代替となる快楽を求めて

コロナショック サウナショック

妻に「サウナはしばらく止めておいたら」と告げられて2週間。彼女の言ったことの正しさを証明するかのように兵庫県内の感染者が増え続けている。

大阪と比べるとまだ少ないけれど、私の住む兵庫県南部は経済圏が大阪と一体化しており、府県の区分けにはあまり意味がない。阪急・阪神・JRと、一時間に数十本の列車が府県境を越えているし、職場が大阪であるの県民も普通にいる。

2か月前は対岸の火事であったこの災害も、中国では下火となっているものの、この国で不気味にそして急速に広がりつつある。まだテレビではニュース以外にもいろいろな番組を放送しているが、僕は個人的に「そんな状況じゃないだろう」という切迫感を感じている。実はそのあたりはTV局の人もわかっていて、逆に国民を恐怖に陥れないためにわざとユルい番組を多く放送しているのかもしれない。

妻にサウナを止められた直後は内心「サウナぐらい行ってもええやん。絶対大丈夫」と思っていたが、今では怖くて行くことができない。日増しに感染者が増え、県内の病院のひっ迫した様子が伝えられる。感染した患者の感想が新聞やネットから目に入る。「ガラスを肺に吸い込むような苦しみ」この表現を知って以来、吊革や手すりを触れなくなってしまった。

不要の外出はよくない、サウナに行くこともダメ、それはよく理解できる。しかしこの1年間、週に1~2度はサウナに通い続ける生活をしてきた。お酒を飲む量は変わらない。そのお酒で汚れた体を、サウナによる新陳代謝の向上できれいにする、医学的な知識は無いが、そんなイメージでサウナに通ってきた。

健康に関する理屈はともかく、水風呂の後の休憩はとにかく気持ちいい。心もきれいになっていくのがわかる。1週間の心身の疲労を3時間のサウナで回復させ、翌週も仕事を頑張る、そのサイクルが崩れてきた。

代わりになるものは

未曾有の危機に際して自分勝手な行動が許されないことは理解できる。だからスーパー銭湯が営業しているからと言って行ったりはしない。理屈ではわかるが、1年間続けてきた習慣が途切れると体が違和感を示し始める。

週末が近付くと「今週末はどこのサウナに行こうかな」と考え始める。いつもの癖だ。ぼんやりとした空想の後「今はコロナでそれどころではない」という現実にハッと我に帰る。

体がサウナに行きたくてウズウズしている。本当にサウナブームなのだろう、最近その手のTV番組が多いようで、妻が気を利かせてレコーダーに録画してくれている。しかし、見ると行きたくなるのであえて見ないようにしている。どちらにしても体はウズウズ、「大量に汗をかいて毛穴をスッキリさせたい」という声が聞こえてくる。

体と心は二つで1つ。体が不満を溜めていると気持ちもイライラしてくる。「サウナを知る前は行かなくても普通に過ごすことができていたのに」と思う。人生はうまくできている。何かを得れば何かを失う。サウナの快楽を知った今、サウナなしでも心穏やかに過ごせる週末を失ってしまった。

人生はプラマイゼロなのか?確かに、愛であってもお金であっても、気前よく与える人の所には、同じだけのものが返ってきているような気がする。出し惜しむ人には、何もやってこない。僕のこの日々モヤモヤした気持ちは、何と対になっているのだろう。仕事や家族に恵まれていること?平穏な人生?僕はそれらのことに恵まれているならもっと何かを外に出していかないと、つまり他人に施さないとこのモヤモヤは消えないのかもしれない。

たかがサウナのことだけど、やはり心と体の両方から責められると辛くなってくる。僕は代替となることを考え始めた。

確かこんなことを言ってたはず…

タナカカツキ氏の漫画「サ道」に熱めの風呂とベランダでの外気浴を繰り返し、サウナと同じように整う青年のお話があった。一瞬試してみようかと思ったが、思いとどまった。僕の体は、入浴よりもっと激しく汗をかくことを求めているように思ったからだ。

