何かにすがりたい気持

モヤモヤと不安と

朝早く目が覚め、そのまま眠れない時がある。起きた瞬間から心はモヤモヤしている。目覚ましの鳴る時間まであと2時間はある。「仕事が忙しいから少しでも睡眠をとらないと」そう思う時は大抵眠ることができない。言語化できない不安が頭をめぐる。

歩いて駅まで向かう。学習のためにイヤホンからは英語が流れてくるのだけれど、音声がバラバラに壊れて頭に入ってこない。コンピュータの裏側でいろんなプログラムが働いているように、土台の部分で頭が別のことを考えている。

職場で昼食後の休憩時間、机に肘をついてウトウトしていると、ものすごい悪夢を見ることがある。内容は思い出せないが、見たくないものを見てしまったという後味の悪さが残る。

自分は何に不安や息苦しさを感じてモヤモヤしているのかわからなくなる。何かをやっている時は気持ちがまぎれるが、無意識の状態になる時、モヤモヤが顔を出してくる。

ここ数年間、心から楽しい夢を見たことがない。いつも何かに追い回されたり、ありえない状況に固まってしまったり。いい夢を見れないということは、僕の無意識の中で展開している基本的な思考がネガティブであるということなのか。

妻はいつも楽しそうにしている。「自分は幸せだ」といつも言っている。怒ったり不機嫌になることもたまにあるが、後に引きずらない。そんな妻に自分の悩みを打ち明けてみる。

「生活が安定しているから、逆に目標がなくなって不安になるんじゃない。仕事辞めて1年ぐらいゆっくりしたら。生活に困って、どうにかせなあかんと思ったら、不安になっている暇なんかないよ」。

仕事を辞めるなんて考えたことなかった。「定年まで働いて、退職金でしばらく過ごし、年金をあてにしながらつつましく暮らす」そんな生活になるのかとぼんやりと思っていた。

「なんとかなるよ」と妻は言う。そういう風に楽観的に考えられるところが、幸せを実感できる秘訣かもしれない。自分が仕事を辞めることを考えると、僕は悪いことしか浮かんでこない。収入がなくなって焦る自分、次の仕事が見つからなくてイライラする自分、そして結局、1年間自由に過ごそうと思っていても心は自由に過ごせない自分。

あと何年間、今と同じような気力・体力を維持しながら生きることができるのだろう。そういえばこのブログは、人生の折り返し点を過ぎても心が整わないことへの焦りから始めた。

長崎の隠れキリシタン

先日、NHK Worldの英語番組Japanologyを見た。これは日本の歴史や文化、またはこの国で活躍する外国人を紹介する番組で、僕は英語の語学学習のためよく見ている。

前回の番組は長崎の隠れキリシタンの特集であった。16世紀半ばの伝来から17世紀初頭の禁止まで、明治以前のこの国でキリスト教の布教が行われた年月はわずかであった。しかし、九州を中心としてその教えは明治維新までの約250年間、権力者の目を盗んで生き延びた。

番組では、キリスト教が禁止され、しばしば弾圧が行われる中で、長崎のカトリック信者がどのように信仰を守り受け継いでいったのか紹介されていた。

直径1.5mほどの平らな石の上に、10個ほどの丸い小石が置かれている。平らな石は墓で、小石は並べて十字架の形を作るものである。墓参りが終わると、証拠隠滅のため十字架は崩される。その他、仏教寺院に間借りしたマリア像、岩の間の秘密の礼拝所など、当時の人々の信仰を伝える工夫が紹介される。

中には迫害から逃れ信仰の自由を守るため、人の寄り付かない断崖や離島に移住した人々もいた。

土地が痩せて生産性の乏しい場所で、こういった人たちはどのような暮らしをしていたのだろう。利便性や物質的な豊かさよりも信仰を選んだ人たちは、何を考えていたのだろうか。番組を見ながら僕はそう考えた。

衣食住の状況から見れば「貧しい人」となるのであろうが、僕は不思議とこの人たちのことを可哀そうだとは思わなかった。むしろ、信仰を貫いて生きる姿を羨ましいとすら思えた。隠れキリシタンの人々は、貧しいながらも命を燃やしながら神を信じて生きた。思わず、恵まれていながら毎日モヤモヤした気分で過ごす自分の姿と対比してしまう。

何かに身を預ける…何に?

「宗教の本質は狂信である」タイトルは忘れたが評論家の呉智英が何かの本に書いていた。

考えてみれば哲学も科学も宗教も、根本のところは同じであると思う。人間は「この世の中の成り立ち」「私と私以外との関係」「今はいつでここはどこなのか」これらのことを考えずにはいられない。哲学・科学・宗教、それぞれがそれぞれの切り口で、これらの問いに答えようとする。

ただ、最も人が何かを信じる力に依存しているのは宗教であり、本質が狂信というのは、それを表していると思う。

「狂信すると楽になれるだろうな」と思うことがある。多くの新興宗教のようなわかりやすい形ではない。例えば、今日見た、隠れキリシタンの子孫たち、すごく穏やかな表情に見えた。数百年の間受け継がれてきた神への言葉や神の前での身体運用が生活の一部になっている。とても自然な形に見えるが、信者の世界観は理性を超えたところによって形作られている。

「神に身を捧げてひたすら信じれば心が楽になれる」苦しい時こそ、そんなことを思ったりする。しかし何に身を預ける?一神教の神様、八百万の神様、それとも仏?

今までいろいろな神や仏にすがってきた。神社仏閣は僕の一番好きな場所の1つ。様々な神や仏に祈りを捧げ、お願いをしてきた。実家に帰ればまず仏壇の前へ行ってご先祖に挨拶をする。「南無阿弥陀仏」は、どこへいても毎日唱える。海外で教会へ行けば、日本語ではあるがそこで祈りをささげる。まだ行ったことはないが、イスラム教の国に行けばモスクの前で何かを祈るだろう。

つまり僕は、すべての神仏的なものにすがりながら生きている。どのような神仏にも何かが宿っていそうな気がする。1つを狂信することはできない。何かにすがりつこうとしても心の一部で「これがすべてじゃないだろう」と自分自身に送られる冷めた視線を感じる。

今日テレビで見た人々のように神様を心から信じることができれば、心が安定した幸せな人生を送ることができるのかもしれないと思うが、僕にはできそうにない。今までいろいろなものに少しずつすがってきながら、今更1つのものだけを贔屓にするなんてできない。それこそ、またモヤモヤの原因になってしまう。

信仰を1つにすることは不可能でも、それらを含む生き方を1つ考えていくことはできると思った。何となくずっと働くと思って生きてきた。何を大切にして生きて、死ぬまでに何を行いたく、そのためには何が必要なのか、考えているつもりはあったが真剣には考えていなかった。まずはマインドマップを書いてみよう。

これからも僕はいろいろな神仏にすがりながら生きていくと思う。科学や哲学に対しても同様な浮気心を示すだろう。心のどこかで「究極の所、何が本当なのか人間は知ることができない」そう思っている。

しかし、今更ながらだが、同時に自分の生き方を真剣に考えることを行えば、これら観念の世界が幸福感という感覚の世界につながっていきそうな気がする。

家族旅行で感じたこと 

はぐれ刑事純情派

妻の初めての妊娠中、僕は夢を見た。

僕はピンク色の着ぐるみにくるまれた女の赤ちゃんを抱いていて、まぶたが開いたばかりのその子の瞳は、僕の方を向いている。僕は娘に向かって名前を呼び掛けている、そんな夢だった。

夫婦共に、胎児の性別は生まれるまで聞かないことにしていたが、僕はその夢のおかげで娘を持つものだと思った。お腹の赤ちゃんは、夢を見て以来、生まれるまで夢で見た名前で呼ばれ続けた。

妻は俳優の藤田まことが好きで、当時よく彼の主演していたドラマ「はぐれ刑事純情派」の再放送を見ていた。僕もしばしば一緒にドラマを楽しんだ。見ていて、番組の展開と同じくらい気になるのは、安浦刑事と二人の娘、エリ・ユカとのやり取りだった。

ドラマでは、姉妹は刑事の亡くなった奥さんの連れ子で、実の娘ではない。刑事の捜査中に偶然出会ったりするが、大抵は番組の最後に行きつけのバー「さくら」からいい気分で帰宅する安浦刑事に「お父さん飲みすぎよ。もう若くないんだから。」などという場面に登場する。血はつながっていないものの、安浦刑事は娘たちが家にいてくれて幸せそうだ。

番組を見るうちに、僕もこの安浦刑事と娘たちとの関係に憧れるようになった。当時、僕にまだ子供はいなかったが「子育てが終わった後、大きくなった娘たちといい関係でいられる人生は幸せだろうな」そんなことを想像した。

