?」

縁日は年に数日しかないハレの日。しかし、この夜市は1年中行われている。このエネルギーに溢れた状態がこのあたりの日常なのだ。この規模で毎晩開催される夜市、日本ではちょっと思い当たらない。

大都市の歓楽街の賑やかさなら日本も負けていない。でも、夜市とは何かが違う。日本の歓楽街は会社帰りに、またはわざわざ出かけて行って楽しんで、その後また時間をかけて家に帰る場所。ここの夜市は、住んでる場所から徒歩で行き、楽しんだらすぐに家に帰って寝る、そんな感じがする。

こんな場所が日常生活の中にあったらなあ、と思う。日々の生活の中で僕の中に起こる様々な感情のせめぎ合い。したいこと、行うべきこと、した方がいいからやっていること、やりたくないのにやっていること。一日の行動がいくつもの階層に分けられ、それに付随した心情とやり取りしながら、なんとか1日を過ごす。

そのように清濁混ざった自分の心と体を一度夜市の中に置いてみる。ここは奇麗すぎないし、汚すぎる場所でもない。そこで売られている煮物のように、多くのものがゴタゴタに混ざり合い、五香粉と言うのだろうか、独特のスパイスによって調和が保たれている。近代的なショッピングモールのフードコートにいるとなぜか疲れを感じる。その理由がここにいると分かる。

美しさを強制された感情、そう考えるべきという感情、うまく言い表せれないが、弱さや汚さが吐き出せないでいる時間が長いと疲労してしまう。フードコートは、衛生的で、広く認められていて、どこでも同じ味を楽しめる店で溢れている。間違いはない、でも僕はその正しさが時に重い。

華やかな夜市の裏側にある影。果物ジュースを売る主人が、笑顔で愛想を振りまきながら、一瞬見せる鋭い眼の光。売り場の後方から聞こえてくる口喧嘩。無造作に台に置かれるゆで豚の頭や内臓。明らかに身体が不自由な人が、行列の屋台の横で頭を地面につけてお金を乞う姿。

目をそむけたくなるが、確実に社会にあるもの。そしてこれからもあり続けるもの。

夜市の構造は人の心のそれに近いのではないか、そんな思いに至る。

ハレの日のようにワクワクでき、しかも複雑に絡まった心を解きほぐしてくれる。こんな夜市が近くにあれば私のモヤモヤはどれだけ軽くなりそうか。台湾に来てよかったと思う。

かつての上司と偶然再会 そしてツーリング

思いがけない再会 思いがけない境遇

職場から信号を一つ渡りコンビニへ。用事を済まして、再び横断歩道で信号待ちをしていると、一台の大型バイクが私の右手前の路肩に止まり、運転手がヘルメットのシールドを上げる。

「道でも聞かれるのか」と思ったら「おーい久しぶり」の声が、運転手をよく見ると、それはかつての職場の上司だった。かれこれ7~8年ぶりの再会である。白髪が増えて、髪の毛の量は減っている。

私はこの上司、Wさんと馬が合っていた。少なくとも私の方はそう思っている。仕事の愚痴やこれからの展望など、仕事帰りの居酒屋でおでんをつつきながら、未熟な私の突っ込み所満載な話を否定もせずに聞いてもらったものだ。

7年ほど前、お互いに支店が変わり、直接の上司ではなくなると飲みに行くことはなくなり、少し疎遠になった。年賀状のやり取りも、ここ3年ほどない。

コンビニ前の横断歩道でしばらく会話が続く。そして予想外なことを知る。

Wさん、今、前立腺がん再発で放射線治療の帰り道だそうだ。

「2年前になあ、前立線ガンになってなあ、手術したんやあ。そんで、もう大丈夫だろうと安心しとったら、また値が上ってきてな、今は放射線治療や。はははっ!」

突然の話に、こちらは頭がくらくらしてきた。どうしてWさんは、そんなことをこんなに淡々と語ることができるのだろう。コンビニ前の人通りのある横断歩道の横で。

Wさんの話は続く。定年の前の年にガンにかかり手術。再雇用で1年働いたが、再発したから退職して、今は無職。放射線治療中。生活に支障はなし。バイクに乗っている時が楽しい。病気と年取って力が落ちたから、自動変速のバイクは楽でいい。でもニーグリップはしたいからNC700にした。

