最高のサウナマット
兵庫から職場の後輩M君と二人で名古屋までサウナに入りに来ている。休日の午前11時、こうしてウェルビーのメインサウナ室で二人並んで肌をつたう汗と向き合っている。なんて贅沢で幸せなひと時なのだろう。
ここのサ室のサウナマットは、一般的な店のように黄色いものではない。毛足の長い上品な白いサウナマットが、床も含めて部屋全体に敷き詰められている。
“後輩と名古屋でサウナ(後編)” の続きを読む幸せについて考えてみよう
兵庫から職場の後輩M君と二人で名古屋までサウナに入りに来ている。休日の午前11時、こうしてウェルビーのメインサウナ室で二人並んで肌をつたう汗と向き合っている。なんて贅沢で幸せなひと時なのだろう。
ここのサ室のサウナマットは、一般的な店のように黄色いものではない。毛足の長い上品な白いサウナマットが、床も含めて部屋全体に敷き詰められている。
“後輩と名古屋でサウナ(後編)” の続きを読む去年の6月に心の調整をしようと思い、ブログを書き始めました。
私が持っているもの、私に足りないもの、持っているけど足りないと思っているもの、ないにも関わらずあると思っているもの、文章を書くことでこれらを明らかにして自分の心の棚卸しをするためです。
“身に沁みます” の続きを読むこのブログに何度か登場する後輩M君は本当に働き者である。物事の飲み込みが早く先が見えるので、つい余分な仕事に手を出して遅くまで仕事をしてしまう。
20代後半で独身の彼に「早く帰って遊びに行きなさい」とよく声かけをするが、仕事が楽しいらしく一向にそうする気配はない。それならば、ということで名古屋へサ活に誘うことにした。彼は半年前に神戸サウナへ連れて行った時「疲れが取れました」と大変感謝してくれた。
名古屋サウナ計画の話をすると「疲れをとるために今週はわざと働き過ぎて疲れを溜めます!」とM君は答えた。どこまでも働き者である。仕事を辞めて明石焼きのお店をやりたいと、夢のようなことを毎日思い浮かべている私とは違う。
“後輩と名古屋でサウナ(前編)” の続きを読む特に予定の無い休日、私は妻と頻繁に明石へ向かいます。今日も「明石焼き店開業のための勉強」と称して二人で明石駅に降り立ちました。明石詣でを始めたころは、半分は車で行っていましたが、明石焼きをあてにビールを飲む喜びを覚えて以来、ほとんど電車になりました。
“今日も明石でたまご焼き” の続きを読む兵庫の自宅を早朝に出発し、朝7時半の京都駅で列車を待っています。9月中旬の日曜日。今日の目的は豊岡の街を散策することと、先月食べ損ねた和田山駅の牛肉弁当を手に入れ、そのままビールと共にお腹へ落とし込むことです。
今回もユーチューバー「スーツ氏」のおかげで鉄道好きになりつつある次男と一緒の日帰り旅行。GoToキャンペーンの最中であるとはいうものの、何となく県外に出ることをためらわれる雰囲気の中で、それでは経路だけでも県外経由で行こうとなりました。
“ああ牛肉弁当” の続きを読む若いころから最近まで、私は車の中で一番カッコいい形は2ドアクーペだと思っていました。スポーツカーのような流線形ではなく、実用的な4ドアセダンと同じような形でありながら、基本的に2人で乗るために設計されており、派手さは無くても、足腰がしっかりしていて贅沢なつくりをされているところが素敵であると感じました。
学生の頃は予算の関係から小さな4ドアセダンに乗っていましたが、社会人になってある程度お金が自由になると、2ドアクーペが欲しくなってきました。
「控えめだけど足の速いスポーツクーペに彼女と乗っていろいろな場所をドライブしたい」、私は車雑誌や中古車情報誌を見ながらニヤニヤしていました。しばらくして念願だった外国製の2ドアクーペを買い、望み通り彼女とよく様々な場所にドライブに行きました。
やがてその彼女が妻となり、一緒に暮らし始めてからもその車に乗り続けました。燃費はよくありませんでしたが、力強い走りでしたし、どんな場所を走っていても絵になる車でした。
そんなスタイリッシュなクーペとは真逆のあの車に出会った場所は今でもよく覚えています。20年近く前、西明石駅付近を運転していた時のことです。信号で止まっていて、横から出てきたその車を見て私と妻は大爆笑しました。
「なんだあの中途半端なスタイルは!車というより、巨大なスリッパだ!」
そんなことを言い合いながらゲラゲラと笑いました。自分は車の中で一番スタイルがよいと思っている2ドアクーペに乗っています。完全に上から目線です。
まだ20代の若造だった私は、今から思えば目に見える部分の良さしか理解できない男でした。すべての形にはそれなりの意味があり、その形の奥にあるものが理解できた時、それは機能美として浮かび上がってきます。