安浦刑事のように妻がいなくなるのは嫌だが、このドラマを見ていると、彼の姿は男親として理想の姿に思えた。

娘たちにとって父親は最も身近な男性。小さな頃父親になついていた娘たちが、思春期に入り距離をとり始める。異性を意識し始め、父親が比較の物差しとなる。男の心の成長段階には、成熟のための「母殺し」があるのだが、女の場合はどうなんだろう。まあ、あるとして、娘たちの精神的な「父殺し」の後、父親から離れて別の男へ。そして、成熟が進むと父親の客観視が可能となり、そこからは別の次元で良い関係が続いて行く。「はぐれ刑事」を見て、僕の想像力は掻き立てられる。

「お腹の子供が予想通り女の子だったら、二人目も同じ性別がいいな」僕は姉妹の父親になった姿を想像してニヤリとした。「はぐれ刑事」のエリとユカのように、成長した娘たちにお酒の飲み過ぎを心配される父親、いい人生じゃないか。

そして時は経ち…

長男が誕生し、3年後に次男が生まれた。長男の幼稚園のママ友が「これあげる」と「子供産み分けの本」をくれた。しかし、女の子が欲しかったと言っていた彼女は男三兄弟の母親だ。なぜそんな本をくれたのだろう。

娘を持ちたいという気持ちは変わらなかったが、僕も妻も年をとってしまった。今は四人で暮らしている。

「はぐれ刑事」を見ながら、姉妹の父親になる心のトレーニングはしていたが、それは役に立たなかった。僕は一から男兄弟の父親の姿を考えた。

構造主義思想に大きな足跡を残したフランスの文化人類学者レヴィ・ストロース。親族の基本構造の中で示される父と息子・母方の叔父(伯父)との関係。父親と息子の関係が良好になれば、息子と叔父(伯父)は反目する。その逆もまたしかり。息子は二人の大人を見て葛藤する。息子が成熟するためには、先行世代に異なるタイプの二人以上の同性モデルが必要である。

「そうか、息子たちにとって叔父(伯父)の存在が大切なのか」と思うものの、僕にも妻にも男兄弟はいない。

レヴィ・ストロースがフィールドワークの対象としたのは、近代化される以前の部族。おそらく、兄弟が多くオジの存在は当たり前だったと考える。僕が住んでいるのは、出生率が2.0を割った現代の日本。本当の叔父(伯父)はいなくても、その中でオジ的なものを探せばいい。要は僕と同じ世代の同性とやり取りする機会を作ればいいのだ。

僕は積極的に親戚づきあいをした。もともと従妹たちと仲が良かったこともあるが、意識して親族のイベントに参加した。

幼稚園や小学校のパパ友・ママ友同士よく交流を行った。定期的にテニスをしたり、家に招いたり招かれたり、バーベキューに行ったり。幸いにも、良識的な人たちに囲まれ、自然な形でよいお付き合いをすることができた。

地域の活動に積極的に参加させた。住んでいる場所が歴史のある場所なので、お祭りや子供会、少年野球といった組織がしっかりとしている。息子たちはそんな中で、僕と同世代の男性にもまれたと思う。

息子たちは、それぞれ高校生・中学生となり、もう親の言うとおりには動かなくなってきた。親戚付き合いやパパ・ママ友との交流も大人同士で行うようになった。

親から急速に離れていく二人を見て、僕はきちんと息子たちを育てられているのか、時々わからなくなる。

息子たちが考えていることがわからない

昨年末、家族で台湾を訪問した。1年半ぶりの家族旅行。かつては短いものを含めると年に3~4回行っていたので、久しぶりの旅行を僕はずいぶん楽しみにしていた。

息子たちにとっては初めての海外。僕は、旅行プランを考え、チケットを取り、4人で楽しそうに旅する姿を想像しながら出発の日を待った。

出発の日、いつもと何かが違う。空港に向かう車の中、息子たちはイヤホンでそれぞれ好きな音楽を聴いている。かつては、4人の好きな音楽をそれぞれ順番にCDプレイヤーでかけ、みんなで音楽を楽しんでいた。

関西空港での待ち時間「何か食べに行こうか」の誘いに二人とも「俺いいわ」の返事。WiFiの使えるロビーでスマホを見続けている。不機嫌な僕は妻と回転寿司をつまみながらビールで心をごまかす。

台湾到着後も、今まで感じたことのない違和感につつまれる。

とにかくWiFiの効いた場所ではスマホに夢中。観光地に行っても、ダルそうな表情をしていて、楽しんでいるのかどうかが分からない。今までは、四人で同じものを見て、同じ体験をして、同じように喜んでいたものだ。そんな数年前の旅行の様子が頭に浮かぶ。

長男は、ホテルでLINEを使って部活動の友達と会話をしている。かと思えば、「そこのスタバで宿題してくる」と一人出かける。「海外旅行に学校の宿題を持ってくるか!」その感覚が僕には理解できない。

次男は「一緒にもう一カ所夜市に行こうか?」の誘いに「ここで動画が見たい。唐揚げ買ってきて」の返事。一瞬私の眉間にしわが寄り妻と目が合う。妻は無言で「まあ、まあ、この子らも大人になってるんだから」と表情で訴える。

訪れる先々で、姉妹を連れたパパ・ママに目が行ってしまう。息子たちと同じような年齢の姉妹。家族仲良く楽しそうにしている。日本語もよく聞こえてくる。父親に向かって「パパ、こっち!」と明るい表情で言う娘。パパは幸せそうだ。

息子たちがこんな様子だから余計にそう感じるのだろうが、女の子を連れている家族の方が、明らかに楽しそうに見える。会話の量も全然違う。

私は、息子たちがどんな気持ちでいるのかがよくわからない。会話もほとんど妻が相手だ。

これも成長なのか?

明らかに1年半前の旅行と異なる雰囲気に、モヤモヤした気持ちを抱えながら4日間の旅行を終えた。

帰りの飛行機で隣に座る妻に「これが4人での最後の海外旅行かもしれんな」と言った。妻も同じようなことを感じていたらしく「次は2人がいいかも」と答える。

ついこの間まで存在した「子供と大人が一緒に楽しめる旅行」の時期はどうやら終わりをむかえている。僕の家族が新しいフェーズに入っていることは確かなようだ。では、これから先4人で一緒に楽しむ旅行はあるのだろうか。

息子たちが生まれる前に想像した、あの安浦刑事とエリとユカの関係。刑事を僕に、二人の娘を成長した息子たちに置き換えて想像することは、どうしてもできない。ただでさえ、親との会話、特に父親とのそれは減少の一途だ。成人して独り立ちしたら、もう家に帰ってこないような勢いを感じる。

あるとすれば、僕がそうだったように、息子たちが自分の家族を持った後の三世代揃った旅行なのかもしれない。還暦や古希、そういう機会の旅行。しかしその時は、もう今の家族ではない。

時の経過の速さ、今この瞬間を生きる貴重さを感じさせられる。と同時に、人生の一時期に持つことができた、楽しい家族旅行のありがたさが身に染みる。

「久しぶりの旅行だったのに、子供たちは楽しくなさそうだったな。来年の旅行はどうする?」旅行から数日してそう言う僕に妻は「そうでもないみたいよ」。

長男は初めての海外が刺激的だったらしく「このパスポートの期限が切れる前に、スタンプでいっぱいにする!」と言っていたらしい。

次男は、旅行以来、妻との会話にやたらと台湾が登場するらしい。飛行機嫌いの彼は、普段から「海外旅行に行きたくない」と公言しているが、「アメリカと台湾は別」と妻に伝えていた。

「どうしてその気持ちを、僕に素直に見せてくれないのだ!」と言いたくなる。結局は、今回の旅行も息子たちにとって意味のあるものだったのだ。しかし、僕は息子たちからそれを感じ取ることはできなかった。

「これが息子たちの成長なのかもしれない」僕はそう思った。同時に「父親と息子の関係はこんなものかもしれない」とも。

そもそも、成長した子供たちと楽しそうに話をする親の姿を勝手に想像したのは僕だ。しかもモデルは安浦刑事と二人の娘。男と女は違うと分かってはいたものの、心のどこかで自分の息子たちにそれを当てはめようとしていたのだろう。

結局、息子たちとの関係に対しては、妻がいい思いをする役割かもしれない。そういえば、僕も母親と比べ父親とは話が弾まない。会話を続けるには、お酒の力を借りることになる。

しばらく何も言わずに、息子たちの成長を見守ろうと思った。無愛想でもダルそうにしていてもいいから、また旅行を企画してみる。安浦家とは違い華やかさや明るさはないかもしれないが、そのうち今とは違った父親と息子たちのとの関係ができるだろう。成人した後も、お酒の力を借りれば、何とかなりそうな気がする。

