いつもの駅で
4月も下旬に入り少しづつ暖かくなってきた。今年はコロナウィルスのため、花見も何もなく休日もほぼ家でじっとしている。そのため季節を感じる機会も少ないが、それでも通勤途中でツバメの姿を見た時は心が弾んだ。
「ああ、また今年もツバメの巣作りの季節がやってきたか」そう思いながら最寄り駅へと向かう。駅の周りにも何羽かツバメが飛び回っている。「例年ここに巣を作る」はずである場所を見てみると、そこは長い針のついたゴム製のマットで覆われていた。
“ツバメの巣 とげとげ” の続きを読む幸せについて考えてみよう
4月も下旬に入り少しづつ暖かくなってきた。今年はコロナウィルスのため、花見も何もなく休日もほぼ家でじっとしている。そのため季節を感じる機会も少ないが、それでも通勤途中でツバメの姿を見た時は心が弾んだ。
「ああ、また今年もツバメの巣作りの季節がやってきたか」そう思いながら最寄り駅へと向かう。駅の周りにも何羽かツバメが飛び回っている。「例年ここに巣を作る」はずである場所を見てみると、そこは長い針のついたゴム製のマットで覆われていた。
“ツバメの巣 とげとげ” の続きを読む3ヵ月前は中国の国内問題だと思っていた今回のコロナウィルス騒動、その主戦場はヨーロッパからアメリカへと移った。日本でも不気味な増え方をしている。多くの発展途上国からは詳しい情報が伝わってこない。
日々入ってくるニュースで経済のことが語られる。株価が下落したとか、GDPがマイナスになるとか、多くの会社が倒産するとか。それと共に、大気がきれいになったとか石油の消費量が減ったという知らせも入ってくる。
経済と環境、両方のニュースを聞いていると、もともと悲観主義者の僕は「人間はどうしようもない袋小路に入り込んでしまったのではないのか」という新たなモヤモヤの種を抱えてしまう。
“経済と環境 「仁義なき戦い」を思い出す” の続きを読むお酒を飲んだ後、気持ちよくグラスを置き、歯磨きをして、パジャマに着替え、「おやすみ」と家族へ言って寝室へ向かうことは・・・めったにない。
大抵は飲みかけのグラスをテーブルに置いたまま、歯を磨くことも無く、服もそのままでソファーかこたつで眠ることになる。
その日もだらしなく酔っぱらったままこたつで眠っていると、妻に肩をたたかれた。「いびきがうるさくてTVが見られない」。妻は子供たちと出川哲郎の「充電させてもらいませんか」を見ている。
半分寝ぼけた僕の耳にTVから懐かしい曲が聞こえる。
“四半世紀を経て突然意味が分かった” の続きを読む妻に「サウナはしばらく止めておいたら」と告げられて2週間。彼女の言ったことの正しさを証明するかのように兵庫県内の感染者が増え続けている。
大阪と比べるとまだ少ないけれど、私の住む兵庫県南部は経済圏が大阪と一体化しており、府県の区分けにはあまり意味がない。阪急・阪神・JRと、一時間に数十本の列車が府県境を越えているし、職場が大阪であるの県民も普通にいる。
2か月前は対岸の火事であったこの災害も、中国では下火となっているものの、この国で不気味にそして急速に広がりつつある。まだテレビではニュース以外にもいろいろな番組を放送しているが、僕は個人的に「そんな状況じゃないだろう」という切迫感を感じている。実はそのあたりはTV局の人もわかっていて、逆に国民を恐怖に陥れないためにわざとユルい番組を多く放送しているのかもしれない。
妻にサウナを止められた直後は内心「サウナぐらい行ってもええやん。絶対大丈夫」と思っていたが、今では怖くて行くことができない。日増しに感染者が増え、県内の病院のひっ迫した様子が伝えられる。感染した患者の感想が新聞やネットから目に入る。「ガラスを肺に吸い込むような苦しみ」この表現を知って以来、吊革や手すりを触れなくなってしまった。
不要の外出はよくない、サウナに行くこともダメ、それはよく理解できる。しかしこの1年間、週に1~2度はサウナに通い続ける生活をしてきた。お酒を飲む量は変わらない。そのお酒で汚れた体を、サウナによる新陳代謝の向上できれいにする、医学的な知識は無いが、そんなイメージでサウナに通ってきた。