Wさんペースで5分ほど話をした後、「ごめんな、仕事の邪魔して。ほんじゃあ、この信号で横断歩道渡って!」

私は、「僕からまた連絡します」と言い残し横断歩道を渡り職場へ向かった。振り返ると、もうWさんのNC700ははるか向こうに消えようとしていた。

自分ならどうするのだろう 悶々とする

その日は仕事をしていても、頭の中はずっとWさんのことを考えていた。Wさんを通じて病気や老いについて思いを巡らせる。

どんな気持ちなんだろう。ガンになるって。それも定年の直前に。手術して、安心したと思ったら再発して。その知らせをどんな気持ちで聞いて、どういう風に家族に伝えて、何を自分に言い聞かせて、どこを向いて今、生きようとしているのだろう。

今日の明るい表情や話しぶりからは、前立腺ガンはそれほど恐れることのないガンなのかもしれないと思った。無知は恐怖を和らげる。しかし、知らないことは、気付きを遅らせる。私は友人の泌尿器科医が「肛門に指入れて前立腺肥大を見てやるよ」と言っていたことを思い出した。

自分がもし同じ立場だったら。想像することを意図的に避けてきたことが、今日の再会で前景化する。

今人生の折り返し地点を過ぎた所、勝手にそう思っている。後半をモヤモヤしたまま過ごしたくない、はっきり幸福を実感するためにこのブログを書き始めた。「本当に折り返し地点なのか?マラソンでいえば40キロかもしれへんぞ」至極真っ当な問いが浮かび上がってくる。

人の生き死には誰もわからない。そのことは分かっても、いつも死を考えながら生きていくことはできない。気が狂いそうになってくる。どうすれば死の恐怖とうまく折り合いをつけながら幸せに生きていけるのだろう。

いろいろなことにモヤモヤを感じる私だが、突き詰めれば根本はここにあるのかもしれない。そいえばスティーブ・ジョブスも有名なスタンフォード大学でのスピーチで言っていた。「すべてのことは死の前では副次的なこととなる」と。

”inevitable”という英単語が頭に浮かぶ。「必然的」よりもなぜかしっくりと心にしみる感じがする。「不可避」でもいいか。

どうすることもできない「死」を、生きている間にどう扱っていくのか。強制的に、それを考えざるをえない状況に投げ込まれたとき、私ならどうするのだろう。

私は悶々としながら2日ほど過ごした。

二人初めてのツーリング

3日目の朝、この日は土曜日、私は思い切ってWさんに電話をしてみた。自分には想像もできない状況の中で、どうやって心を整えているのか教えてほしかった。

「遅いやないか。あの日の夕方にかかってくると思ってたぞ!」

Wさんの元気な笑い声が聞こえてくる。私たちは昼から、少し一緒に走ることにした。

神戸市北区の山道は、神戸市内でありながら信号も少なく、適度にアップダウンもあり、1~2時間バイクを楽しむには丁度いい。私が前を走り、Wさんがついてくる。「同じ職場だったころは、俺がWさんの後をついて仕事してたのに…」関係ないことが頭に浮かぶ。

428号線の峠を超え、淡河に下る途中、息をのむような景色に出会う。今までの谷沿いの狭い視界から、盆地全体を見渡せる場所に切り替わるのだ。

何度通ってもハッとする。「浸食と沖積によってこの盆地が形成されるまでにいったい何十万年かかったのだろう」いつも、自分、人間の存在の小ささを感じさせられるが、今日は特にその思いが強い。

「Wさんはこの景色、どんな気持ちで見てるのかな?」そして、いつもの心の悪い癖だが「もう一度Wさんとここを通ることがあるのかな?」そんな想像をしてしまう。

次の道の駅に着くなり「ええ道通ったなあ!神戸に住んどってここ通るのは十数年ぶりや」。思わず私のほほが緩む。

今川焼を頬張りながら話をする。3日前の横断歩道の会話と今日の電話、じっくりと話をするのは本当に久しぶりだ。途中、小さな集落の喫茶店に場所を変え、私たちはいろいろと語った。

どうしてそんなに冷静でいられるの?