なくなりつつあるけど素敵な風習

お酒をご馳走になった

今日は木曜日。仕事が終わり、いつもの立ち飲みへ行く。

店内には客が3~4人。その中に郵便局勤務のK君がいた。彼は、この店の常連で私と仲が良いWさんに連れられて来るうち、一人で店へ来るようになった新たな常連客。そのうち、私とも知り合いになった。

15分ほど一緒に飲んでいると、K君は店主から一升瓶を受け取り、店内のお客さんに向かって、

「よろしかったら、このお酒を一緒に飲んでいただけませんか」

理由を聞く。彼は今まで非正規雇用で働いていて、この度郵便局に正式採用された。先輩のWさんが、お祝いのお酒を一本店に入れたそうだ。

今日、K君が店に来たので、店主がそのことを彼に伝え、その場にいた皆で祝杯を挙げるという流れになった。

K君がWさんに電話する。「ありがとうございます。…… 今日皆さんでいただいていいですか?」

「俺が来るまで待て」などと、ケチなことをいうWさんではない。その場で乾杯、一杯ずつ祝い酒を味わい、残りはこれから来るお客さんのために取っておかれた。

私は「久しぶりにいいもの見たな」と温かい気持ちになった。

知り合いの吉事に何かを送り、その何かが本人だけではなく周りにいる人、さらに見知らぬ人にまで伝わっていく。考えるとワクワクするようなこの「恩送り」の風習、私の周りで無くなりつつある。

先輩とサシ飲み 3つのパターン

恩送りの一番わかりやすい例が、先輩に誘われて飲みに行くことである。予め計画された飲み会ではなく、普段、何かあった時「ちょっと行って、話しようか?」という状況。

職場の先輩が私に声をかける。「今日、軽くいこか?」駅へ向かう途中の居酒屋で、瓶ビールを注ぎ合いながら先輩の話を聞く。気持ちがほぐれ、私の話も聞いてもらう。たこブツやホッケの塩焼きを一緒につつき、飲み物は瓶ビールから徳利へと移行、時間は瞬く間に過ぎていく。

1時間半後、よい心持ちでお勘定。

私の経験上、この先3種類の展開が存在する。飲んでいる人数や年齢構成によってさらにバリエーションは分かれるが、ここは先輩とサシで飲んで6000円の場合。

展開1:「ここはいいから、俺にまかせて」

展開2:「それじゃあ2000円だけ頂戴」

展開3:「割り勘でいこうか」

殆どの場合、展開1か2になるが、たまに3の場合がある。皆さんいろいろと懐事情もあるけれど、飲みトークの内容が説教や自慢話の後の割り勘は、結構酔いが醒めてしまう。私はこれをS&W(説教&割り勘)と呼ぶ。

展開1の場合「ここはいいから」と言われても、こちらも大人、「私も払いますよ」と一度は言ってみる。そんな時、先輩からかなりの確率で出てくる言葉がある。それは、

「この分は、君が上になったら後輩にしてあげて。俺もそうしてもらったから。」

この先輩も若き日、その先輩からプレゼントを受け取っていたのである。そして、”先輩の先輩””を直接知らない私が、今度はその恩を受け取る。

私も働き始めて20数年が経ち、年上と比べて下と飲みに行くことの方が多くなった。さすがに後輩5人を連れて飲んだ後「ここはすべて俺が…」とはいかないが、こちらが誘ってサシで飲む時は、私が勘定を持つことにしている。

そして、礼を言われたら、ほろ酔い気分の私は後輩に、私が先輩から受け取ったあの言葉を渡す。「自分が間接的に受け取ったお金が、時間と人をずらしながらつながっていく」なかなか楽しい気分になる。

時代の変化と共に消滅するのか

このちょっとした「恩送り」の習慣、お酒に関して言えばずいぶん減ったと思う。

まず、職場の人間と飲みに行くことが少なくなった。送別会や忘年会といった予め計画された会はあるが、突発的なものは減った。その日の終わりごろ、少し話を聞いてもらいたかったり、気持ちをリセットしたい時、サッと目が合って「ちょっと行こか?」の会。小1時間ほど飲んで話して「じゃあ明日」の会。

こういった、少人数の突発的で後を引かない飲み会は「恩送り」をしやすい。

今は時代が変わり、後輩とのお酒は、誘い方によっては”パワハラ”と呼ばれてしまう。何軒もハシゴして、終電まで続くような会は私も嫌いだが、このパッと行って、チャッと飲んで、シュッと気分転換できる会、仕事の効率と人間関係のクオリティーをあげるのに有効だと思うのだが。

そういえば、上司もそのまま帰宅することが多くなったと感じる。なかなか給料が上がらないこととも関係しているのかもしれない。

仲間としての連帯意識、個人間の付き合いが減少していることも「恩送り」をする機会を減らしているのかもしれない。

人間は迷惑をかけたりかけられたり、祝福したりされたりしながら生きてきたと思うのだが、今はこの「お互い様」がなくなりつつあると感じる。恩を送ったり送られたり。これには、いろいろ気を使って煩わしい部分もあるが、自分を誰かが見守ってくれているという安心感は、それ以上のものだと思うのだが。

今日、WさんからK君を通じていただいた酒、おいしかった。今度はK君がまだ見ぬ後輩のために、この店にお酒を入れるところを見てみたい。そんな文化、消えつつあるが、残ってほしいし、少なくとも私が関わる部分では残していこう。

車内で何しよう?

親孝行ドライブ

妻の両親は共に80歳を超え、現在は2人で暮らしている。義理の父は免許を返納し、買い物はもっぱらバスに乗って近くのスーパーまで出かける。

二人ともスマホやパソコンを使って注文し、宅配してもらうようなリテラシーは持ち合わせていなく、二人で抱えることができる量が、1度の買い物の限界になる。そして、最近義理の母は歩くことが億劫になってきた。

以上のような状況の中、義理の息子である私の出番がやってくる。

ペットボトルのお茶など、重い荷物を持っていき、買い物に付き合い、そして、お茶を飲みながらしばらくお話をする。

片道約2時間半、私は月1度のペースで妻の両親が住む街へ一人車を走らせる。普段は電車かバイクの私が、車を運転する数少ない場面。このルーティーンを始めて2年になる。妻は家にいて子供の世話。ここの所、私は妻よりもはるかに多く、義理の父母に会っている。

月に一度の往復5時間の車内の過ごし方を考えてみる。モヤモヤの私が抱える心の闇が見えてくる。

語学の泥沼から離れられない

一時期に比べると大分数を減らしたものの、それでも家には3百枚以上のCDがある。主にヘヴィーメタルやハードロックだ。購入後数回しか聞いていないものもかなりある。

10代終わりから、30代前半にかけて夢中になった音楽。今でも聴くと、若き日の気持ちが蘇ってくる。往復5時間のドライブは、これらのCDを聴く絶好の機会。6~7枚は流すことができる時間だ。多くの人は好きな音楽を楽しみながら運転するだろう。

でも、これが私にはできない。聴きたい気持はある。でもそれ以上に、私を追い立ててくるものがある。

語学である。

英語、イタリア語、台湾語の3か国語を勉強している。英語は仕事で使うが、他の2つは殆ど使用する機会がない。

語学をやめてしまえばどれほど時間ができるか、気持ちがどんなに解放されるか、時々そんなことを思う。しかし、今まで積み重ねてきたものを捨ててしまう勇気がどうしても出てこない。

スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学での有名なスピーチ。ドロップアウト後も大学で受講していたカリグラフィーの授業が、予期せずその後のマックの美しいフォントにつながった。その時はわからないが、振り返ってみれば、ドットはつながっていたという話。

私にとってこれらの語学も、いつかつながるはずのドット、そんな予感がする。今はそれはわからない。時間と労力を消費しただけで、全くの無駄に終わる可能性も大きいだろう。いつ、どんな形でドットがつながっていくのか、はっきりと想像することができない。しかし、それらの語学を用いながら、モヤモヤではない人生を謳歌している漠然としたイメージはある。

そのイメージの縛りから離れなれない私は、車に乗るとすぐに語学CDをプレイヤーに挿入する。本当は気楽に音楽でも聴いていたい。どうして自分の心の声に従った行動ができないのだろう。

20年近く前の音声

車内のCDケースには、妻や子供たちの好きなアーティストに混じって、私の語学CDがポツポツと。前回行った時は、「ビジネス英語」2001年4月号と「イタリア語講座応用編」2002年5月号。

今から約20年前に購入したCD。どちらもNHK第2放送のラジオ講座のものだ。大学を出て、就職をし、まだ駆け出しだったあの頃にはすでに語学の沼に足をとられていた。

「仕事は忙しい、でも語学を続けなければならない」「今月は勉強できなかった。せもて音声教材だけでも買っておこう」断片的に買われたラジオ講座のCDは、当時の私の置かれていた状態を表している。