健康に関する理屈はともかく、水風呂の後の休憩はとにかく気持ちいい。心もきれいになっていくのがわかる。1週間の心身の疲労を3時間のサウナで回復させ、翌週も仕事を頑張る、そのサイクルが崩れてきた。
未曾有の危機に際して自分勝手な行動が許されないことは理解できる。だからスーパー銭湯が営業しているからと言って行ったりはしない。理屈ではわかるが、1年間続けてきた習慣が途切れると体が違和感を示し始める。
週末が近付くと「今週末はどこのサウナに行こうかな」と考え始める。いつもの癖だ。ぼんやりとした空想の後「今はコロナでそれどころではない」という現実にハッと我に帰る。
体がサウナに行きたくてウズウズしている。本当にサウナブームなのだろう、最近その手のTV番組が多いようで、妻が気を利かせてレコーダーに録画してくれている。しかし、見ると行きたくなるのであえて見ないようにしている。どちらにしても体はウズウズ、「大量に汗をかいて毛穴をスッキリさせたい」という声が聞こえてくる。
体と心は二つで1つ。体が不満を溜めていると気持ちもイライラしてくる。「サウナを知る前は行かなくても普通に過ごすことができていたのに」と思う。人生はうまくできている。何かを得れば何かを失う。サウナの快楽を知った今、サウナなしでも心穏やかに過ごせる週末を失ってしまった。
人生はプラマイゼロなのか?確かに、愛であってもお金であっても、気前よく与える人の所には、同じだけのものが返ってきているような気がする。出し惜しむ人には、何もやってこない。僕のこの日々モヤモヤした気持ちは、何と対になっているのだろう。仕事や家族に恵まれていること?平穏な人生?僕はそれらのことに恵まれているならもっと何かを外に出していかないと、つまり他人に施さないとこのモヤモヤは消えないのかもしれない。
たかがサウナのことだけど、やはり心と体の両方から責められると辛くなってくる。僕は代替となることを考え始めた。
タナカカツキ氏の漫画「サ道」に熱めの風呂とベランダでの外気浴を繰り返し、サウナと同じように整う青年のお話があった。一瞬試してみようかと思ったが、思いとどまった。僕の体は、入浴よりもっと激しく汗をかくことを求めているように思ったからだ。
誰かの言葉が僕の頭の中に浮かんだ。
「ランニングして汗かいた後はメチャクチャ気持ちいい」
行きつけの立ち飲みにはマラソンが好きな常連が数人いる。おそらくその中の1人が言った言葉だろう。確かに、走り続けると大量に汗をかく。そのまま日陰など涼しいところに入れば、サ室と水風呂のようなギャップが生まれるかもしれない。それに”ランナーズハイ”という言葉もあるぐらいだ。うまくいけば、水風呂の後の”ととのいイス”に座っているような気持になるのかもしれない。
コロナは長引きそうな様子でサウナはしばらく無理っぽいけど、ヨーロッパのように外出まで厳しく制限はされていない。人の少ない場所を選んで走れば他人に迷惑をかけることも無い。僕はジャージに着替えて下駄箱から運動靴を取り出した。
サ室→水風呂→休憩、毎週サウナに通ううち、この時間配分はわかってきた。「ととのった!」がどれほどの状態かわからないが、今では毎回満足できるようになった。しかし、ランナーにとっての「ととのった!」=「ランナーズハイ」に関しては知識も経験もない。
体の声は「とにかく汗を大量にかきたい!」と言っている。「とりあえず汗かくまで走るか」そう思い、人気を避けて走り出す。しかし、これが難しい。つまり汗がうまく出ないのだ。
当初のイメージでは、15分ほど走り続けてサウナのように大量に汗をかき、その後日陰で体を冷やし寒気を感じたらまた走る、そんなことを考えていた。しかし、思ったほど汗が出てこない。どれぐらいのペースでどれぐらいの時間をかけ、体にどのように負荷を与えればいいのか見当がつかない。
結局、何もわからないまま40分ほど走り、それほど汗もかかず家へ帰った。途中、数多くのランナーとすれ違った。こんなにも走っている人がいるのかと思うぐらいだ。ただ苦しいだけなら人は走り続けないだろう。サウナと同様に、きっとランナーにとっての「ととのった!」があるのだろう。
