レアな経験(宮崎編・後編)

カレーを少し

仲人さんと城下町巡りの旅を始めて4年、昨日はその中でも1、2を争うほどの充実した日になった。何しろ3つの城に加え、博物館と伝統的建物保存地区を訪問できたのだ。さらに、近世とは関係ないので書かなかったが、新田原の航空基地も見ることができた。

このように学びが多く充実した日を送ると、私はすこぶる機嫌がよくなる。だから、昨晩飲んだ焼酎は本当に美味しかった。気分がよくなりすぎて、思わず飲みすぎてしまった。

二日連続で寝る前の記憶を無くし、目を覚ますと二日酔いだった。仲人さんと7時に待ち合わせて朝食会場へ向かったが、食欲がほぼない。なんとか名物のカレーを少しだけ腹に入れ、あとはジュースを流し込む。仲人さんは、普段通りのにあれこれ食べている。私より一回り以上年長とは思えない健啖家ぶりである。

8時過ぎにホテルをチェックアウトして延岡駅まで歩く。今日はレンタカーも飛行機も使わない。3本の列車を乗り継ぎ神戸まで帰る計画を立てた。延岡から神戸まで鉄道で移動、世の中の9割方の人々は持たない発想であろう。

もう1日レンタカーを借りて観光し、夕方宮崎空港から伊丹まで帰れば効率よく宮崎を堪能できる。わざわざ時間をかけて三角形の二辺を鉄道で通る必要はない。

しかし、私の旅はそうじゃなくてはならなのだ。移動の道中にこそ旅の醍醐味がある。時間の制約で片道は飛行機でも、もう一方は陸路を味わいたい。幸いなことに私の仲人さんは、私のこの硬い頭の良き理解者である。

ホテルから15分ほどで駅に到着する。モダンな建物の駅である。宮崎県北部中心都市の駅であるが、思ったより人が少ない。駅の規模に対して改札口のゲートがわずか2つ。

かつては福岡はもとより、大阪や東京に行くのにもここから旅立った。「富士」「彗星」「高千穂」という名の列車たちがそれらの街を直接結んでいた。今はほとんどの列車が、北は大分、南は宮崎空港を発着するにすぎない。

私たちは4両編成の「にちりん」に乗り込み大分を目指した。

揺られながら

席に着くと仲人さんがすぐに日本酒の小瓶と紙コップを取り出した。昨晩の辛麺の後、コンビニで買ったまま封を開けていないものだ。私はその辺りの記憶がほとんどない。

仲人さんは普段通りのペースでコップを口に運ぶ。二日酔いの私は、ペットボトルの水を飲みながら、文字通り舐めるように日本酒を舌にのせる。

宮崎延岡間とは逆に、ここから先は鉄道が山の中を、高速道路が海沿いを通る。平地から離れた山の中を、鉄路は標高を上げていく。通過する駅に人気はない。線路状態が悪く、よく揺れる。ほとんど飲んでいないのに、酔っている気分になる。

延岡から佐伯までのこの区間、普通列車に限ればJR全線でも有数の閑散区間である。県境にある宗太郎駅は秘境駅として知られている。二人でスマホの地図をたどりながら、この区間を抜けていった。

佐伯からは海沿いを走る。豊後水道を眺めながらしばらく進む。海岸線にそって敷かれた線路、開業当時と同じルートであろう。昨日の耳川橋梁でも思った。地方の鉄道インフラは、主要幹線であってもなかなか改良されない。

途中コンテナ列車とすれ違う。延岡に向かう列車だ。日豊本線で貨物の取り扱いがある駅は、延岡と西大分のわずかに二駅。県都の宮崎や第二の都市都城ですら貨物列車が走っていない。国全体のインフラとして鉄道のことを考えてほしいと、私が思わない日はない。

大友宗麟

20年ぶりに大分駅のホームに降り立つ。かつてはなかった立派な駅舎や、それに付随する商業ビルが立っていた。佐賀を除く九州各県庁所在地の駅前は、国鉄民営化後大きく変わった。その主役はJR九州の不動産開発である。この会社が株式公開できた背景には、本業である鉄道以外のこの存在が大きい。

大分では大友氏の館跡と府内城址を見学予定である。観光案内所で地図を手にして、まずは線路沿いを東へ歩く。鉄道高架の北側の土地には新しい建物が連なっている。高架前の線路や施設跡である。

土地は時の経過とともにその姿を変えていく。かつての荒地が田畑となる。それが鉄道開通と共に線路や鉄道施設に変わり、高架によって建物に変わっていく。私ちが訪問した南蛮BVNGO交流館も同様である。

鉄道高架化による再開発で建物を壊し土地を掘り返したところ、そこから大きな石が出てきた。建物の立つ前、そこには田畑があった。もともと大分川上流からの堆積物によって作られた土地である。そこに大きな石があるのは不自然である。