表面が傷だらけのCDだが、問題なく再生できる。スピーカーから杉田敏さんの声が聞こえてくる。1944年、東京神田の生まれ。録音当時は御年50代後半、当たり前だが、今と比べて明らかに声が若い。

大学を卒業する直前、「やさしいビジネス英語」に出会い、杉田さんが好きになった。派手さはなく、地味に、落ち着いて、淡々と講義が進んでいく。私のペースに合っていた。トピックが信じられないくらい面白く示唆に富んでいる。

あれから四半世紀、身を引かれていた時期もあったが、今でも週3回のビジネス英語で、ラジオからあの声を聞くことができる。内容も、毎月テキストが出るのが待ち遠しいほど刺激的だ。しかし、リスニングから理解したいので、グッと我慢して会話文は放送まで見ないようにしている。

運転しながら19年前の放送内容を聞く。「.com」という言葉に新鮮味があった時代。懐かしい。ネットビジネスの出現でドレスコードが変化した、そのような内容だ。

難易度で言えば、その当時は少し背伸びをしていた。今は、内容がストレスなくスッと頭に入ってくる。普段は実感しにくいが、こうしたことを体験すると、私の英語力は伸びているのだと思う。

聞きながら、ひたすらシャドーイングしていく。すれ違う車の人々は、私がテンポの速い曲を歌いながら運転していると思うだろう。ラップとかヒップホップのような。そんなことはない。スピーカーから流れてくる英語を、ひたすら自分の口で再生しているのだ。CDが1枚終わるころには、頬の筋肉が疲労し、口がうまく回らなくなる。なるほど、英語と日本語の発音は、使う部位が違う。

CDが1枚終わったら。少し休憩して、頬の筋肉を休ませる。そして、シャドーイング再開。

帰りは言語を変えて

2リットル6本入りの麦茶二箱をドラッグストアで買い、義理の父母の家へ訪問する。妻からあずかった食品や、途中私が買ったお土産を添えて渡す。ホームセンターやスーパーへ連れて行き、買い物を手伝う。その後家に戻り、お茶を飲みながら1時間ほど話をする。

毎度のことだが、すごく感謝をされる。私の好きな銘柄のお酒を、必ずお土産にくれる。妻と付き合い始めて、初めてこの父母に会ったのは、そういえば、先ほど聞いたビジネス英語のCDが発売されたころだ。

有難いことに、義理の父母ともこうしていい関係を続けることができている。実の父母とも関係は良好だ。多くの人が悩む部分で、私は楽をさせてもらっている。どうして、普段の生活でモヤモヤを感じてばかりなのか、わからなくて悔しくてまたモヤモヤしてくる。

バックミラーを見ると、義理の父母は家の外で私の方を見続けている。いつも視界から消えるまで見送ってくれる。

帰り道は言語を変える。イタリア語講座応用編。テキストと同様、CDは、基礎編と応用編のセットとなっていて、切り離して売られることはない。買った当時はイタリア語を始めて間もなく、基礎編が目的で購入した。応用編は何を言っているのか全く分からなかった。

今は応用編をメインで聞く。さすがにイタリア語のシャドーイングは難しい。キーフレーズのみをリピートする。当時NHKで大活躍をしたイタリア人、ダリオ・ポニッシの張りのある表現力豊かな声が心地よい。こんなイタリア語が話せれたらと、あこがれる存在である。

CDが3周し、家が近付いてきた。今日も、英語とイタリア語を2時間ずつ学習できた。

しかし、私の心に巣食うこの空虚な気持ち。どれだけ学習しても満たされない感覚は何なのだろう。常に何かが欠けている気がして、もっと頑張らないと、と追いまわされている。

これが語学の沼なのか。その沼にはまっているとしても、もう少しうまく付き合うことができないものなのだろうか。抱えなくてよいはずのモヤモヤを今日も抱える。

とりあえず、昨年立てた目標、2020年のうちに英検1級とイタリア語検定2級の取得、これを達成するまでは、晴れない心のままであってもこのまま学習を続けよう。取得後、同じ気持ちなら、それはそれでまた考える。

来月も再来月も、義理の両親のもとへ向かう。車内での過ごし方、変わらないと思う。沼にはまっているなら、それはそれで、気分良く過ごせる工夫をしてみよう。

片づけをすると心が楽になりそうな気がする

妻の買ってきた本

去年の秋ごろ、妻がよく「ブックオフに行きたい」と言っていた。

「なんで?」と聞くと、「片付けの本が欲しい」とのこと。なんでも近藤麻理恵という片付け界のカリスマがいて、彼女のやり方で片付けると人生まで変わるらしい。妻は、TV番組でそのことを知り、彼女の本を探していたのだ。

一瞬「ホンマかいなー。片付けで俺のモヤモヤも無くなるんか?」と思うと同時に「なんで書店かアマゾンで買わへんの」と言おうとしたが、彼女には彼女の流儀がある。彼女の中では、本は中古で買うべきものなのだろう。

普段、ほとんど読書をしない私の妻だが、時々こちらが「オッ」と思うよなう本を、いいタイミングで読んでいることがある。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」や、カミュの「異邦人」などは、妻が読んでいるのを見て私が手に取り、そこに書かれていたことが当時の私の心に必要な栄養素となった。

そんな妻が、今度は片付けの本を読もうとしているのも、何かしら私に影響を与えることかもしれない。

しばらくして、リビングの本棚に、近藤麻理恵著「人生がときめく片づけの魔法」が並んだ。妻はいくつかリサイクルショップを周り、定価1400円の本を500円で購入していた。

「その本を探すために費やした時間とガソリン代を考えると割に合わない。すぐに新品を買った方がよい。」これは私の考え。妻は、安い食材や日用品があると、平気で時間とガソリン代を使って遠くまで買い物に行く。この辺りの感覚、私と妻はずっと交わらないままだ。私は何も言わない。

そのように、時間とエネルギーと引き換えに安く手に入れた本も、他の本に埋もれたまま冬が来て、新年を迎えた。妻も私も、まだその本の表紙もめくっていなかった。

「家を片付けて、ときめく人生を送りたいんだろ!」なかなか年末の大掃除を始めようとしない妻への言葉が喉元まで出かかったが、グッと飲み込んだ。子育てや家事など二人で協力して行う領域はいくつかあるが、家の整理に関しては妻が主導権を持ちたい領域。そこの見極めをしっかりと行わないと、私の立ち飲み・バイク・サウナ・鉄道などに影響を及ぼす。

近藤麻理恵=konmari

買った本のことなど忘れたまま年を越し、普通に仕事が始まる。1月中旬のある日、オーストラリア出身の同僚童君(彼のニックネーム)と英語でしゃべっていると、彼の方から近藤麻理恵の名前が出てきた。

私は、普段ほとんどテレビを見ない。定期的に見るのは、ニュース、大相撲、タモリ倶楽部ぐらい。最近では再放送の「おしん」。偏っている。だから、知っているのが当たり前と思われる有名人や芸能人が分からない。とにかく顔と名前が一致しない。職場の若者との会話は芸能分野では全く成立しない。最近、子供たちの無知な父親を見る視線が辛い。妻は、もうあきらめの境地に達しているが。

私の心が柔軟で、普通の人が見ているものを見て楽しみ、普通の人が知っている有名人の話題で話ができれば、私のモヤモヤも軽減されているといつも思う。でも、TVを見るのとてもつらい。ラジオの方がまだまし。どうしてだろう。

話を童君との会話に戻します。

どうやら近藤麻理恵さんは、普通にTVを見る人なら知っていて当然の有名人のようだ。芸能人ではないが、主婦に影響力を持つ、片付け界のインフルエンサーらしい。

実際に、オーストラリア人である童君までも知っていた。彼によると、彼女は日本だけじゃなく世界中に影響力を持つ人で、片付けの著書も多くの言語に翻訳されているそうだ。

彼女はkonmariと呼ばれていて、その名前は=”片づける”という意味の英語の動詞としても使われるという。ずっと英語を勉強しているのに知らなかった。

ちなみに日本では「近藤さん」はかなりの確率であだ名が「コンちゃん」になる、そんな話を童君にしながら、今日帰ったらkonmariと本で対面しようと心に誓った。

読みながらいい予感がしてきた

「家の中を劇的に片付けると、その人の考え方や生き方、そして人生までが劇的に変わってしまう」

「人生で何が必要で何がいらないか、何をやるべきで何をやめるべきかが、はっきりとわかるようになるのです」

片づけのテクニックに力点を置いた本かと思っていたら、「はじめに」から人生について飛ばしてくる。

「ホンマかー」と思いながらも、今までの人生を変えること、というか、今までの人生でいいからそれを前向きに受け入れたい私は、思わず前のめりになってしまう。

本を読み進めていく。どんどん読んでいく。

まだ若いのに、1つの分野を極めた彼女の熱がジリジリと伝わってくる。片付けの苦手な私には腑に落ちない部分もあるが、本全体を通じて他人・自分を問わず、幸福な気持ちで生きてほしい、生きたいという気持ちが伝わってくる。すごく好感が持てる。