誰かの言葉が僕の頭の中に浮かんだ。

「ランニングして汗かいた後はメチャクチャ気持ちいい」

行きつけの立ち飲みにはマラソンが好きな常連が数人いる。おそらくその中の1人が言った言葉だろう。確かに、走り続けると大量に汗をかく。そのまま日陰など涼しいところに入れば、サ室と水風呂のようなギャップが生まれるかもしれない。それに”ランナーズハイ”という言葉もあるぐらいだ。うまくいけば、水風呂の後の”ととのいイス”に座っているような気持になるのかもしれない。

コロナは長引きそうな様子でサウナはしばらく無理っぽいけど、ヨーロッパのように外出まで厳しく制限はされていない。人の少ない場所を選んで走れば他人に迷惑をかけることも無い。僕はジャージに着替えて下駄箱から運動靴を取り出した。

サ室→水風呂→休憩、毎週サウナに通ううち、この時間配分はわかってきた。「ととのった!」がどれほどの状態かわからないが、今では毎回満足できるようになった。しかし、ランナーにとっての「ととのった!」=「ランナーズハイ」に関しては知識も経験もない。

体の声は「とにかく汗を大量にかきたい!」と言っている。「とりあえず汗かくまで走るか」そう思い、人気を避けて走り出す。しかし、これが難しい。つまり汗がうまく出ないのだ。

当初のイメージでは、15分ほど走り続けてサウナのように大量に汗をかき、その後日陰で体を冷やし寒気を感じたらまた走る、そんなことを考えていた。しかし、思ったほど汗が出てこない。どれぐらいのペースでどれぐらいの時間をかけ、体にどのように負荷を与えればいいのか見当がつかない。

結局、何もわからないまま40分ほど走り、それほど汗もかかず家へ帰った。途中、数多くのランナーとすれ違った。こんなにも走っている人がいるのかと思うぐらいだ。ただ苦しいだけなら人は走り続けないだろう。サウナと同様に、きっとランナーにとっての「ととのった!」があるのだろう。

サウナに行けない今、ランナーとしての「ととのった!」を味わってみたい、僕はそんな邪な気持ちでランニングを始めた。まだ何も見えてこない。しかし、体と心は何かを求めている。僕はこれらの声に耳を澄ましながらランニングを続けてみようと思う。

これからどうしよう

ボーダレスワールド

大学時代、僕は大前研一の本をよく読んでいた。当時世界的経営コンサルタントマッキンゼーのCEOとして世界中を飛び回りながら、彼は多数のビジネス書を執筆していた。交通や通信の発展は国境という概念を無くし、今まで世界を形作ってきた”Nation State”=「国民国家」が消滅していく、というような内容が多かったと記憶している。

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一番美しい空

宮崎の美しき女医さん

妻と「7ルール」の録画を観る。この番組は、素敵な女性が真摯に働く姿を見せてくれ、いつも見終わった後気分がよい。

先日、去年の秋に放送された宮崎のフライトドクターの活躍を見た。ドクターヘリに乗って救命を行う若くて美しい女医の姿に、妻の横にも関わらず、思わず「なんて奇麗な女性なんだ」と呟く。

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大人の義務教育…瓶ビール大

テレビはそれほど見ないが…

過去の記事を読み返していて「僕はテレビはあまり見ない」と言う割にはテレビから派生した話題が多いことに気が付いた。少し言い訳します。

確かに能動的にはそれほど多くの番組を見ない。大相撲・ニュース・タモリ倶楽部、たまに吉本新喜劇ぐらいである。しかし、考えてみると「受動的に見ている」番組はかなりある。

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怠惰な一日 自分を許す

ブログを書きながら自己嫌悪

前回の投稿「休日の焦り」を書きながら自分に対し悲哀を感じてしまった。心を整えるためのブログであるが、書いていて気づかされる自分の闇に心を乱されてしまう。これも上昇する前の底のようなものだと思いたいが、自分のことが嫌になってくる。