年をとるということは悪いことばかりではありません。かつて若かった自分の姿が、時と共に老いていきます。そんな姿を鏡で見続けていると、今まで見えなかったものが見えてきます。
現に”カッコいい”車にしか興味が無かった私が、今では20年前にバカにして大笑いした”あの車”の格好良さに魅了されていて、”その車”が欲しくてたまりません。
私が「巨大なスリッパ」だと思ったその車の名前は「ハイゼット・デッキバン」といい、ダイハツが製造する軽自動車です。

数多くの国内の自動車メーカーが様々な車種を出している中で、唯一といっていいほどの特徴的なスタイルをしています。ダイハツと並ぶ軽自動車の巨頭であるスズキですら、この形は販売していません。
その特徴、そして同時に、20年前の私の笑いのツボを刺激したのは、車体後部のデッキ部分です。ちょうど軽トラックと軽バンを足して2で割ったような形になっています。
その中途半端に短いデッキ部分がコミカルで「これトラックとバンのどっちなん?」「帯に短し襷に長しっていうけど、トラックにもバンにも短いやん!」とツッコミを入れたくなります。
濡れてはならないものを運ぶのならバンがいいですし、汚れ物を運ぶには軽トラが適しています。実用性ということを考えると、このデッキバンはどちらに対しても半端な役割しか果たせないと思いました。それに既成のスタイルに慣れてしまった目からすると、奇妙な形の乗り物に見えてしまいます。
しかし、年を重ねるということは、多くの人に出会い、様々な経験を積み、今までなかったことを考えるということでもあります。そしていろいろなことがわかってきます。
自分の周りを見渡すと様々な人間がいます。Aという仕事が完璧にできる人。Bという仕事が完璧にできる人。完璧とまではいかないが両方をそこそこのレベルでこなせる人もいます。むしろ、ほとんどの人は少し得意なことを持ちつつも雑多なことに関わって仕事をこなしていると思います。
仕事以外でもそうです。個人のアイデンティティーが過剰なまでに求められる時代、つまり「君は何者で何がしたいのか」を常に考えさせられる世の中にあって、いろいろな自分が混ざり合った状態の「よくわからない自分、言語化できない自分」でいることはあまり評価されません。しかし、本来人間とは外部なしではその評価を規定できなく、自分というものはもっと宙ぶらりんなものではないでしょうか。
このハイゼット・デッキバンを眺めているとそのようなことを考えさせられます。
「どっちでもええよ。どっちもちょっとずつ使う中途半端な生き方もええもんやで!」そんな声が聞こえてきそうな車です。
お気に入りだったクーペは子供が生まれ手放しました。交通至便な場所に住んでいたため、しばらくは必要な時にレンタカーを借りる生活を続けましたが、二人目が生まれてしばらくするとミニバンを買いました。
結婚するまでは自分がミニバンを買うなんて想像しませんでしたが、小さな子供二人を抱えての移動はこのタイプの車に勝るものはありません。パワーやスマートさは無くても、両サイドスライドドアで4人乗っても後ろに大量の荷物の積めるミニバンの恩恵を、ここ10年来享受し続けました。この車を軸にして多くの思い出もできました。
今、子供たちは成長して、4人そろって車に乗る機会がめっきり減りました。2人とも、友達といる方が断然楽しくなり、高校生の長男は旅行も友達と行きます。
あんなに活躍したミニバンは、今では週に1度ぐらいしか車庫から出てきません。家族4人で最後に乗ったのはいつなのか思い出せないぐらいです。
そんな中でアイツが、あの小さなデッキが私の脳裏に浮かび上がってきました。「家族4人の実用」をそれほど考えなくてよいのなら、もっと車で遊んでも良いのではないか、そんなことを考えるとアイツがとても魅力的に思えてきます。

普通に生活していても数か月に1度見るかどうかというぐらいのレアな車です。当然ディーラーに行っても展示車などありません。私はダイハツでカタログを貰い、ベッドから手が届く棚に置き、それを眺めてから寝るようになりました。
見れば見るほど想像力をかきたてられる素晴らしい車です。20年前、クーペに乗りながらバカにしたこの車に私は心奪われ、今ではどんな車よりも欲しいと思っています。人の心の変化って面白いものですね。
キャンプ道具を積んで日本中旅をして回る。
デッキに前輪を外したロードバイクを積んで、各地でサイクリングを楽しむ。
休日に畑をして、収穫した野菜をデッキにのせて帰る。
この車と楽しそうに過ごす私の姿を想像します。その中でも最大のものは、ここ数か月ハマっている明石焼きに関するものです。