効率よく物を収納する方法など書かれていない。ミニマリストのように極限まで物をそぎ落とす技術が書かれているわけではない。

この本で一番大切なことは、生き方を考えること、そのために必要なものを考えること、そして、自分に所属するものの声をいかにして聴くのかということ。

読んでいて、猛烈に片付けがしたくなってきた。今まで数限りなく、片づけをしてはすぐに元通り、を繰り返してきたが、今度はうまくいきそうな気がする。

終わりの方に書かれていた一言が、鋭く心に突き刺さり、同時に私に救いの手を差し伸べてくてれいるような気がした。

しかし結局、捨てられない原因を突き詰めていくと、じつは二つしかありません。それは「過去に対する執着」と「未来に対する不安」。

人生がときめく片づけの魔法 (近藤麻理恵)P238

「捨てられない」の部分を「モヤモヤの」に置き換えたら、見事に私のことを言っているようだ。過去への執着と未来への不安、まずは物から乗り越えてやる、そんな気持ちで次の休日を待った。

まずは衣類から

konmari流では、片付けは「モノ別」に。そして、最初に行うのは衣類。

2月のある休日、私はすべての衣類を和室の畳の上に並べた。寝室のウォークインクローゼットから、洗面所の棚から、リビング横の衣装ケースから、自分が着ている下着とジャージ以外の衣類を一カ所に集める。

狭い和室は、まるで冬の雪国のようになった。厚さ20センチほどの雪ならぬ衣類が、畳の表面を覆う。平凡な一人の男が、週に5日仕事に行き、2日間休日を過ごす。仕事用のスーツ3~4着×2シーズン、シャツ5~6枚、防寒具、休日用の数着、バイク用の上下、何枚かの下着、パジャマ。理屈で言えばこの程度で一通りの日常生活を送ることができる。

しかし、目の前にあるこの光景は何なんだ。生まれて初めて見る、自分に所属する衣類の全て。同じ色目のカーディガンやセーター。絶対に着ることのない柄のTシャツ。ウェストが入らないズボン。意識的に視界の外に追いやられたまま、何年間も過ごしてきた衣類が、蛍光灯の光の下にさらされる。

konnmari流に従って、作業を続ける。一枚一枚直接手で服を持ち、服の声を聞く。その時自分の心が「ときめく」かどうかが判断基準。とは言っても、すべてときめかなかったら、私は裸で過ごさなくてはならない。

そのあたりの塩梅を加味しながら服を分けていく。1時間もしないうちに大きなゴミ袋4枚分の衣類とお別れすることになった。私は、それらに「ありがとうございました」と声に出して言う。中には一度も袖を通さなかった服もある。服を無駄にしてしまったことを反省、でも前を向く。

残った服の居場所を全て決めてあげる。かなり量が減ったので、すんなりと位置が決まった。

1週間経って…

仕事から帰るとスーツやコート・インナーを、とりあえず空いているスペースにつるしていた私。スペースがない場合は、ハンガーに掛かっていた衣類を別の場所(椅子の背もたれなど)に移し、無理やりスペースを作っていた。

konmari式片付けの後、一番大きく変わったのは、仕事から帰った後、このスペースを確保する作業をしなくてよくなったこと。服を決めた住所に戻すだけ。洗濯した服も同じ。

場所が決まっていることが、こんなに楽なのかと実感している。要は、今までは、生活スタイルに対して服が多すぎたのだ。

そして、場所決めをして分かったもう一つのメリット。それは、その場所にある服がダメになった時のみ、新しい服を買えばよい、と気づけたこと。

今までは、いつも「服が無い」という欠乏感に悩まされていた。本当はありすぎるのに、全体が見えないから、一度コーディネイトがうまくいかなかっただけで「服が足りない」という気持ちになり、闇雲に服を買ってしまっていた。

服の住所が決まれば、そこが空き家になったら補充するだけ。そんな考え方ができる。仏教で言う「足るを知る」という状態。今までの私は、水を飲み続けても喉の渇きが癒されない「渇望」状態だった。これでは、悟りはひらけない。

konmari流のおかげで、少しモヤモヤする要素が減ったと思う。衣類の次は、靴、本、書類と進めていこうかと思う。

「過去に対する執着」と「未来に対する不安」。片付けができなかったということは、これらと対面することを恐れていたこと。第1歩を踏み出してみると、これらと勝負することも、まんざら悪くもない。今はそんな気持ちがしている。

食料の未体験ゾーンで葛藤

夕方6時半の茎ワカメ

1月のある休日の夕方、妻が買い物から帰ってきた。買い物袋から取り出される数パックの茎ワカメを見る。今年も茎ワカメの旬がやってきた。が、茎ワカメを魚屋に買いに行き佃煮にするのは、毎年僕の仕事。

「今年は茎ワカメの佃煮作ってくれるの?」と尋ねる僕に、

「本当は買うつもりなかったけど、思わず買っちゃったの」と妻。

「思わず買った」理由を妻が話してくれた。

行きつけのスーパーの鮮魚コーナーを通った時、その日はいつもと比べてあり得ないぐらいの商品が売れ残っていた。数時間後に廃棄される運命のそれらの魚介類を見ていると、やるせない気持ちになった。もう晩御飯のおかずは作っていたので、せめて佃煮にできる茎ワカメを買って帰った。

以上のような流れであった。

スーパーで私も時々思う。

「今ここにある食料の中で、実際に人の口に入るのはどれだけなんだろう?」

そしてこんなことも思う。

「ここにある食料品の中で、動植物の死体ではないものは、何があるのだろう?」

植物に対して死体という言葉は普通使わないが、命を奪われた状態であることには変わりないので、この記事では使わせてもらう。

想像力を働かせてみる。肉・魚・野菜はもちろん、かまぼこなどの加工品、麺類、乾物、ジュース、缶詰、お菓子。すべてが動植物に由来している。結局思いついたものは、水、塩、にがり、この3つ。特殊なものとして金箔。

冷静に考えると当たり前のことであるが、スーパーは動植物の死体のかたまりであり、私たちはそれらを食して命をつないでいる。

日本語で食べる前の「いただきます」は、「命いただきます」のことだと聞いたことがあるが、まさにその通りで、私たちは、水とミネラル以外は、命しか食べていないといえる。

フードロス

昨今、フードロスが問題になっている。問題になるということは、フードロスできる環境にあるということ。熱帯雨林でも、サバンナでも、海の中でもフードロスはあり得ない、人間がいない限り。人間以外の動物は必要以上の食料を確保しない。クジラなどの巨大な動物が死んだ場合も、時間をかけてどこかに回収されていき、次の生き物の栄養素となる。焼却炉で焼いたりしない。

命を奪われ、食べられる状態になりながら、食べられずに廃棄される食品。命の連鎖を止める行為、そう考えると罰があたりそうで不安になるが、商品を売るためにはそんなことは考慮されない。

フードロスに関して最近よく取り上げられる食品、恵方巻。もともと関西の習慣だったらしいが、全国チェーンのスーパーとコンビニに乗っかって、この国の節分行事の一つとなった。求めてくる客に「売り切れです」と言う方が、廃棄するほど作り過ぎるより「ビジネス的」にはダメージが大きいという売り手の判断。毎年、恵方巻、つまり鮭や穴子やキュウリやノリや稲の死骸は、他の生命体に回収されることなく焼却炉へ送られていく。

これではまずいと、今年は「予約販売のみ」や「売り切れの可能性があり」という文言が目についた。売り手も変わろうとしている。が、ここである疑問が湧き上がる。この変化は、恵方巻の廃棄が「ビジネス的に」マイナスのイメージを与えるため行っているのか、それとも、命をつなぐことない殺生に禁忌を犯しているという恐怖を感じてのものなのか。願わくば後者であってほしい。

日本全国で毎日どれだけの食料が捨てられているのだろう。宴会や忘年会の後、テーブルに残る料理の数々。コンビニのレジの後ろで廃棄を待つ賞味期限切れの弁当。

レストランや小売店だけではない。

冷蔵庫の野菜ケースの奥、パントリーの一番手が届きにくい場所に置かれたもの、これらの食品は大抵食べ物としての役割を果たすことなく捨てられていく。

捨てられた食品は、燃えるごみとして焼却炉で焼かれるか、または埋め立てられるか。アメリカやヨーロッパでは、ゴミは焼かれずに埋め立てられると聞いたことがある。それら有機物は数億年の後、化石燃料になる可能性がある。しかしその時、化石燃料を使う存在がそこにいるのか。