考えられるのはそこに屋敷の庭があり、庭石があったこと。大友宗麟の屋敷の正確な位置は不明であったが、この発見で場所が確定し、発掘が今でも続いている。敷地の一部に交流館が建てられた。

この交流館、主な見どころはスクリーンによる歴史解説であった。施設も小ぶりで展示品も少ない。人の入りも多くなかった。それだけに、私たちは係員を独占することができた。床にプリントされた大きな大分市街の写真を囲んで、私たちは質問し続けた。

日本史が専門の仲人さんがいるため、私たちの質問のレベルは、一般の観光客のそれより高いのであろう。係の方は「待ってました」とばかりに力を入れて、詳しく説明をしてくれる。入館無料の施設で、私たちは大学一時間分の講義を受けたような気持ちになった。

戦国時代に生きた大友宗麟は、キリシタン大名として有名である。ポルトガルの王から「BVNGOの王」と呼ばれていたことをここへ来て初めて知った。駅前にも立派な銅像が建てられ、ここ大分では別格の扱いを受けていることがわかる。

大友氏は徳川の世を待たずに大分を去り、府内城は別の大名の居城となる。私たちはここから府内城まで徒歩で移動することにした。

優先度が低い

現在は県都として栄える大分も、江戸時代はわずか2万石の小さな藩であり、大分川を超えると臼杵藩の領地だったという。前日の佐土原や高鍋もそうであったが、そのような小さな藩が多数存在していた理由が、私にはよくわからない。

現在、グーグルマップを使えば地球上のほとんどの地域でその様子が手に取るようにわかる。昔の人からすると、神の視座を手に入れたようなものだ。

自分の住み地域の向こうに何があるのか、それがどんな形でどこまでつながっているのか確かめる術のなかった江戸時代、その頃の人々の感覚に近づこうとするが、私の頭の中の地図が邪魔をする。頭を真っ白にして、タイムマシンで200年前のここへやってきたら何が見えるのだろうか。

県庁近くを北へ向かう道が、車道を挟んで公園のようになっており、そこに多数の銅像が並べられている。大分にゆかりのある人物たちである。しかし、公園の手入れが今ひとつで観光地にはなりきれていない印象を受ける。

同じことはその突き当たりにある府内城跡でも感じた。堀を渡り、期待して大手門から入った我々が目にしたものは、大きな駐車場であった。遊歩道や看板が整備されているわけではなく、殺風景な平面が広がっていた。

府内にはかつて四層の天守閣があり、その復元を目指す動きもあると聞いたが、大分県にとって府内城の整備はまだまだ優先順位が低いように感じられた。

私たちは北側の天守跡を見学し、内堀の西半分をぐるりと歩いて大分駅方面に向かった。いろいろなことを考えながら歩いた。私はもっと見応えのある府内城跡を期待していた。

しかし、整備された城跡とはなんなのだろう。綺麗に遊歩道を作ったとしても、それは令和の人工物である。天守閣を再現したとしても、名古屋城のような精密な記録が残っているわけではない。「街の一部として使われている城跡も、それはそれでよくて、あとは想像力の範疇かも」歩きながらそう思った。

ソニック・のぞみ

今回の旅も終わりが近づいてきた。あとは列車を乗り継いで神戸に帰るだけである。ソルマックとポカリスエットのおかげか、私の肝臓も回復してきた。私たちは、駅構内の立ち飲みに入り、焼き鳥とビールを友に旅を振り返った。

反省会は列車に乗ってからも続いた。高崎山の下をくぐり、別府の街を眺め、国東半島を横切り、中津の城下町を通り過ぎる。だらだらと目に映るものについて、二人は知っていることを語り、知らないことを尋ねる。

途中、列車は駅館川を横切った。「やっかんがわ」と読むらしい。こういう発見ができるのも陸路で移動する喜びである。「それが何の役に立つのだ」と聞かれれば何も言えないが、私たちはそういうことが心地よいのである。

江戸時代に長崎街道の起点となった常盤橋を確認して、私たちは小倉へ到着した。かしわ飯とハイボールを何本か購入し、のぞみに乗り換える。大分の焼き鳥から始まり、私たちは昼食か夕食かわからないような飲んでは食ってを続けている。

新幹線の中では次回の話になった。候補は秋田と山形である。私はこの二県に別々に行くことを提案した。また、片道は列車の旅にしてもよいか確認した。どちらも快諾を受けることができた。

次回はいつレアな経験ができるのか。私はあと2年は忙しい日が続くことが確定している。2年後からは、決まった給料が入ってこない状態になる。できれば、仕事や農作業の合間を縫い、2年以内にこれらの県を一緒に旅しておきたい。それに、仲人さんには旅を急いだ方がよい理由もある。

さまざまな思いが浮かび上がってくるが、それは私にとってこの学んで飲んでの旅が楽しくて仕方がないからである。私たちは、新神戸駅で再会を約束して別れた。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。