あのデッキに焼き器と小さなテントを積み、リアシートの部分に材料をのせてイベントでたまご焼きの移動販売をする。
「いつか店を出したい」と思いながら毎週食べ歩いたり、家で焼いている明石焼きですが、その「いつか」がグッと近付いてきた気がするのです。
今は明石へ通い、家で明石焼きを試行錯誤しながら焼くだけで、まだ仕事を辞めるとか店の物件を探すとか、そんな段階からは程遠いです。しかし、やっていてとても楽しく充実感を感じています。
定年まで今の仕事を続けることなく、どこかで妻と明石焼きを焼いている自分の姿を想像することができます。収入の面で言えば今よりぐっと低くなると思いますが、お金がないなら無いなりの生活をすればよいのでは、とも思えるようになっています。
その心境の変化は、「高価なクーペよりも、この変な形のハイゼット・デッキバンに乗って人生を楽しみたい」と思う今の私を映し出しているものなのかもしれません。
最近よく聞くpodcast番組の1つが“The language we speak”。BBCが英語学習者向けに作っている番組の1つで、”6minnutes English”と並び私のお気に入りである。
この番組は教科書に載るにはまだ早いが、ネイティブスピーカー、特に若者のそれの間で広く使われている言葉を紹介してくれる。vanilla=「平凡でひねりが無い」、roast=「じんわりと責める」など最新の言い回しを学ぶことができ、毎週更新されるのを楽しみにしている。
“サウナが熱い?” の続きを読む「今日から私と英語との関係が気楽なものになる」そう思ってネットで見た英検の結果、鼻歌交じりの余裕の表情が一瞬で凍り付いた。
スクリーンにはまさかの「不合格」の文字が。
“落とし穴” の続きを読む高校生の頃、仲の良かった友達が「タイマーズ」というバンドのCDを貸してくれた。この「タイマーズ」とは1980年代の後半にデビューした謎の覆面バンドで、政治色の濃い歌詞をロックやリズム&ブルースに載せて歌っていた。
メンバーのプロフィールは公開されていなかったが、誰が見てもその中心人物であるボーカル「ゼリー」は忌野清志郎であった。そんなタイマーズの曲の1つを、私は夏が来るたびに思い出す。
曲名は「LONG TIME AGO」。広島に投下された原爆について歌われた曲だ。
“Long Time Ago, 44年前~、何の罪もない人が、死んでいったのさ”
「44年前」
広島に原爆が投下されたのは終戦直前なので、私がこの曲を聞いたのは戦後44年経過した平成元年だったということになる。
私も40代半ばを超えてしまった。ということは、終戦からタイマーズがあの曲を歌うまでの期間以上の年を生きてしまったことになる。そして、タイマーズから31年もの時間が経過した。
私がLong Time Agoを聴いた時、今の私と同じ年だった人は戦争中に生まれたことになる。「もうそんな年になってしまったのか」と思うと同時に、戦争が急速に我々の生活から離れつつあることに気づかされる。
終戦の年、15歳であった人でも現在90才。実際に戦場で戦った経験のあるものはさらに年上である。しっかりとした頭で後世に記憶を伝えることがもう難しい年齢である。
毎年、戦争関連の行事が多いこの時期になると、私がタイマーズのあの曲を聞いた時代に、祖父を始めとする戦争体験者からもっと直接、戦争の話を聞いておけばよかったという思いになる。
様々な組織の中で中心となり、社会を動かしている人々の中で戦争を経験したことのある人はほぼいない。政治家からも戦中派はもう消えつつある。
究極の所、私のモヤモヤを作り出している最大の原因は「死」であると思う。いや、「死」自体はただ概念としてあるだけである。問題は、私がそれをどうとらえて、これから向き合っていくのかということ。そして、戦争について考える時、嫌が上でもその「死」を考えないわけにはいかない。
タイマーズが「Long Time Ago」で「44年前」を歌った平成元年は、戦争で死線を潜り抜け、戦後44年間生きた私の祖父が亡くなった年でもあった。
大正時代に生まれた私の祖父は、その青年期と日本の暗黒時代が完全に一致する。
具体的な期間は聞いていないが、「若い時はずっと戦争に行っていた」と私に話した記憶がある。私の父と祖父は気軽に親子の会話をする間柄ではなかった。そのためか、祖父は孫である私によく戦争の話をしてくれた。
そんな話の中で、30数年を経ても私の中に強烈に残っているのは「死」に関連した話である。祖父にとって、「死」は「生」のすぐ隣にあるありふれたものだった。そんな感じがした。