石油を使って食品が焼かれる。その石油こそ、数億年前に命を失いながら、次の生命体に回収されることなく地中に埋まった動植物の成れの果て。その命のエネルギーが、長い時を経て燃える。捨てられた命を燃やすために。

レアな時代に生きる私たち

スペイン風邪が猛威を振るった1917年、世界の人口は18億人程度であったといわれている。100年間で約4倍になった。日本の人口も、明治初頭の3千万から100年間で1億2千万に。

それまでの人類の人口増加曲線から考えると、ありえないほどの急激な人口増加。これは医療の発達と、食料生産の増加に負うところが大きい。

「明治24年に東北本線が全通した時、これで飢饉になっても餓死しなくて済む、米を積んだ救済列車がやってくるから、と東北の人は思った。」このような内容を鉄道旅行作家、宮脇俊三さんの本で読んだ記憶がある。

東北に限らずに食料不足で餓死することは、明治になってもあり得る話だったのだろう。

明治どころか昭和でもそうだ。何しろ太平洋戦争を経験したのだ。戦争中はともかく、戦後も食料不足が続き、国レベルで栄養失調を経験し、それにより多くが命を落とした。

私の父方の祖父母は共に大正時代に生まれ、若き日に戦争を経験した。祖父の戦争話は、半分は飢えの体験談だった。「もう腹が減って、減ってなあ~」30年以上前に聞いた祖父の声が昨日のことのように浮かび上がってくる。

そんな祖父母と暮らしていた子供時代、二人が食べ残しの皿を冷蔵庫に入れることが嫌だった。「あと少しなのだから、食べるか捨てればいいのに」よくそう思った。結局残り物は、腐るまで冷蔵庫の中に。

冷蔵庫の中だけではない。祖父母の部屋の引き出しや紙の箱の中は、いつのものかわからないお菓子やドライフルーツで溢れていた。

とにかく捨てられないのだ。飢餓を体験した記憶が、食料を捨てる手を止めさせていた。食べきれない量の食べ物があっても、それが食べ物である限り捨てることができない。腐敗してカビが生え、これは食料ではないという段階になり、はじめて手放すことができた。

父は戦後生まれで飢餓状態を経験していない。しかし、そんな祖父母に育てられたせいか食べ物を粗末にすることはない。TVで食べ物を無駄にするような番組を見ると、露骨に嫌な顔をしていた。母親もその手の番組を嫌っていた。

父母の世代は、飢えで周りの人を無くした経験はないが、店で売られているものの中で、食品は他の生活用品とは持つ意味が違い「いい加減に扱うことは許されない」という意識があると思う。

そして私たちの世代。食べ物の大切さは分かるが、それは身を賭して得た感覚ではなく、頭で教わった知識。途上国の痩せた子供たちの画像に涙を流すことはできるが、その後の食事のまずさに不満を口にこぼすことができる、そんな世代。

そんな私も今、次の世代の子育てを行っている。飢えることの恐怖、食べられることへの感謝の気持ちは、世代ごとに失われている。飢餓状態がベースであった人間の歴史の中で、初めて登場している世代だと思う。

気持ちの整理がつかない

物の価値は時代背景によって異なる。食料を生産し過ぎて廃棄してしまうことは、良いことなのか、悪いこととは言わないまでも、仕方のないことなのか。

考えてみれば、経済は必要以上のものを生産し、人々の欲望を喚起し続けることで拡大を続けてきた。「これが欲しい」のレベルを上げ続け、ものとお金を増やし続けることの上に食品ロスは存在する。そして私も、今その豊かな経済活動の渦の中にどっぷりと浸かっている。

長い人間の歴史を考えると、食品を大量に廃棄することができるのは、極めて例外的な時代だと思う。そんな時代に生を受けた私たちは幸運である。それはわかっていても私の中から消えないモヤモヤ。それは、植物にしろ動物にしろ、有機体が他の生命によって回収されないまま消滅してしまうことの不自然さに起因していると思う。

気持の整理がうまくつかない。余った食料を、すべて肥料か動物の餌にしてしまう、これなら心が受け入れられそうだ。しかし、そんな都合のいいことは、効率が最優先させられる現代では無理な話だ。では、最初から必要な量だけ生産する、これも多様な選択肢の自由を享受している世界から見れば後退に等しい。

飢餓を経験した身内の話を直接聞いた最後の世代である私の心は、この豊か過ぎる人類未体験の時代で葛藤している。

シアトルのLRT(後編)

Sound Transit3の続き

長くなりそうだったので前後編に分けた。

去年シアトルに行き、次は2021年以降に再訪問しようと決めている。→ その理由はシアトルのLRTに「やる気」を感じるから。→ そのやる気を感じる根拠がSound Transit3。

Transit3ということは、2や1もありそう。

調べてみた。あった。最初の計画はSound Moveとよばれ1996年に、Sound Transit2は2008年に設定され、郡をまたいだバス路線や、貨物鉄道の路線を借りた通勤列車など、Puget Sound(ピュージェット湾)周辺の3つの郡から中心都市シアトルへの利便性向上を目指し、公共交通網を整備してきた。

シアトル市内と空港を結ぶLRTも、その中で計画・建設され、2009年に開業した。現在、路線は1路線。シアトル市内中心とシータック空港(シアトル・タコマの両都市を合わせた地名)とを、約30分で結んでいる。

「空港へ乗り入れる鉄道」と聞くと、関西空港駅や成田空港駅を連想してしまうが、それらの駅に比べるとずっと存在感が薄い。地方都市の宮崎空港駅や仙台空港駅に比べてもそうだ。拍子抜けしてしまう。

ターミナルビルから、あまり人通りの多いとは言えない通路を10分ほど歩き、駅のコンコースへ。大都市の空港最寄り駅なのに、自販機が3台しかない。人の数も、関空や成田のことを思うとまばら。ポートライナーの神戸空港駅ぐらいだろうか。

ホームからは巨大な立体駐車場と、空港へ向かう車で渋滞する幅広い道路が見える。アメリカの自動車の存在感の大きさを感じさせられる。

しかし、それほど目立たないものの、この状況にLRTが一矢を放ったのは確実だ。環境問題への関心と、増え続けるシアトル都市圏の人口。Sound Moveから約10年で都心の一部を除き全線立体交差、パークアンドライド用の立体駐車場も備える近代的なLRTができ上った。日本はその間、掛け声だけでほとんど何も変わっていない。それを考えると、日本と比べて、空港駅に人が少なくても「これからがんばれよ」と励ましたくなる。

計画・建設は続いて行く

Sound Transit3完成予想図
Sound Transit完成予想図

分かりにくい図であるが、Sound Transit3が計画通りに進むと、こんな路線図になる。郡を超えた急行バスや、貨物路線利用の通勤列車も図に入っているが、ピンクと赤の部分がLRTになる。

このうち開業しているのはわずか1路線だが、次の路線の建設が着々と進んでいる。

2021年の予想
2021年の予想図

縦の路線から右に伸びている部分、ここが現在建設中の部分である。シアトル中心地と、東側にある都市ベルビュー、さらにはレッドモンドまでを結ぶ予定。日本の感覚からすれば、それほど長そうな路線には見えないが、こちらの郊外の駅間はLRTでも信じられないくらい長い。平気で3~4キロぐらいの駅間もある。

さて、このベルビューへの路線、最大の見どころとやる気を感じさせる部分は、ワシントン湖に架かるフローティングブリッジ(浮き橋)を通ることである。

浮き橋をネタに建設状況を確認

シアトルとベルビューの間にはワシントン湖が横たわり、そこには2本の長大な橋が東西に架かり両都市を結んでいる。もし、これらの橋が無ければ、一見して、直線距離の5倍ぐらい南か北へ大回りする必要がある。

その重要な2本の橋、その名の通りワシントン湖に浮いている。巨大なコンクリートの箱をつなぎ合わせて浮かせているらしい。見た目にもぴったりと水面に張り付いているようだ。

出張の折、その日の予定を終え、向こうのスタッフが「どこか行きたいところはないか?」と聞いてきた。他の同僚は黙っている。私の鉄心(鉄道好きの心)が騒ぎ出す。

私:「なんか有名な浮き橋があるって聞いたんだけど、この近く?」

スタッフ:「よく知っているなあ。長い方の浮き橋に行ってみようか。」

私:(まずい。LRTが建設中なのはマーサー島を経由する短い方)

