流れ

生物

私は一つの細胞から始まった。両親から半分ずつ受け取った情報をもとに、母の体内で約9ヶ月育った後私はこの世に生まれてきた。

1つから始まった細胞は体を構成するそれぞれの部分へと別れていき、”最終的”には40兆個の大きな塊となって私を形作っている。

1つの細胞が人間の形まで増えればそれで完成ではない。人間になった私は、その形を変え続けている。赤ん坊が幼児になり、児童から子供を経て青年へと変化する。青年は壮年となり、今や私は中年、しかもその後半にさしかかっている。

このような年齢区分は、人が作った言葉によって分けられているだけあり、私を正しく反映しているわけではない。実際に私の体は毎日変化していて、私の姿を表す言葉はかなり大雑把な枠組みに過ぎない。

一日3回食事をとり、水やお茶を度々飲み、10秒と開けることなく空気を体に取り込む。定期的に排泄を行い、息を吐き、爪や髪の毛を切り、汗をかき、古い角質層を落とす。

私が取り入れたものは、血液にのって私の体の隅々まで駆け巡り、40兆個のそれぞれの細胞の古い部分と入れ替わる。不必要になったかつての私の一部は、さまざまな形で40兆個の外に排出される。

私の最初の細胞が分裂を始めて以来、私は一瞬たりとも同じ状態を保っていたことがない。だから”最終的”な私も”本当”の私も未だかつて存在したことなく、今まで私の歴史の全てが本当の私ということができる。

人間とは本当に不思議な存在で、このように考えると人間とは、確固とした形ではなく流れのようなものだと思えてくる。

世の中を構成する無数の原子の一部が、どういう力によってかわからないが、お互いに結びついたり離れたりしながら私の体を流れている。その流れを作る、原子の通り道を作る、不思議な力が私なのかもしれない。

ではその不思議な力をコントロールする根拠を考えようとすると、もう私の知力ではお手上げになる。

不思議なのは人間だけではない。およそ生物は全て、動物でろうと植物であろうと、この流れを持たぬ存在などあり得ない。

人間や生物だけではない。この世にあるすべてのもの、水も石も空気も、何かから変化しまた何かへを変わっていく。

私たちの住む世界は、どうしようもないぐらい動き回っている世界。一瞬たりとも同じ状態がないグネグネぐるぐるの世界なのである。

その都合のよい一瞬を切り取って、私たちはそれに言葉を与えて、何かを定義し認識する。

家族

話が大きくなったが、私をそんな気持ちにさせた理由は、私が現在長男の部屋の机でパソコンに向かっているからである。

私の二人の息子たちは、現在県外で暮らしている。息子たちの部屋は、それぞれが高校3年生の時の配置のままである。時々帰ってくるが、すぐに地元の友達と遊びに行ってしまうので、今は寝るだけの場所になっている。

そんな息子たちの部屋を、最近私と妻は使い始めた。妻は空になったクローゼットに自分の服を収納している。私は彼らの勉強机に座り語学やパソコンをすることが多くなった。私たちの寝室には椅子付きの机がなく、リビングでは妻がテレビを見ていることが多いからだ。

長男の勉強机の透明なシートの下に、写真が入れられている。主に小中学校の頃のものである。友達と写っているもの、バットを構えているもの、クラス全員で写っているもの。

写真を眺めながら、息子たちとこの家で過ごしたさまざまなシーンを思い出す。

始めてこの場所に来たときには、長男の手を引きながらだった。建物はまだ建っていなかった。次男は妻のお腹の中にいた。

引っ越しをして、次男が生まれて家族四人での生活が始まった。長男と手を繋いで幼稚園に通った。次男がテーブルの足につかまり初めて立った。よちよち歩きをする次男を嬉しそうに長男が追いかけていた。

家族四人で一緒にお風呂に入った。みんなでピザ生地をこねて焼いて食べた。息子たちを私の両肩に乗せて寝室まで行き、川の字プラス1で寝た。

ランドセルを背負い家を出る息子たちを見送った。こっそり後ろから見守った。連れてきた友達と一緒にゲームをした。兄も弟も、休日はユニホームを着て野球に出かけていった。すぐに私も妻もチームを手伝うようになった。

和室に2台並べてあった机は、長男が中学校に入るとそれぞれの部屋へ移動した。シングルベッドを2台買った。

妻と言い合った長男が自分の部屋の壁を叩く音が聞こえてきた。怒った次男が部屋へこもって出てこないこともあった。

中学高校と進むに連れ、子どもたちにとって親より大切なことを話せる人ができた。部活や塾を優先し、夕食を食べる時間もバラバラになった。家族4人で食べるときはテレビを消すというルールも、いつの間にか曖昧になった。

高校時代、長男は勉強とバンドに打ち込んだ。全く勉強をしなかった次男も、人が変わったように勉強と旅にのめり込んだ。二人ともここを巣立っていく日が近いと私と妻は感じていた。

すべてが本当

こうして長男の机に座ってパソコンを打ちながら、この場所で過ごした思い出を噛み締めている。涙が出そうになる。どうしてだろう。息子たちが今ここで暮らしていないことが悲しいのだろうか。いや、そんなことはない。

私も妻も大学時代は一人暮らしをしていた。だから息子たちにもそれを望んでいた。自分で経験するからわかることもたくさんあるのだ。

子供が成長する過程は、生まれたばかりの100%親に依存した状態から、その依存度を徐々に減らしていく道筋である。自分でできることが増えて、親より話ができる人を作り、自分で暮らす術を身につける。子供は精神的にも経済的にも親への依存を減らしていく、これが正常な姿なのである。

依存を減らすのは親の方も一緒である。確かに我が半身である子供は可愛く思える。しかし、その可愛さがいつまでも幼児期のそれと変わらないのであれば、子供の成長を歪めてしまう。可愛さの質も変化するべきであるのだ。

万物の本質は変化し続けること。個人としての人間の体も、擬制としての家族制度も同じである。家族にとって1日たりとも同じ状態はない。だからすべてが本当の家族の姿である。

そして、人間の体も家族も不可逆的に絶えず変化しながらその姿を変え続ける。その先にあるものは、個人で言えば私の枠組みが消える死であり、家族はその個人の死が重なった結果の消滅である。

個人も家族も決まった形はなく、その断片の集合体に過ぎない。そんなごちゃ混ぜになったものの中に私たちは喜怒哀楽を感じ、愛おしさをつのらすのである。その感情の質に一つとして同じものはないという思い、すべての時がかけがいなく、そして私は今生きてそれを感じることができるという思いが私の瞼を熱くするのだと思う。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。