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休日の焦り

理想の休日

こういう一日を送ることができればモヤモヤを感じなくて済む、そんな休日について書いてみたい。

午前~正午

朝5時半に起床。お茶を沸かしながらアイロンをかける準備をする。お茶ができ上ると同時にアイロンも温まる。1週間分のシャツにアイロンをかける。ただかけるだけではない、TVでは撮りだめしていたNHK Worldの英語番組を流す。5~6枚のシャツにアイロンがけする間、30分番組を2本見る。

7時過ぎに朝食をとり、コーヒーを手にしてパソコンに向かう。ブログのネタをブレインストーミングした後、前日まで寝かしていたネタを読み返し、推敲したのちアップする。

8時から2時間は英語の学習時間。ラジオレコーダに録音していた「実践ビジネス英語」3回分を行い、その後は音読教材。時間が余れば洋書を読む。

一時間ほどバイクを動かしてくる。家から20分ほどのホームセンターへ行きブラブラ。途中スーパーで妻のお使いをする。

正午~午後(夕方まで)

昼食を食べる前、2種類の砥石を水に浸しておく。妻と一緒に簡単な昼食を作り、会話をしながら食べる。

妻が後片付けをする間、僕はベランダで包丁を丁寧に研ぐ。もちろん耳にしたイヤホンからは語学番組またはNHK第2の教養的な番組が流れている。

2時にNHK第2放送の英語ニュースを聞き、その後は部屋にこもりイタリア語と台湾語の学習を行う。イタリア語はラジオ講座のやり残し、終わればテキストを使って作文。台湾語はテキストを音読する。

3時になるころ気持ちがソワソワし始める。「サウナに行きたい」その心に従って行動すれば、その日はサウナ3時間 → 帰宅してビール → そのまま就寝、となる。

行かなかった場合大抵ウォーキングの時間となる。イヤホンを耳に1時間ほどかけて近所を早足で歩く。帰りがけに書店に立ち寄る。

夕方~就寝

夕食までの時間をどうするか。靴の手入れをするか、スーツにブラシを当てるか、バイクの手入れをするか。本当は全部行いたいのだが優先順位の高いものを行う。妻の「ご飯食べれるよ~」という声は「ご飯がもうすぐできるから準備を手伝って」という指令。作業を中断して素直に従う。

夜8時ごろ夕食。理想の休日について書いているので、今日はお酒は飲まない。夕食を終えて風呂に入り、熱いお茶を手に部屋へ入る。ウォーキングの途中で買った本を読むか、読みかけの本を終わらせるか、またはもう少し語学を頑張ってみるか。

今日もいろいろと中身が詰まったよい休日でした。

逃れられない呪縛

こうしてモヤモヤを感じないであろう休日について考えてみると気が付くことがある。ちなみに上に書いたような休日を過ごせることはないことはないが、非常にレアなケースである。2か月に1日あるかどうか、そんな感じだ。

では理想とどんな部分が違うのか箇条書きにしてみると。

・朝5時半に起きることができず、アイロンがけ+英語学習なしで朝ご飯となる。

・ブログを下げるつもりが、気が付けば1時間もネットサーフィンをしてしまう。

・3つの語学学習をするつもりができない。

・思わず昼寝をしてしまい、気が付いたら2時間ほど経っている。

・サウナに行った分、夜お酒を飲まずに読書や衣類の手入れをしようと思うが、飲んでしまい何もできなく1日を終える。

多くの休日は上のどれかのトラップにはまってしまい気持ちが不完全燃焼のまま終わってしまう。

私がモヤモヤを感じない休日の条件を抜き出すと、

1.3つの語学学習をバランスよくできる

2.家事や自分のものの手入れができる

3.運動と学習を一度に行う活動をする

4.何もしない”無駄な時間”がない

こうして書きながら思った。僕は仕事をしている時と同じメンタリティーで休日を過ごそうとしている。いや、仕事ではもう少しゆるい部分もある。仕事以上に”無駄”を出したくないという切迫感の中で休日を過ごそうとしている。

教養をつけること、語学を行うこと、運動をすること、身の回りのものを整えること、これらを1日の内に詰め込もうとして肩の力を入れて休みの日を迎える。

思うように語学ができなかった、バイクのエンジンを回してやれなかった、不覚にも昼寝をしてしまった、ネットをダラダラとみてしまった、そういった1つ1つのことがモヤモヤの原因となる。

自分で思っている以上に僕の心の闇は深く、自分で作り上げた呪縛に縛られまくり、苦しめられている様子がわかる。

何のための休日?