私たちの身の周り、あらゆる場所に自然の生態系がある。その中では食物連鎖という「死のつながり」が普通に存在する。弱いものが強いものに捕食される現象、それが生態系の日常である。人間から考えると、生物個体にとってものすごくストレスフルな状態だ。
話から想像すると、祖父にとって戦争はそれと同じようなものであったのかもしれない。
川辺で洗濯をしていてワニに襲われて死ぬ。
現地の芋を食べたらその毒にあたって死ぬ。
マラリアにかかって衰弱して死ぬ。
20分前までいた陣地が爆撃され、残っていた兵が全滅する。
輸送船で移動中、自分の周りの船が次々と魚雷で沈められていく。
祖父にとって「死」はいたるところに転がっていたようだ。上のような話をよく聞いたが、特に陣地が爆撃された話は強く印象に残っている。
腰を痛めた祖父が陣地から離れた場所に運ばれた。その20分後に陣地が爆撃されて、祖父を運んでくれた人を含めて亡くなったらしいのだ。晩年頻繁に腰痛に悩まされていた祖父であるが、その時腰を痛めていなかったら死んでいたことになる。
祖父は復員後、祖母と結婚して家族を持った。当然、父も私も私の子供たちも、あの時祖父が腰を痛めなかったら、この世に存在していない。
今、ここに、こういう形で生きていることは、結果だけを見れば当たり前のように思えるが、その過程を考えれば奇跡に思えてしまう。私はそういう無数のつながりの最先端にいる。
祖父は、私から見て、ものすごく厳しい人であった。いつも何かをして働いていた。無駄遣いやふざけることが嫌いで、いつも難しそうな顔をしていた。
それは、貧しい時代に生まれ、青春時代をすべて戦争に費やし、多くの死を見て来た彼にとっては当然のことであったのかもしれない。自然状態にある人間以外の動物に「笑い」が存在しないのと同じで、生きるか死ぬかの状況を長く体験した彼にとって、険しい表情は標準装備だったのだろう。
そんな祖父が70を目前にして末期がんにかかった。多くの死を目撃した彼にその順番がやってきた。
本人には病名は告げられなかったが、すべてを理解していたようだった。病状は改善しないが、病院から自宅へ帰ることを希望し、祖父が家に帰ってきた。
あれほど元気で逞しかった祖父が日に日に弱っていった。私は妹と二人で父母の部屋に呼び出され「もうだめだ」ということが告げられた。私はうすうす気づいていたが、初めて向き合う身内の死に涙がこぼれた。
やせ細りほとんど動けなくなった祖父が口にした言葉を忘れることができない。秋が深まりつつあり朝夕の気温も下がったある日、「一晩表に出してくれたら死ぬから」そう言った。
自分の体が衰弱していく中で家族に世話をかけたくなかったのだろうか。それとも「そんなことを言わないで」といってほしかったのか。彼の生きた時代を考えると「もう充分だ」と思ったのか。
身近で数多くの戦友の死を体験した、そして私には語らなかったが自身も敵兵を殺める立場であった彼の死生観を私が知ることはできない。あの瞬間、祖父の脳裏に何が浮かび、どういう形で死を受け入れようとしていたのか、今だに私は考えさせられる。
意識が混濁し、やがてそれもなくなり下顎呼吸が始まる。祖父の周りに家族と親戚が集まり、順番に手を握る。私もすっかり痩せた祖父の手を握り、泣きながら声をかける。
呼吸が弱くなり、やがて止まった。医者がやってきて脈を測り、瞳孔に光を当て、そして祖父に向かって手を合わせた。
私は、初めて人が死ぬ瞬間に立ち会った。そしてこの時の光景は、私の中に時折蘇ってくる。
この世に生を受け、その生を謳歌し、そして死んでいく。すべての生き物の行動を単純に表せばこれだけのことだ。どんなに偉かろうと、どんなに富を持とうと、一度命を受けたものは、この宿命から逃れることができない。
不惑をとうに過ぎ、知命に近付きつつある私は、いまだにその宿命に心乱され続けている。
ここから抜け出す方法は頭では理解できる。「死」と同様に、その裏側にある「生」に対して真剣に向き合うこと。そこからしか、このモヤモヤを取り去る手段はないと思う。
頭で理解したことを、体と心に浸み込ませる作業、時間はかかるがコツコツとこの作業を続けていくしかない。
コロナが流行りだしてから県外に出ることは極力避けてきたが、今日は仕方なしに梅田まで行き、今帰宅した。
生まれて初めての実用英語検定の受験、1次試験は地元で受験したが、その際配布された解答用紙に2次試験希望場所を記入する欄があった。兵庫県に住む私は当然神戸か姫路で受験できると思っていたが、いくら探してもそれらの街の名前が無い。
仕方なく一番近い大阪の欄をマークして今日を迎えたわけであるが、心の中は「英検を受けるためにわざわざ大阪まで行かなアカンの」と少し面倒くさい。
“モヤモヤの元を1つ取り去る” の続きを読む