君たちが全て悪いわけではない
今日、約300名の生徒たちの前で話す機会があった。タイトル2つのうち一つは「君たちが全て悪いわけではない」。スマホ依存に対して考えてもらう内容であった。
子供達にこの話題を話そうと思ったきっかけは、こども家庭庁が行った調査の結果であった。高校生がネットを利用している平均時間、1日あたり6時間44分だという。
10年前なら「1週間の間違いではなかろうか」そんな疑念も浮かんでいたであろうが、毎日生徒たちの行動を目にしながら「多いけどありうるな」と今は思える。
私は生徒たちに、どうしてこれほど便利で面白いゲームやアプリが無料で公開されているのか考えさせた。経済が発達し、一通りの必需品が皆に行き渡った後に、企業は何から利益を得ようとしているのか話をした。
時間はお金になる。1分、1秒でも多く、人々がスマホの画面に釘付けになれば、それだけ広告や商品を売るチャンスが増える。だから世界中で有能な人たちが、いかに人々の目を画面に向かわせるか知恵を絞る。
巧妙に構築されたアルゴリズムが、「そろそろ他のことやろうか」と思う子供達の前に、興味あるもう一つの動画を提示する。普通の高校生で、この誘惑に勝てる意志を持つことは難しい。
置き場所が決められていた大きなモニターのデスクトップパソコンとはわけが違う。トイレでも布団の中でも、子どもたちは場所を選ばずにネットの世界につながることができる。
授業中にトイレに行く生徒が最近増えた。時代の流れもあり、それを止めることは今の教師にはできない。たとえスマホを見たくてそうするのだとわかっていてもだ。
「トイレに行かせてください」と言ってくるだけまだマシなのかもしれない。授業中であっても怪しい動きをする生徒たちは多い。私も授業を止めたくない。見て見ぬふりをすることもある。内心怒りに震えながらもだ。
「スマホを取り上げたら暴れ出した」
保護者からこんな話を聞くこともある。子供たちの使い方を見ていたらそれもありうると思った。
かつて1学年全体、360人でよしもとのステージを見に行ったことがある。漫才の途中で、私のクラスの一人が突然気がふれたように声を上げてばたつき始めた。観客の視線がステージからその少年へと移った。
彼は、ポケットにスマホが入っていないことに気づきパニックになったのだ。芸人たちは、彼の動きを即興のギャグにして笑いをとった。私は生徒にとってスマホがどれほどの存在なのかを感じた。
変化
「授業に来る前、今日スマホを家に忘れたことに気がついた」
そんな話をすると、生徒たちは笑いながらも引いた表情を見せる。「このおっさんは何時代の人」というような顔つきだ。
実際に私はよくスマホを家に忘れたまま職場へ向かっていた。ipodを使っていた頃の話である。私は毎朝電車でBBCニュースを聞くことにしているのだ。今は、iPhoneのポッドキャストを使っているので忘れることはない。
それでも、私がスマホの画面を操作するのはBBCなど語学関係と、LINEなどメッセージのやり取りをするぐらいである。だから生徒たちが、スマホで何に時間を取られているのか理解も共感もすることができない。
私が子供と接する中で感じているのは、この十数年間に、明らかに高校生の学力が低下していることである。読書の量、家庭学習の習慣、課題提出率、いずれも右肩下がりである。
それらがスマホの利用と関係しているのかどうか、私は科学的な調査を読んだわけではない。しかし、こども家庭庁の数字が本当だとすると、真っ先に疑われる要素はスマホであろう。6時間半も時間を取られているということは、学校にいる間以外はほぼスマホをいじっていることになるからだ。
育ち盛りで吸収力のある青少年から、毎日6時間以上を奪い続けてこの国は将来大丈夫なのかと、私は思ってしまう。私は社会の資料集で見た清のアヘン中毒患者の写真を思い出した。
痩せ細り、立って歩くこともできないが、それでもアヘンを吸い続けなくてはならない。そのアヘンが、現在ではスマホに取って代わったように思えるのである。アヘンのように健康を劇的に損なうものではないかもしれない。しかし、一日6時間半のスマホ利用は、高校生たちの人生を破壊する力があると思う。
そんな思いを生徒たちに語り、スマホとどう付き合うのか考えてほしいと締め括った。私なりの解決策はあるのだが、時間がなかったので、それは次回話す機会があれば伝えると言った。
異常なのは誰
こども家庭庁の調査は未成年を対象にしたものであったが、スマホに依存する状態は彼ら特有のものではない。
通勤途上のホームで、電車の中で、食堂や喫茶店で、ほとんどの人がスマホを手にする時代になってしまった。横断歩道が赤信号なら、一緒にいる人がトイレに行けば、エレベーターを待つ間、ほんの少しの時間があれば人々はスマホを取り出す。何もしていない時間はスマホに埋められている。
私は時々思う。スマホに釘付けになっている人が異常なのではなく、こんな時代でもスマホをほとんど使わない私の方が異常ではないかと。字面で言えば異常とは「常とは異なる」。今や完全に常なのはスマホ依存者である。
私が低下したと嘆く「学力」についてもそうである。私が学力について考える時、無意識に因習的なそれ、つまり頭の中に多くのことを詰め込む形に思いが至る。
しかし、現在では知識はクラウドに保存され、いつでも瞬時に検索することができる。記憶しそれを取り出すことに焦点を当てるのなら、現在では人間はネットの足元にも及ばない。
知識は頭に入れなくてよいし、外国語も習得しなくてもコミュニケーションは取れる。そんな中、スマホに振り向きもせずに紙の本を読み、苦労しながら語学を続ける私の方こそ”異常”な存在なのかもしれない。
ポストスカラシティ(post-scarcity)という時代の到来が予言されている。高度に発達したAIやロボットにより人間の労働が代替され、人々はほとんど働かなくても生活に困らなくなる、そんな時代だという。
それが本当であるのならスマホに依存した生活をしていたところで、大した問題にならないだろう。それがその人にとって幸せなことなら、じっくりとその世界に浸ればよい。
異常な方の私は、そんな時代が来たとしてもアヘン中毒患者のようになるのは嫌である。たとえ”異常”と呼ばれようとも、あんな小さな四角い画面を1日6時間も見続ける人生は嫌だと、今のところは思っている。