そんな僕でもたまには1日サウナに使ったり、呑み鉄活動をしたり、ツーリングに行ったり、”時間を無駄”に過ごすことがある。

しかし、そのような活動をしている時もこの”時間を無駄なことに使うなよ”という呪縛が常についてまわる。「今日は語学をしてないよ!」「運動何かしたか?」「仕事用の靴が汚れているんじゃないの?」そんな言葉が僕を追い立てて心から余暇を楽しむことができない。

時々そんな自分が嫌になってくる。なんのための休日なんだろう。

「休日は何も考えんとダラダラしたらええやん。それが休日やろ。それがあるから仕事頑張れるんとちゃうん」

僕の内なる声はそう言っている。確かにその通りだ。すぐ使うあてのない複数の語学をやって何になる。スーツや靴が少し汚れていても僕以外の誰も気にしていない。本は無理して読むものではなく、読める時に読んだらいい。少しぐらい体やバイクを動かさなくてもそんなに変わらない。

自分の中にある「~するべき」という呪縛が自分を苦しめる。そして、頭の固さが「~するべき」から「~しなくてもええやん」への変化を阻害している。

僕は頭でっかちで観念的な人間なのだと思う。幸せの形にしても感じるのではなく考えてしまう方だ。感じたことを考えてみるのではなく、考えたことを感じようとするから苦しいのだと思う。

休日の過ごし方にしても、考えた通りに過ごせたら心が楽になる。過ごせなかったら罪悪感を感じる。そして僕の理想の休日のハードルはものすごく高い。自分で自分に呪いをかけるようなことをしていると思う。

自分に対してこんなに厳しい接し方をしている僕を他人が見たらどう思うのだろう。他人に対しても、知らず知らずのうち同じようなことを求めているかもしれない。そうなれば自分は本当に嫌な人間だ。

自分に対してもっと甘く接する、少し怠惰でも許してあげる。せめて休みの日ぐらいはこんな気持ちでいたい。頭で考えず、体の声を聞き、それに従って1日過ごしてみよう。次の休日はそうする。

大相撲 無観客試合

”寂しいなあ~”

1月場所で徳勝龍が感動的な優勝を果たした時、僕は生まれて初めて大相撲を生で見てみようと思った。3月場所は大阪開催なので仕事を半日休めば行くことができる。2月初旬からチケット販売となったが、僕の場合この時期には仕事の休みが確定しない。場所が始まり休みが取れたら当日券を目指して並ぼうと思っていたところ無観客開催が決まった。

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人は年をとっていくものだ オジー レミー

1995年冬 ロンドン

1995年の3月、僕は初めて海外旅行を行った。成田からブリティッシュエアーの直行便で着いたロンドンヒースロー空港が、海外第1歩を踏み出した場所。

ロンドンに5日ほど滞在し、ユーロスターでフランスへ渡り、そこからは予定を決めず一月かけてヨーロッパを旅した。

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兵庫の雄「神戸サウナ」で初サ活

サウナイキタイ

サウナがブームになっていると言われてしばらくたつが、最近本当に様々な場面にサウナが登場する。新聞・雑誌・ネット・テレビ、どのメディアであっても「水風呂」や「ととのう」がキーワードになってることが多い。

サウナーの第一人者タナカカツキ氏の教えが広まっているということだろう。水風呂の恐怖をクリアすることで整いへの道筋が見えてくる。彼の「サ道」に背中を押された人々が、未体験の快感を知り、サウナブームをけん引しているように思える。