サウナに行けない今、ランナーとしての「ととのった!」を味わってみたい、僕はそんな邪な気持ちでランニングを始めた。まだ何も見えてこない。しかし、体と心は何かを求めている。僕はこれらの声に耳を澄ましながらランニングを続けてみようと思う。
大学時代、僕は大前研一の本をよく読んでいた。当時世界的経営コンサルタントマッキンゼーのCEOとして世界中を飛び回りながら、彼は多数のビジネス書を執筆していた。交通や通信の発展は国境という概念を無くし、今まで世界を形作ってきた”Nation State”=「国民国家」が消滅していく、というような内容が多かったと記憶している。
“これからどうしよう” の続きを読む妻と「7ルール」の録画を観る。この番組は、素敵な女性が真摯に働く姿を見せてくれ、いつも見終わった後気分がよい。
先日、去年の秋に放送された宮崎のフライトドクターの活躍を見た。ドクターヘリに乗って救命を行う若くて美しい女医の姿に、妻の横にも関わらず、思わず「なんて奇麗な女性なんだ」と呟く。
“一番美しい空” の続きを読む過去の記事を読み返していて「僕はテレビはあまり見ない」と言う割にはテレビから派生した話題が多いことに気が付いた。少し言い訳します。
確かに能動的にはそれほど多くの番組を見ない。大相撲・ニュース・タモリ倶楽部、たまに吉本新喜劇ぐらいである。しかし、考えてみると「受動的に見ている」番組はかなりある。
“大人の義務教育…瓶ビール大” の続きを読む前回の投稿「休日の焦り」を書きながら自分に対し悲哀を感じてしまった。心を整えるためのブログであるが、書いていて気づかされる自分の闇に心を乱されてしまう。これも上昇する前の底のようなものだと思いたいが、自分のことが嫌になってくる。
“怠惰な一日 自分を許す” の続きを読むこういう一日を送ることができればモヤモヤを感じなくて済む、そんな休日について書いてみたい。
朝5時半に起床。お茶を沸かしながらアイロンをかける準備をする。お茶ができ上ると同時にアイロンも温まる。1週間分のシャツにアイロンをかける。ただかけるだけではない、TVでは撮りだめしていたNHK Worldの英語番組を流す。5~6枚のシャツにアイロンがけする間、30分番組を2本見る。
7時過ぎに朝食をとり、コーヒーを手にしてパソコンに向かう。ブログのネタをブレインストーミングした後、前日まで寝かしていたネタを読み返し、推敲したのちアップする。
8時から2時間は英語の学習時間。ラジオレコーダに録音していた「実践ビジネス英語」3回分を行い、その後は音読教材。時間が余れば洋書を読む。
一時間ほどバイクを動かしてくる。家から20分ほどのホームセンターへ行きブラブラ。途中スーパーで妻のお使いをする。
昼食を食べる前、2種類の砥石を水に浸しておく。妻と一緒に簡単な昼食を作り、会話をしながら食べる。
妻が後片付けをする間、僕はベランダで包丁を丁寧に研ぐ。もちろん耳にしたイヤホンからは語学番組またはNHK第2の教養的な番組が流れている。
2時にNHK第2放送の英語ニュースを聞き、その後は部屋にこもりイタリア語と台湾語の学習を行う。イタリア語はラジオ講座のやり残し、終わればテキストを使って作文。台湾語はテキストを音読する。
3時になるころ気持ちがソワソワし始める。「サウナに行きたい」その心に従って行動すれば、その日はサウナ3時間 → 帰宅してビール → そのまま就寝、となる。
行かなかった場合大抵ウォーキングの時間となる。イヤホンを耳に1時間ほどかけて近所を早足で歩く。帰りがけに書店に立ち寄る。
夕食までの時間をどうするか。靴の手入れをするか、スーツにブラシを当てるか、バイクの手入れをするか。本当は全部行いたいのだが優先順位の高いものを行う。妻の「ご飯食べれるよ~」という声は「ご飯がもうすぐできるから準備を手伝って」という指令。作業を中断して素直に従う。
夜8時ごろ夕食。理想の休日について書いているので、今日はお酒は飲まない。夕食を終えて風呂に入り、熱いお茶を手に部屋へ入る。ウォーキングの途中で買った本を読むか、読みかけの本を終わらせるか、またはもう少し語学を頑張ってみるか。
今日もいろいろと中身が詰まったよい休日でした。