 「マーサー島も見てみたいな。湖の中の島っていいね。」

我々を乗せた車は、私の本心を見透かされることなく、南側のフローティングブリッジへ向かった。

片道4車線もあるのに渋滞している。この混み合う自動車専用道路の1車線をつぶしてLRTを建設しようというのだ。アメリカは本当に変わった。私は心に熱いものがこみ上げて来た。

素晴らしい湖の景色の反対側、つまり中央分離帯の方に私の視線はくぎ付けだった。レールがすでに敷設されている部分もある。今にもLRTがやってきそうだ。浮き橋だけあって、揺れを吸収する設備がレールにあるのだろうか。興味は尽きない。

あと2年もすればここにLRTが通る。シアトルダウンタウンをトンネルで抜け、高層ビルを背にしてスタジアム付近で東へ分岐。ワシントン湖との間の丘をもう一度トンネルで抜けると、フローティングブリッジ。前方にはマーサー島とベルヴューの高層ビル街、そう思うとワクワクしてくる。それだけでもシアトルを再訪する理由になる。

ダウンタウンではトンネルを走行
ダウンタウンでは地下を走行

日本が直面する問題に思いが至る

シアトルを始めとして、ポートランド、ロサンゼルスなど全米の各地で公共交通、特にLRTが見直されている。アメリカだけではない。この動きの中心はヨーロッパで、その嚆矢は四半世紀以上前に開業したフランス・ストラスブールとドイツ・フライブルグのLRTであったと記憶している。

平均寿命が延びる中で交通弱者の移動をどう確保していくのか、これらは政府や地方自治体の大きな課題である。道路の維持管理に税金が投入されるように、本来公共交通は、利益が出る・出ないということのみで語られる性質のものではない。

実際にSound Transitの資料を見ると、歳入における運賃収入の割合は10%を切っている。公共交通とは字の通り、ごみ収集や上下水道などと同じく、人々が生活するうえで享受すべき基本的な公共サービスの1つなのだ。

しかしながら、現在の日本では、公共交通を「(金銭的な)利益を生み出すべき装置」とみられる傾向が強い。これは、私企業が数多くの鉄道やバスを運営する日本独特の状況に起因しているかもしれない。

しかし、国の成長が止まり、人口が減少していく中、このモデルはいずれ限界を迎える時が来るだろうし、実際に毎年多くのバス路線や鉄道が廃止になっている。

大きすぎる政府は不安に思うが、何もかも規制緩和を行い、自由競争の名の元に消耗戦を続けていくのは、さらに不安に感じられる。

バリバリの車社会、アメリカ・シアトルで今回のような経験ができて嬉しかった。それは、Sound Transitから「みんなから集めたお金をより立場の弱い人につかってあげよう」「少し便利さを我慢して、長い目で環境のことも考えようや」というメッセージを僕が感じたからだろう。Sound Transitの計画の実行は住民投票によって決定される。ということは、ここにはそういう他人を思いやれる人々が一定数住んでいるということ。

ベルヴューへの路線が開通する2021年以降、この街がどう変わっていくのか再訪して見てみたいと思う。

シアトルのLRT(前編)

先輩との会話

令和元年末のある一日。その日は午後から先輩のB氏と一緒に仕事をした。B氏とは昨年9月にシアトルへ一緒に出張をした間柄。部署は異なるが、たまに同じ仕事に携わることもある。B氏とは性格がかなり異なるが、そこそこ気が合い、話も弾む。そして僕の仕事ぶりに彼女は一目置いている、と僕の方は思っている。

そのB氏、仕事が終わり帰り際の一言。

「ORCAまだ使えるかなあ?」

ORCA(オルカ)とは、シアトル周辺の公共交通共同体が発行しているICチップの入った交通カードである。

「ORCAに有効期限はありませんけど、どうしたんですか?」

「明後日から娘とシアトル行ってくんねん。プライベートで。」

「この前行ったばっかりですやん!」

旅行好きで今まで多くの場所を訪問したB氏が、お嬢さんとのプライベート旅行の場所に選んだのは、この前行ったばかりのシアトル。よほど魅力的だったのか。

僕にとっては、先輩がORCAのことを覚えていたことが嬉しかった。

実は前回のシアトル出張の際、鉄道好きの私はどうしてもORCAを持ちたくて、空港から移動の際「普通に切符買ったら」という先輩に対し「ORCAあったら絶対便利ですから」といって買わせてしまったのだ。鉄っちゃん(鉄道好き)って本当にややこしい。

出張中、基本的には現地スタッフが車で送迎してくれたが、休日の移動では、バス・トラム・LRTを問わず乗車できるORCAは重宝した。B先輩や他の仲間はどう思っていたかわからないが、「ORCAには有効期限がないからいいじゃないか」と、相手ではなく自分を納得させる理由を探す。

「B先輩はシアトルに行くんかあ」

そう思う僕の頭に真っ先に浮かんできたのは、空港からダウンタウンまで乗ったLRTである。なぜ浮かび上がるのか?それはシアトルのLRTに「やる気」感じるからである。

ORCAのカードリーダー
ORCAのカードリーダー

初訪問前に再訪を決意

もうずいぶん長い間鉄道が好きである。情熱の度合いは別として、焦がれている期間はバイクよりもずっと長い。もの心ついた頃から好きだったといってもいいぐらいだ。

若い頃は鉄道が持つオタクなイメージを気にして、隠れキリシタンのように、人前では興味ないふりをしていた時期もあった。しかし、この10数年間で様子は大きく変わる。鉄道好きの女子「鉄子」まで現れる順風の中、鉄道は一般に広く認知される趣味となった。風向きが変わり、かつての「背徳感の中にある蜜の味」は失ってしまったが、その代わり堂々と挙動不審な行動を行えるようになった。

誤解しないでほしいが「挙動不審な行動」とは法に反して罰せられるようなものではない。好きすぎるあまりに出てしまう、鉄ちゃん以外には理解できない行動のことである。

例えば、列車を降りた後すぐに改札へ向かわないでホームの端へ。次に通過する特急列車を確認してから外へ出る。その列車がディーゼル車だと、深呼吸して排気ガスの匂いを味わったりする。

車を運転中、踏切で止まれば「ラッキー」と思い、窓を下ろして踏切の警報音と列車の走行音を味わう。

仕事帰り、一人歩きながら、突然電車のモーター音やコンプレッサー音を口ずさむ。

気持ち悪いからもうやめる。

そんな私であるから、昨年シアトルへ訪問する前にも、ある程度あちらの鉄道事情を下調べしていた。仕事で行くのだから自由に挙動不審な行動をとるわけにはいかない。しかし、移動中の車からチラリとでも列車や駅が見えたとする。その時、下知識があるとないでは心の中に浮かび上がるイメージががらりと変わってくる。どうせ行くのなら「鉄萌え」しやすい状況を作って行きたい。

幸い私は英語が少し分かるので、あちらの関係ありそうなホームページを順次サーフし、必要があればノートをとる。英語学習を続けていてよかったと思う一時である。

ある程度情報が集まってきてから私は思った。

「こちらの公共交通機関、やる気があるねえ!」

私はシアトルの地を初めて踏む前に、ここを2022年に再訪したいと思うようになっていた。さてその「やる気」とは何か。

Sound Transit 3

ニューヨークなど東部の大都市を除き、アメリカの都市圏交通は車に大きく依存している。シアトルも例外ではなく、ダウンタウンはギュッと詰まっているが、郊外はなだらかに開発されて車が交通の主役である。

しかし、昨今の環境問題に対する意識の高まり、高齢者や車を持つことのできない交通弱者救済などの理由で、公共都市交通網の整備が進められるようになった。その中で鉄道によるものをLRT=Light Rail Transitと呼ぶ。

このLRT、日本でも25年ほど前から、路面電車のある街を中心に議論になり、いくつかの導入・延伸計画も作られた。しかし、公共交通に利益を求める日本の体質もあり、富山や宇都宮といった数都市を除き、計画は一向に進まない。

私は、この件に関しては、この20数年間ずっとモヤモヤではなくイライラしている。街は郊外へ広がっていく、街の中心地の面白い店や場所がなくなる。同じような街ばかりになる。

LRTというコンセプトが注目され、ドイツをはじめとするLRT先進国への行政の視察は行われるものの、路線延長はこの4半世紀ほとんど変わらない。とにかく、日本では動きが遅い。鉄っちゃんの妄想力だけが、路線図を広げていき、現実が追い付いてくれない。

話をもとに戻す、シアトルのLRTにやる気を感じたことだった。

こちらのLRT、Sound Transitという組織によって運営されている。soundとは英語で湾・入り江のことで、シアトル一帯はPuget Saundに位置している。transitは訳しにくい英語だが、Sound Transitを強引に訳せば「湾岸交通」。