ネットが発達し世の中は便利なもので、今や食事から買い物まで街へ出かける前にネット上の評価をチェックするのが現代人の習慣になりそれはサウナも例外ではない。サウナに関しても多くの記事がネットに溢れているが、検索上で群を抜いているのが「サウナイキタイ」というサイトである。

青色の背景に白地で書かれているそのサイトのシンプルなロゴは一目見るなり水風呂で気持ちよくなる状態を連想させ、気持ちをサウナへと誘う秀逸なデザインだ。そして、僕はそのサイトの意図通りに、新しいサウナに行く前このサイトを閲覧してしまう。

「サウナイキタイ」では全国のサウナの基本情報に合わせて、サウナー達のサ活状況や訪問への希望が数字として表示される。そして、それらの数字から読み取ると僕が住んでいる兵庫県でダントツに人気がある施設が神戸市中央区にある「神戸サウナ」だ。

サ活を始めてもうすぐ1年になろうとしているが、僕は神戸サウナ未訪問だった。距離的には簡単に行くことができる施設なのだが、もっとサ道に精通してからという思いに加えて「ここで整わなかったらどうしよう」という思いがブレーキをかけていた。

しかし「過去への執着と未来への不安」がモヤモヤの大きな原因になっていることを自覚し、僕は「今」を何も考えずに楽しむことにした。結果はどうだっていいじゃないか、今このひと時にぶつかっていくことが大切、幾分大仰な気持ちになって僕は神戸サウナへ向かった。

M君と仕事のご褒美

今回のサ活には後輩M君が一緒だ。今年度もお互いに仕事をよく頑張った。僕はさておき少なくともM君はそうだった。働き過ぎのサラリーマンへのささやかなご褒美としてのサウナ+昼飲み。僕らは今年中には取り切れないほど残った有給休暇の1日を取り、働いている世間様をよそに昼間からいい気分になろうと計画をした。

朝10時、現地で待ち合わせをして入館。初めての施設なのでシステムに少々戸惑う。受付・ロッカーのある6階は半ズボンの館内着、サウナのある7階、食堂と休憩施設の8階は上下の館内着が基本らしい。

僕たちは館内着に着替え、携帯と本を手に7階へ向かう。昼前の浴室は10名ほどの客入り、ゆっくりとジャグジーに浸かり洗い場で全身をきれいにする。

それにしても周りで働いているスタッフの動きが気持ちいい。浴槽の湯を抜き、力を込めてブラシで擦る。洗い場の椅子の裏まできれいに磨いている。ウェルビー栄店の時もそうであったが、スタッフがこの施設を大切にしている姿がわかる。名サウナに気持のこもったスタッフありだ。

メインサウナでは20分毎にロウリュが行われる。こんな施設は多分他にない。M君にとって人生初めてのロウリュ。僕はその場面に立ち会う。

柄杓でアロマ水を3回サウナストーンへと注ぐ。レモンのよい香りと程よい熱気に全身が包まれ汗が噴き出てくる。一通り熱波師が風を送った後、お代わりの受付が始まる。ここでのお代わりは回数を10回まで指定できる。M君はお代わりなし、僕は5回風を送ってもらい、体が十分温まったところで露天スペースへ出る。

仕事もサウナも飲み込みの早いM君

M君は今までサウナのセッション意識したことが無い。つまり、サ室→水風呂→ととのい椅子という過程を行ったことが無かった。僕はせっかくのサ活を有意義なものにするために、彼に前もってマンガ「サ道」を読ませておいた。

「水風呂は入ろうと思ったことはなかったんですが挑戦してみます」素直な彼の予想通りの反応に僕は微笑む。

ここ神戸サウナの水風呂の水温は11.7度。そこら辺のスーパー銭湯には無い値だ。サ室から露天スペースに出た我々2人は適度に冷たいかかり湯の後、そのまま11.7度の世界へ。

「ウォーー」と思わず声の出る冷たさ。膝を抱えて丸くなり熱の羽衣につつまれるが、2分もしないうちに手先足先に痛みを感じ始める。心臓の鼓動が「ドクドク」と体中に伝わってくる。普段の半分ほどの水風呂タイムで外へ出る。