こうしてモヤモヤを感じないであろう休日について考えてみると気が付くことがある。ちなみに上に書いたような休日を過ごせることはないことはないが、非常にレアなケースである。2か月に1日あるかどうか、そんな感じだ。
では理想とどんな部分が違うのか箇条書きにしてみると。
・朝5時半に起きることができず、アイロンがけ+英語学習なしで朝ご飯となる。
・ブログを下げるつもりが、気が付けば1時間もネットサーフィンをしてしまう。
・3つの語学学習をするつもりができない。
・思わず昼寝をしてしまい、気が付いたら2時間ほど経っている。
・サウナに行った分、夜お酒を飲まずに読書や衣類の手入れをしようと思うが、飲んでしまい何もできなく1日を終える。
多くの休日は上のどれかのトラップにはまってしまい気持ちが不完全燃焼のまま終わってしまう。
私がモヤモヤを感じない休日の条件を抜き出すと、
1.3つの語学学習をバランスよくできる
2.家事や自分のものの手入れができる
3.運動と学習を一度に行う活動をする
4.何もしない”無駄な時間”がない
こうして書きながら思った。僕は仕事をしている時と同じメンタリティーで休日を過ごそうとしている。いや、仕事ではもう少しゆるい部分もある。仕事以上に”無駄”を出したくないという切迫感の中で休日を過ごそうとしている。
教養をつけること、語学を行うこと、運動をすること、身の回りのものを整えること、これらを1日の内に詰め込もうとして肩の力を入れて休みの日を迎える。
思うように語学ができなかった、バイクのエンジンを回してやれなかった、不覚にも昼寝をしてしまった、ネットをダラダラとみてしまった、そういった1つ1つのことがモヤモヤの原因となる。
自分で思っている以上に僕の心の闇は深く、自分で作り上げた呪縛に縛られまくり、苦しめられている様子がわかる。
そんな僕でもたまには1日サウナに使ったり、呑み鉄活動をしたり、ツーリングに行ったり、”時間を無駄”に過ごすことがある。
しかし、そのような活動をしている時もこの”時間を無駄なことに使うなよ”という呪縛が常についてまわる。「今日は語学をしてないよ!」「運動何かしたか?」「仕事用の靴が汚れているんじゃないの?」そんな言葉が僕を追い立てて心から余暇を楽しむことができない。
時々そんな自分が嫌になってくる。なんのための休日なんだろう。
「休日は何も考えんとダラダラしたらええやん。それが休日やろ。それがあるから仕事頑張れるんとちゃうん」
僕の内なる声はそう言っている。確かにその通りだ。すぐ使うあてのない複数の語学をやって何になる。スーツや靴が少し汚れていても僕以外の誰も気にしていない。本は無理して読むものではなく、読める時に読んだらいい。少しぐらい体やバイクを動かさなくてもそんなに変わらない。
自分の中にある「~するべき」という呪縛が自分を苦しめる。そして、頭の固さが「~するべき」から「~しなくてもええやん」への変化を阻害している。
僕は頭でっかちで観念的な人間なのだと思う。幸せの形にしても感じるのではなく考えてしまう方だ。感じたことを考えてみるのではなく、考えたことを感じようとするから苦しいのだと思う。
休日の過ごし方にしても、考えた通りに過ごせたら心が楽になる。過ごせなかったら罪悪感を感じる。そして僕の理想の休日のハードルはものすごく高い。自分で自分に呪いをかけるようなことをしていると思う。
自分に対してこんなに厳しい接し方をしている僕を他人が見たらどう思うのだろう。他人に対しても、知らず知らずのうち同じようなことを求めているかもしれない。そうなれば自分は本当に嫌な人間だ。
自分に対してもっと甘く接する、少し怠惰でも許してあげる。せめて休みの日ぐらいはこんな気持ちでいたい。頭で考えず、体の声を聞き、それに従って1日過ごしてみよう。次の休日はそうする。
1月場所で徳勝龍が感動的な優勝を果たした時、僕は生まれて初めて大相撲を生で見てみようと思った。3月場所は大阪開催なので仕事を半日休めば行くことができる。2月初旬からチケット販売となったが、僕の場合この時期には仕事の休みが確定しない。場所が始まり休みが取れたら当日券を目指して並ぼうと思っていたところ無観客開催が決まった。
“大相撲 無観客試合” の続きを読む