注目すべきはそのSound Transitの母体で、これはピュージェット湾周辺のPierce郡, King郡, Snohomish郡の3つの自治体が共同で運営している。ちなみにシアトルはKing郡に含まれるから、かなり広範囲の交通を担っていることがわかる。

1993年に設立されたこの組織の財源は売上税・固定資産税・自動車税から成り、その用途は地域内の市長17人とワシントン州交通長官の18人からなる委員会によって決められる。

この委員会によって2016年に決定された「第3次計画」を”Sound Transit 3″と呼ぶ。

この計画、鉄心(鉄道好きの心)を刺激し、行政の公共交通に対しての「やる気」を感じさせるのである。

(以下後編へ続く)

サウナ&大相撲

サ室内のテレビ

去年の初夏、サウナにハマり始めて以来、土日を中心にコンスタントにサ活を行っている。県外に行く機会ががあればその地のサウナに入ることにしている。この半年間で名古屋、長崎、福山、鳥取でサ活。名古屋へは伝説のサウナ「ウェルビー」に入るためだけに足を延ばした。

普段は家に近い神姫間(神戸と姫路の間)でスーパー銭湯を中心にいろいろと開拓を行っている。それなりの数はあるが、長時間サウナに入った後、なるべく車やバイクを運転したくないので、どうしても鉄道沿線の施設を利用することが多い。

そんな私のサ活であるが、何度か同じ場所に通ううち、サ室内のテレビ番組に傾向があることが分かってきた。

“サウナ&大相撲” の続きを読む

台北の夜市で思ったこと

夜市で夕食の後、別の夜市へ

台湾旅行の3日目、士林夜市で夕食を済ましホテルへ帰宅したもののまだ飲み足りない。小腹も少し空いている。

妻と子供たちはホテルのwifiを使って動画を見たりゲームをしたり。もうホテルから出ていく気配がない。「せっかく台北まで来ているのに」と口から出かかるが、グッと飲み込む。人によって楽しみ方や優先順位は違う。そしてそれらと自分の欲望との折り合いをつけながらやっていくのがよい関係を築くコツ。それは他人でも家族であっても同じだ。

台湾に来る前から気になっていた食べ物がある。小ぶりのカキを卵と小麦粉で焼く牡蠣オムレツである。台湾語で”オーアツェン”と呼ばれてる庶民的な食べ物。

前回訪台した時は仕事がらみだったため、万が一あたった時のことを考えて我慢していた。今回はプライベート、そして明日帰国のため何とかなるだろう。私は数年間待ちわびた牡蠣オムレツを求めて一人、夜の街に繰り出した。

私たちは台北の中心地のひとつ中山地区に滞在していた。日本統治時代から栄えていた場所で数多くのホテルや商業施設があり、夜遅くまで人通りが絶えない。

前回も思ったが、コンビニの多さに圧倒される。主にファミリーマートとセブンイレブン。それに地元資本らしいハイライフという店が混じる。この地域のどこにいても、グルリと周りを見回せば2件はコンビニが目に入る、そんな密度だ。

歩道や少しスペースのある所には露店が出ている。台湾風ホットドックや焼き鳥のようなもの、練り物、何かのスープ。漢字で書かれているので、ある程度中身は分かるが「猪血湯」といった文字を目にしても、それを額面通り受け取ってよいものかどうか迷ってしまう。

様々な業種の店舗が混ざり合ったエネルギッシュな街を西へ向かって歩いて行く。地図によるとこの先に「寧夏夜市(ニンシアイエシー)」という夜市があるらしい。

やっと食べることができた

街を歩くこと10数分、あたりの様子が変わってきた。明らかに向こう側に人ごみがあるのが分かる。さらに近付くと煌々と輝く看板群と共に人で溢れる通りが見えてきた。寧夏夜市である。

広めの通りの中央にぎっしりと飲食を中心とした屋台が並んでいる。そしてその後ろ側には通常営業している店舗が。

寧夏夜市メインストリート
人で溢れるメインストリート

夜市は人で溢れている。そして一見したところ地元の人が多そう。子供の姿も多数見られる。とはいっても、人が車道まで溢れ、なかなか先に進めなかった士林夜市のような混雑ぶりではない。自分のペースでじっくりと店を探す。

こういう時一人だと気が楽だ。子供が迷子になったり、奥さんが不機嫌になることを心配しなくても済む。若い頃から一人で知らない街を歩くのが好きだった。これだけ人がいて、僕のことを知っている人が一人もいない。群衆の中での孤独感、ネガティブな意味でつかわれることが多い言葉だが、時には味わってみたくなる。

数ある店の中から美味しそうな店を探し、牡蠣オムレツとビールを注文する。店にいる客は殆どが牡蠣オムレツを注文している。これが名物になっている店なのだろう。

牡蠣オムレツと台湾ビール
牡蠣オムレツと台湾ビール

しばらくして注文の品が到着。卵と小麦粉で作った生地の中に牡蠣と白菜。その上にとろみのある赤みがかったタレがかけられている。牡蠣は小ぶりのものが十数個入っている。日本ではあまり見られない大きさだが、生地と共に食べるには丁度よい。見た目から辛さを覚悟したタレは意外と甘い。

もっと刺激のある食べ物かと思ったら、毎日でも食べられるあっさりした味。日本のお好み焼きよりも胃に軽く、ビールとよく合う。数年来待ちわびた牡蠣オムレツにすっかりと満足し、私は店を出た。

時刻はまだ10時前。市場を端から端まで歩いてみる。長さ300mほどの一本道。南の方へ下ると、食べ物だけではなくおもちゃやゲームの屋台もたくさん見られる。子供たちが多数遊んでいる。この辺りの子供は夜10時になっても外出を許されているのだろうか。

地元の人はどんな気持ちなんだろう

にぎやかな夜市をただブラブラと歩く。店の種類の多さ、活気、店員のエネルギーに圧倒される。訳もなく笑顔になり、ワクワクしてくる。それはまるで寺社仏閣の縁日に、屋台がずらりと並んだ参道を歩いているような気分だ。1年に数回、ずっと心待ちにしてきた日。この時ばかりは多めにお小遣いを貰い、夜遅く帰っても許される日。そして僕は考える。

「地元の人は毎日どんな気分で過ごしているのだろう。今の僕みたいにモヤモヤも忘れ、ワクワクした気分なのだろうか?」

縁日は年に数日しかないハレの日。しかし、この夜市は1年中行われている。このエネルギーに溢れた状態がこのあたりの日常なのだ。この規模で毎晩開催される夜市、日本ではちょっと思い当たらない。

大都市の歓楽街の賑やかさなら日本も負けていない。でも、夜市とは何かが違う。日本の歓楽街は会社帰りに、またはわざわざ出かけて行って楽しんで、その後また時間をかけて家に帰る場所。ここの夜市は、住んでる場所から徒歩で行き、楽しんだらすぐに家に帰って寝る、そんな感じがする。

こんな場所が日常生活の中にあったらなあ、と思う。日々の生活の中で僕の中に起こる様々な感情のせめぎ合い。したいこと、行うべきこと、した方がいいからやっていること、やりたくないのにやっていること。一日の行動がいくつもの階層に分けられ、それに付随した心情とやり取りしながら、なんとか1日を過ごす。

そのように清濁混ざった自分の心と体を一度夜市の中に置いてみる。ここは奇麗すぎないし、汚すぎる場所でもない。そこで売られている煮物のように、多くのものがゴタゴタに混ざり合い、五香粉と言うのだろうか、独特のスパイスによって調和が保たれている。近代的なショッピングモールのフードコートにいるとなぜか疲れを感じる。その理由がここにいると分かる。

美しさを強制された感情、そう考えるべきという感情、うまく言い表せれないが、弱さや汚さが吐き出せないでいる時間が長いと疲労してしまう。フードコートは、衛生的で、広く認められていて、どこでも同じ味を楽しめる店で溢れている。間違いはない、でも僕はその正しさが時に重い。

華やかな夜市の裏側にある影。果物ジュースを売る主人が、笑顔で愛想を振りまきながら、一瞬見せる鋭い眼の光。売り場の後方から聞こえてくる口喧嘩。無造作に台に置かれるゆで豚の頭や内臓。明らかに身体が不自由な人が、行列の屋台の横で頭を地面につけてお金を乞う姿。

目をそむけたくなるが、確実に社会にあるもの。そしてこれからもあり続けるもの。

夜市の構造は人の心のそれに近いのではないか、そんな思いに至る。

ハレの日のようにワクワクでき、しかも複雑に絡まった心を解きほぐしてくれる。こんな夜市が近くにあれば私のモヤモヤはどれだけ軽くなりそうか。台湾に来てよかったと思う。