白い木製のしっかりとした整い椅子に全身をあずけ、何も考えずに空を見上げる。すぐ隣の建設中のビル、組まれた鉄骨の上をとび職のお兄さんたちが歩き回っている。なぜだがわからないがそうやって働いている人に感謝をしたくなってくる。

M君は目をつむり「頭が軽くなって重い」と呟いている。なんだか深いセリフだ。その意味を訪ねると、気持ちよくて頭の中がスッキリと軽くなったため物理的な頭の質量が前景化して首が重さを感じている状態だそうだ。

「これがおっしゃってたサウナの世界なんですね。なんて気持ちいいんだ」半分目を閉じた恍惚の表情でM君が言う。前回のブログでも書いたが、仕事の飲み込みが早く才能のあるM君、サウナに関しても僕なんかより数倍のスピードでその神髄を吸収しているようだ。やはり若い時代の苦労の差、それを基にした世界観の違いなのか。

生涯第1セッションにして手掛かりをつかんだ彼に対し、半分誇らしく半分羨ましい気持ちを持ちながら僕はこの施設を堪能した。

昼飲みを忘れてしまうほどの時間の速さ

僕たちは思い思いのまま過ごした。

露天の横のフィンランドサウナではセルフロウリュができる。そして、その入り口には水に浸かったヴィヒタが。サ室内にはもう1人僕と同じ年齢層の男性がいる。思わず目が合ったので「ロウリュしていいですか?」と切り出す。

「どうぞ」の声を合図に木製の柄杓でアロマ水をサウナストーンに優しく注ぐ。1杯、2杯、するとその男性が立ち上がりタオルを手にして室内の空気を循環させ始めた。ゆっくりの室内を歩きながらタオルをぶんぶん回しながらできたばかりの蒸気を攪拌させてゆく。無言での共同作業によって体感温度が上がる。

再びサウナマットに座り再び二人の目が合う。「ありがとう」と無言でお礼。向こうもそう言っているのがわかる。この人と同じ空間を共にするのは生涯で最初で最後かもしれない。長い人生でほんの数分間のサウナ好き同士の関係。心地よい空間を共有し、いい汗かいて水風呂で気持ちよくなる。「一期一会」という言葉が浮かんでくる。

サウナに入り、サ飯を食べ、休憩室で読書をしながら微睡む。再びサウナに入り休憩。お互いにだらりだらりと過ごすうちに時間は矢の速さで過ぎていく。3時間ほどサウナで過ごし昼過ぎから飲む予定であった我々の計画は、気が付けば普通の夜の飲み会になってしまっていた。

阪急電車高架下の居酒屋で、グラスを傾けながらM君は言う。「今日は本当にいい思いをさせていただきました。サウナに入ってお酒飲んでご馳走食べて、罪悪感を感じるぐらい幸せです。」

相変わらずM君は幸福へのハードルが低い。確かに良い一日だったがM君の表情を見ていると、僕なんかより数倍の多幸感につつまれているのがわかる。

彼は幼少時代から苦労をしてきたが、それに向き合いながら懸命に生きてきた。おそらく僕が同じ立場ならグレていた、そんな環境だ。しかし、彼はまともに成長し、しっかりを仕事をし、幸せを感じている。

「人生プラスマイナスゼロ」そんな言葉が浮かんでくる。苦労した人はそれだけ小さなことにも幸せを感じることができ、苦労を知らない人間は幸せを感じる感度が下がってくる。その感度センサーの精度が人間の幸福を調節しているのかもしれない。そして僕は間違いなく今まで苦労をしてこなかったグループ、つまり感度センサーが鈍い部類に含まれている。

しかし、僕は幸せの総量とセンサーについてゼロサムではないと思いたい。今まで苦労らしい苦労をしてこなくても、センサーの精度を上げることはできる。そして、こうやって気持ちを文章に表すこともその調整の1つであると信じてブログを続けていきたい。