Wさんは楽しそうに、しかし淡々と語る。

手術後尿の感覚が無くなり苦労したこと。男としての刺激を感じにくくなったこと。当たり前にできてたことができなくなった時の苦労。

やはり前立腺がんにはなりたくない。早めに友人に診てもらおう。

病気の話をしているのに、Wさんの表情が曇ったのは仕事の話をしている時だった。

私と別の職場に移った後、管理職として様々な苦労をされていたようだった。職場の親睦は薄れ、昇給が小さくなり、非正規雇用の割合が増え、短期での成果が求められる。集団で働いているのに、それぞれ周りの人のことを考える余裕がなく、誰の仕事かわからない仕事を誰もやらなくなった。

少なくとも私個人の目からは、この国全体でそんな雰囲気が蔓延しており、私たちの職場もその例外ではない。戦争ですべてを失った国が奇跡的な復興を遂げ、そしてその延長線上にある成熟の姿なのか、それと弱者を含めた集団で最大限の幸福を目指す人間性の資質の衰退なのか。

私がモヤモヤを感じるのと同じようなことでWさんは苦しみ、そして病気を機会に退職。

「でも仕事のことはもう考えなくてもいいですよね。」

私がそう言うとWさんの目に輝きが戻る。

今は、お子さんの送り迎えをしたり、お孫さんの世話をしたり、習い事の教室をされている奥さんのお手伝いをしたり、「大変だ」と言うけれど、語るその表情は楽しそうだ。

「ガンになったら保険がおりて、このバイクが買えた!」

まるで病気になったことがラッキーだったかのように語るWさんの気持ち、私はなかなか理解ができない。私の前で強がっているようには見えないし、それだけ仕事がストレスフルであったということか。

私は自分自身に問いかける。今どんな気持ちで働いているのか。自分のやりたいことと仕事のバランスはとれているのか。

「とれている」と断言できない。年々重苦しくなっていく空気の中で、私は自分の一部を押し殺しながら働いている。もちろん、楽しいことや充実感もある。しかし、年々それらご褒美の部分が減り、自分を殺す部分の割合が増えている、そういう実感はある。

なんのために仕事をするのか。もちろん生きていくためだ。妻や子供たちと共に生活をしていくために。しかし、そのためにはどれだけ稼いで、どれだけ貯めて、どんなお金の使い方をしていけばよいのか。そのためには今の仕事を続けていくべきなのか。今まで真剣に考えたことは一度もなかった。

お金に生き方の話が加わり余計複雑になる。これから生きていくのに必要な金額が分かったとする。そのために私はどんな生き方をするべきなのか。何を捨てて、何を得ればよいのか。今のモヤモヤのままでただお金を稼いでいればよいのか。いいはずはない。

お金と生き方に体の話が加わる。簡単に言えばいつまで元気でいられるのかということ。これは正確な計算ができない。しかし、あいまいな3つの要素の複雑なバランスをとっていかなくては充実した人生を送ることができない。

余裕を持って語るWさんは、普段からそのトレーニングができていたのだろう。自分がそうだったらと立場を置き換えて想像すると、少なくとも、ガンの再発後の治療を行う状態で、私が到達できる境地ではない。

再会を約束して

答えを求めてWさんと再会したが、結果的に考えることが増えてしまった。

三度目の北海道ツーリングの計画や、趣味である水彩画(写真を見ると趣味のレベルではなかったが)を語るWさんはとても魅力的に感じられた。

「生き死になんて誰も決めることができない。大切なことは今、今日一日を充実させること。」そんなメッセージが聞こえてくる。ブログを書き始めて気が付いた、私に一番欠けている部分である。

店を出て、帰路に付く。一緒に走っているが会話ができない。バイクの不便なところであるが、同時に良いところでもある。先ほどの会話を反芻しながら、エンジン音の聞こえる5m後ろを走る人は何を思っているのだろう、想像力が膨らむ。

途中、東と西へ分かれる道でクラクションを鳴らして別れを告げる。

「今度は前みたいに居酒屋で会おう」

喫茶店でバイクに乗る前に交わした最後の会話だ。

コンビニ前の再会からわずか3日間の出来事。次いつ会えるのかは分からないが、私は今日貰った人生に対する宿題を私なりに解いて持っていきたいと思った。

一級立ち呑み師になりたい

立ち呑み初日 

田舎で育った私は、「お正月はお家で過ごすもの」そういうイメージを持ち続けている。子供時代、近くにコンビニはなく、スーパーやデパートも元旦は閉まっていた。自分の家で親戚を迎え、母親の実家に何泊か泊まりに行くと、何もしないうちに気が付けば1月6日になっていた。

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会話が無い 会話が続かない?

心配しなくてもよいことを心配してしまう

こんにちは。大和イタチです。

自分の性格がなかなか好きになれません。もう40代半ばなのだから、好きも嫌いもなく、おそらく残りの人生もこの性格と付き合っていかなくてはならないのでしょうが、できれば「変わりたい!」そういう下心も持ちながら生きています。

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